4月25日 1
4月25日(木)
膨大な資料の山に埋もれながら、珠洲は調書を読みあさっていた。
彼女は義虎の命により、三十三年前に東京駅で起きた乳児遺棄事件について調べているのだ。
数冊の調書を並べ、頬づえをついた右手で前髪をグシャグシャといじりながら、口の中でブツブツ呟き続けている。
「午後六時三十八分、東京駅地下の縦須賀線ホーム付近のコインロッカーで、生後間もない新生児が発見された。発見したのは、外出先から帰宅途中の主婦。トイレに寄った際、ロッカーから聞こえてくる泣き声に気付き、駅職員に通報。赤ん坊はロッカー内にバスタオルでくるまれた状態で入れられていた。遺留品はそのバスタオル一枚きり。赤ん坊の腹には、口紅で「順也」という名前が書かれていた。へその緒はついたままの状態で、出産直後に遺棄されたものと見られているが、バスタオルにも血の跡がなく、きれいな状態だったという。ロッカーの鍵だけは見つからず、おそらく乳児を遺棄した者が持っているものと思われる。遺棄した者の目撃情報はなし……」
珠洲は調書から顔を上げると、小さくため息をつきつつ両手で疲れた目を覆った。
「この件からたどるのは難しいだろうな」
遺留品もなければ、目撃情報もない。何より、事件から三十三年もたってしまっている。もし目撃者がいたとしても、その事実を忘れてしまっている可能性が高い。
「遺伝子検査の結果が開示されれば早い話なんだけどね……」
珠洲は肩をすくめると、大きなため息をついた。
この件を調査するにあたり、珠洲は神代家側に、十六年前の遺伝子検査の結果を開示するよう請求した。だが、まだ紺野秀明の遺伝子検査の結果が出ていない以上、彼が東純也かどうかは確定していないため、万が一そうでなかった場合、関係者のプライバシーを不当に侵害してしまう恐れがあるとして、開示を拒否されたのだ。
かくして、義虎の事件解明への強い意向を受けた珠洲は、神代家側には調査に気づかれないようにしながら、まるで殺人事件の調査のように、関係者への聞き込みやアリバイ調査などを地道に積み重ねて真実に近づかなければならなくなった。鬼子の居所の調査もしなければならいのに、なんとも面倒な話である。
とりあえず、東純也が出生した三十三年前、神代一族の中で妊娠が可能な年齢に達していた女性を割り出し、その女性の中で妊娠していた者や、内密に出産した可能性があるものを調べ出すしかない。性別や年齢で対象人数はある程度絞られるため、そこまで捜索範囲を広げなくても済むはずだ。
――三十三年前?
唐突にある事実に思い当たった珠洲は、思わず吸っていたたばこを取り落としそうになり、慌てて灰皿にそのたばこを押しつける。
確か神代総代は、今年の五月で三十三歳になるはずだ。そして、あの「東順也」も、あの事件がなければ三十三歳……。
――東純也が順調に育っていれば、神代総代と同い年?
珠洲はきつく眉をひそめると、無意識に親指の爪を噛んだ。
――いったいどういうことだろう、この符合は……。
総代の名前は「亨也」。この男の腹に書かれていたのは「順也」。似ていると言えば似ている。この男は、相当に高い異能力を有するという。しかも、神代家の男で異能を有するのは、総代のみ……。
――いや、まさかね。
珠洲は慌てて妄想を打ち消すと、自嘲気味に笑う。
神代総帥が双子を生んだなどと言う事実は、ない。あるわけがない。彼女は神代の病院で出産している。もし万が一双子を出産していたとして、その存在を隠蔽しきれる訳がない。神代京子は強力な異能を有するが、神代の病院には当時も複数の異能力者が働いていた。もし出産した赤子を転送するために異能を発動しようものなら一瞬で感知されて終わるわけで、どう考えても不可能だ。第一、東純也は十六年前に遺伝子検査を行い、一般人との混血という結果が出ている。十六年前も同様の疑念は出ただろうし、だからこそ大きな問題になったし、それは遺伝子検査という科学的手法で既に解決しているのだ。何を今さらという話だろう。
くだらない妄想を頭の中から追いやると、珠洲は改めて考え直しはじめた。
「……そうか、魁然裕子の足取りだ」
魁然裕子は玲璃を出産したあと、出産祝い金として渡された一千万円とともに姿を消した。一年後、再び姿を現したのがあの男がいたあの高校。それまでの間に彼女は何を知り、何を意図してああした行動に出たのか。それを調べれば、何か手がかりが掴めるかもしれない。
そう考えて、ふと暗い気分になった。
――そうなると、父様にも聞かなければならないかな。
珠洲は、魁然珠子の実子である。順番から言えば、本当は彼女が総代として生まれてくるはずだった。だが、生まれてきたのはほとんど能力を持たない珠洲だった。順番がどこかで狂ったのだ。傍系から珠子と同等の濃度を持つ者をしらみつぶしに捜し出したところ、魁然裕子に行き当たった。そのとき、義虎は三十九歳。四十歳までに子種を植え付けなければ、総代という存在は生まれない。婚姻という正規の手続きを踏まず、義虎は裕子と交わった。そして生まれてきた子は、対外的には珠子の子として育てられることとなったのだ。
そこまでは、珠洲も魁然家の子である。きちんと知らされている。それが一体何のために行われたのかも含めて。
珠洲は父親の行動を理解しているつもりではある。玲璃のことも、複雑な事情を背負って生まれた年の離れた妹として、本当の娘とは異なる接し方をせざるを得ない珠子に代わり、できるだけ優しく接してきた。だが義虎のしたことは、世間一般の常識から見れば明らかに人の道に外れている。母親である珠子の心情を思うと、納得できない思いが残るのも確かだ。そんな父親の行状から目をそらしたい自分がいることも、珠洲は承知していた。
☆☆☆
制服姿の寺崎は、紺野の病室の扉にかかっている「面会謝絶」の札を、しばしぼうぜんと眺めていた。
――昨日、歩いてた、よな。
昨日あんな別れ方をした関係で、紺野に会うのは正直言って気が重かった。だが、病院に気軽に行かれない玲璃の代わりに紺野の容体をチェックするという任務を思いついたのは自分だ。自分で決めた仕事なのだから、なんとしてでも遂行するべきだ。せっかくそう思い直して、重い足を引きずってここまで来たというのに、いきなりの面会謝絶である。戸惑うのも無理はなかった。
「あら寺崎くん、ご苦労さま」
その声に寺崎が振り向くと、カルテを抱えてにこやかにほほ笑む神代沙羅の姿があった。ただ、にこやかではあるのだが、目の下にはくっきりしたクマができていて、心なしかお疲れのご様子に見える。
「あの、面会謝絶って……」
おずおずと尋ねた寺崎に、沙羅はため息をつくと、やれやれと言いたげに首を振った。
「たいへんだったんだから。おかげで寝不足よ」
「何がすか?」
「ずーっと監視してたの、一人にすると発作的に死のうとするっていうから。一晩中つきあったわよ」
寺崎は言葉を失って沙羅を見つめた。
「あ、この面会謝絶はしばらく続くかも。熱が下がらないのよ。傷の負担と、精神的なものもあるのかしらね。解熱剤も効かなくて」
「紺野は、今……」
「明け方から意識はっきりしないから。さすがに自殺する心配だけはないみたい」
――精神的な負担……。
寺崎の脳裏に、申し訳ないと謝りながら土下座していた、紺野の震える背中が浮かぶ。
紺野は、許してくださいとは一言も言わなかった。許してもらえるとは思っていないとも言った。いつだったか、死ねるなら嬉しいとも言っていたような気がする。追い詰められた紺野の、危うい精神状態がうかがい知れる気がした。
寺崎は意を決したように顔を上げると、正面から沙羅に向き直った。
「沙羅先生、昨日どんな話があったんすか?」
沙羅は眉を上げると、意外そうに背の高い寺崎を見上げた。
「寺崎くん……知りたい? 結構ヘビーだけど」
「教えてもらえませんか。総代を学校でガードする上で、必要な情報だと思います」
「それもそうね」
沙羅は頷くと、差し出された寺崎の手に自分の手を重ねた。
「ちょっと覚悟した方がいいわよ。私も夕べは、何も食べられなかったから」
意味ありげな笑みとともにそう前置きをしてから、沙羅は昨日の紺野の話を送信し始めた。
寺崎の頭に、想像を絶する壮絶な光景が繰り広げられ始める……。