4月24日 2
紺野はふらふらする足取りでエレベーターに乗った。
長かった。時間が、というわけではない。せいぜい三十分かそこらのことだ。だが、あの時のことをこんなにも長く、事細かに思い出させられたことはなかった。思い出すのもおぞましい、あの記憶……そして、自分のしてしまった、全てのことを。
エレベーターに乗ると、壁にもたれかかり、目を閉じる。過呼吸の後遺症か頭が割れるように痛く、息をするのも鬱陶しい。もう何も考えたくなかった。
紺野は分かっていた。自分は意識的にあのことを語らなかった。語ることができなかった。それが一番苦しかったのだ。
東順也という名を出した時点で、その事実はおそらくあそこにいた誰もが知っていることだ。改めて話すまでもないのかもしれない。だが、本当は語るべきだったのだ。包み隠さず、自分の犯してしまった罪の全てを。そう思うからこそ語れなかった自分が、ただひたすら厭わしかった。
エレベーターを降り、よろめきながら自分の病室に向かう。松葉杖をつくのも、足を踏み出すのもつらい。なんだか背中がぞくぞくする。また熱でも出ているのだろうか……。
ふと、紺野は目線の先に、見覚えのある人物が立っているのに気がついた。
男は病室の入り口の扉に背を預けて俯いていたが、紺野の視線に気づいたのか、ゆっくり顔を上げて首を巡らせる。
寺崎だった。
紺野は、寺崎の表情が暗く、こわばっていることに気づいて歩みを止めた。
寺崎は尖った目でじっと紺野を見つめていたが、おもむろに背中を扉から離すと、紺野の方に歩み寄ってきた。動けずにいる紺野の目の前まで来ると、そこでぴたりと足を止める。
重苦しい沈黙が、人気のない廊下にたたずむ二人の間に流れる。
ややあって寺崎は口を開いた。低く、押し殺したような声だった。
「おまえは……東順也なのか?」
鼓膜を貫いたその言葉に、紺野は目を見開いて息を呑んだ。
寺崎は瞬ぎもせず、俯き加減の紺野の茶色い髪を高い位置から見下ろしている。夕刻の斜光に照らされて金色に透けるその髪は、体の微かな振動を伝えてわずかに揺れているようだった。
ややあって、紺野は小さく頷いた。
「……はい」
「おまえは……」
寺崎は爆発しそうな感情をおさえつけているのか、呼吸を乱して言葉を止めた。険しい目つきで紺野を睨み下ろしながら、震える両手を爪が食い込むほど堅く握りしめる。
寺崎は吸い込んだ息をいったん止めてから、叫ぶように言葉を発した。
「おまえが、あのマンションをぶっ壊したのか⁉」
紺野の体が、その言葉に打たれたかのようにびくりと震える。
「……答えろ」
押し殺したような声で寺崎が催促するも、紺野は俯いている顔を上げずに黙っている。松葉杖を握りしめるその手が、はた目にもはっきりわかるほど震えてる。
しばらくは無言で立ち尽くしていた紺野だったが、ややあって、重い鎖を引きずるように口を開いた。発した声はかすれて、震えていた。
「はい、僕が……」
いったん言葉を切ると、渇ききった喉に唾液を送り込み、呼吸を整える。
「僕が、……やりました」
その言葉が紺野の口から発された、瞬間。ハッとする間もなく、寺崎の手は紺野の襟首をつかみ上げていた。
松葉杖が手から離れて転がり落ち、軽さのある乾いた音が静かな病院の廊下に響き渡る。
「何でだ⁉ 何でそんなことをしたんだ! 答えろ!」
寺崎は紺野の襟首を揺すり、震える声で叫びながら、血走った目で紺野を睨み据える。
暗い怒りと恨み、憎悪。そして深い悲しみに満たされた、目。紺野は射すくめられたように、その目から視線を動かせない。
「紺野!」
「僕は……」
言いかけるも、思い直したように口をつぐむ。
――言い訳してどうする? 何があろうと、自分があのマンションを破壊した事実は変わらない。あのマンションに住む三百八十四人の生命を奪った事実も、変わらないんだ。
「……申し訳、ありません」
振り絞るような、声。
「本当に、もう何を言っても、許していただけるとは思っていません。ただ、本当に、申し訳なく思っています」
寺崎は耐え切れなくなったように紺野の襟首をふりほどいた。勢いでよろけた紺野は、そのまま崩れ落ちるように土下座をすると、床に頭をすりつけんばかりにして平伏した。
「申し訳、ありませんでした……」
寺崎は何も言わなかった。震える拳を握りしめ、足元で土下座をする紺野の背中を睨み下ろしながら、微かにその唇を戦慄かせている。
やがて、寺崎はかすれた声を絞り出した。
「……俺に謝ってもらってもしょうがないんだ。おふくろは、おまえのために両足を失った。おやじはおふくろをかばって、死んだ。謝るんなら、この二人に謝ってくれ!」
吐き捨てるようにこれだけ言うと、寺崎は踵を返した。そのまま、早足でエレベーターホールの方へ歩き去る。
寺崎の姿がエレベーターホールに消えた後も、紺野は廊下に平伏した格好のまま、動かなかった。
☆☆☆
沙羅がおおかたの仕事を終えたのは、九時をまわった頃だった。
巷でも良く言われているように、勤務医の勤務実態は過酷の一言に尽きる。明日の出勤時間を考えると、急いで帰って休まなければ体が持たない。これだからいまだに独り身なのだと心中ため息をつきつつ、だからといって血眼になって婚活したいとも思わない。沙羅は亨也と同じ職場で、同じ空気を吸いながら過ごす今の状況がそれなりに気に入っているのだ。
だが、その幸せに間もなく終わりが来ることも、沙羅は知っている。
急ぎ足で廊下を歩いていた沙羅は、ふと紺野の病室の前で足を止めた。
脳裏をよぎる、紺野の過去……気弱そうで線の細いあの外見からは想像もつかない、凄まじい内容だった。あんな過去を掘り返されれば、過呼吸に陥るのも無理ないだろう。尋問が終わった後はいくぶん落ち着いたように見えたが、体調は落ち着いたのだろうか。帰宅前に確認しておこうかと、沙羅はノックをして、そっと病室の扉を開けた。
病室の中を見た沙羅は、大きくその目を見開いた。
ベッドには、誰もいなかった。ベッドサイドに、手のつけられていない夕食がぽつんと置いてあるだけだ。
――逃げた?
沙羅は弾かれたように廊下に飛び出した。
転移の気配は一切感じなかった。ということは、まだ病院内にいるはずだ。沙羅は意識を研ぎ澄ませて一帯に探索をかけながら、小走りで廊下を進む。
と、明かりが消えた談話室の入り口に一対の松葉杖が立てかけてあるのが目に入った。
談話室に走り込んだ沙羅は、息を呑んで動きを止めた。
紺野がいた。長椅子の背にもたれかかるようにして、斜めになって座っている。軽く横を向いている顔の半分を長い前髪が覆い、目が隠れてしまっているため、起きているのか眠っているのかよく分からない。逃亡を企てていると思い緊張していたためか、憔悴しきったその姿はなんだか意外で、沙羅は幾分拍子抜けしつつ声を掛けた。
「……紺野さん?」
他の職員の手前、一般の患者に対するのと同様の態度で呼びかける。だが、紺野からは何の反応もない。
「どうしました? 紺野さん」
違和感を覚えた沙羅は、肩に手をかけて軽く揺すぶってみる。と、その手に意外なほどの熱さを感じて、沙羅ははっとした。慌てて顔にかかっている茶色い髪をかき分けて額に手をあて、それから首筋に触れてみる。熱い。かなりの熱だ。
と、体に触れられてようやく気がついたのか、紺野が薄く目を開いた。
「あなた、何だってこんなところにいるの! 病室に戻りなさい」
意識がはっきりしないのか、紺野は声を荒げた沙羅をぼんやりと見上げていが、ややあって、小さく頭を下げた。
「すみません……一人で病室にいると、まずいと思って……」
「……まずい? どういうこと?」
沙羅が訝しげに眉根を寄せると、紺野は目を閉じて薄く笑った。
「悪い癖が、今のこの状態だと、多分、……出る」
「癖?」
紺野は小さく頷いた。
「死にたがる、癖……」
点滴の際に見たものを思い出し、沙羅はハッと言葉を飲み込んだ。
「本当は、死ねないのに、死んでは、まずいのに……、誘惑に勝てないときが、あるんです。今、一人になると、多分……やらかす」
「……だから、ここに?」
紺野は頷いた。
「人の目があれば、抑えられる。……ここは、夜でも人の気配があるのが……助かります」
そういって力尽きたように目を閉じている紺野を、沙羅は半ばぼうぜんとながめやった。
――どういう人なの。
沙羅は鼻でため息をつくと、紺野の隣に座った。気配に気づいて薄く目を開けた紺野の腕を、無言で自分の肩にまわす。紺野は目を丸くすると、困惑したように口を開いた。
「あの……?」
「あたしが、いてあげるから!」
「……?」
戸惑う紺野に構わず、強引に長椅子から立ち上がらせながら、沙羅は怒ったように吐き捨てる。
「誰かがいなきゃダメっていうのなら、あたしが一晩いてあげる。とにかく、その熱でこんなところにいれば、本当に死ぬわよ。そうなったら、あんたを預かった神代のメンツが立たないでしょう!」
そう言うと、有無を言わせず紺野を引きずって歩き始めた。