4月23日 2
この日は、一日中気持ちの良い快晴だった。開け放った窓から吹き込む春の爽やかな風が、廊下に置かれた長椅子に座る玲璃の頬をふわりと撫でてゆきすぎる。
玲璃は退院の支度を整え、送迎役の護衛とともに退院手続きが終わるのを待っているところだった。
享也には学校に行っても問題ないと言われたのだが、安全な場所でもう少しゆっくり休んだ方がいいと義虎に強く勧められたのだ。玲璃としては早く退院して学校に行きたかったのだが、最近になって立て続けに事件に巻き込まれている関係上、父親の心配も理解できる。今回は大人しく父の意向を汲み、この日一日は学校を休んで、午後に退院することにしたのだった。
だが、退院時は運悪く窓口が込み合っていた。書類を提出してからもう随分待っているのだが、待てども待てども手続きが終わる気配がない。
出迎えは、送迎役の護衛が二人と、車の運転手が一人。運転手は車で待機し、一人が退院手続きをしている間、玲璃の傍にもう一人の護衛がつくという感じで役割分担をしていたが、手続きの終了を待ちきれず、付き添い役の護衛が青い顔でトイレに行きたいと申し出てきた。聞けば、朝から腹具合が悪かったそうだ。こんなに長く待たされるとは思わなかったのだろうと気の毒に思いつつ、玲璃は申し出を快く了承した。
ペコペコ頭を下げながらトイレに向かう護衛を見送り、一人になった玲璃は、退屈しのぎに携帯でも見ようかとカバンを探った。
「……あれ?」
手提げカバンの、どこを探しても見あたらない。そういえば病室の枕元の引き出しに入れっぱなしにして忘れていたことを思いだし、玲璃は青くなった。護衛が戻るのを待とうかとも思ったが、ここに一人でいるのも携帯をとりに行くのも変わりはない。すぐに戻ってくれば大丈夫だろうと、玲璃は急ぎ足でエレベーターホールに向かった。
エレベーターホールにはたくさんの人がいた。この間の騒ぎで、使えるエレベーターが一基少ないせいだろう。案の定、エレベーターは満員状態だった。ほとんど各階停止で進んでいたが、八階まで来るとさすがに多くの人が降り、箱の中の人数が減ってきた。
「開」ボタンを押して乗降の様子を見ていた玲璃は、ふと、廊下を歩く人々の向こうに茶色い頭がちらりと見えた気がして、はっとした。
――紺野?
反射的に、玲璃はエレベーターを飛び降りていた。
廊下に飛び出し左右を見渡すと、右手の廊下の先に、松葉杖をついてゆっくり進む茶色い髪の男の後ろ姿が見える。
――確かに紺野だ。
玲璃はごくりと唾を飲み込むと、意を決したように足を踏み出した。
松葉杖なので、紺野の歩みは遅い。すぐに追いつき、あと数メートルの所まで来たところで、玲璃は思い切って口を開いた。
「紺野」
松葉杖の男――紺野はピタリと歩みを止めると、怪訝そうな表情を浮かべて振り返った。紺野と玲璃の目線がピッタリと重なる。
瞬間。玲璃の背筋を、電流が貫いたような、悪寒とも快感ともつかない例の感覚が一気に駆け上がった。体中の皮膚が粟立ち、思わず息をのんで硬直する。
紺野の方も、何か感じるものがあったのだろうか、目を見開いて動きを止めた。
二人はそのまましばらくの間、病院の廊下の真ん中で、黙り込んで向かい合っていた。
最初に口を開いたのは、玲璃だった。
「……あの、……おふろにでも、入ったのか?」
思いがけない質問だったのだろう。紺野は虚をつかれたような表情を浮かべると、濡れて束になっている前髪に目をやり、それから、おずおずと頷いた。紺野が自分の問いかけに答えを返してくれたことが嬉しくて、玲璃は顔をほころばせた。
「そうか。そんなことができるくらい回復したんだな。本当に良かった」
そう言うと、玲璃は表情を改めて居住まいを正し、深々と頭を下げた。
「この間は、助けてくれて……ありがとう」
唐突な礼の言葉に、状況がつかめないのか、紺野は戸惑ったような表情を浮かべている。玲璃は慌てて説明をつけ加えた。
「エレベーターが墜落した時だ。あの時、おまえが私を助けてくれたんだろう?」
紺野は答えなかった。じっと黙って玲璃を見つめている。固まりかけている空気をほぐそうと、玲璃はさらに付け加えた。
「おおごとになったのを気にしているなら、大丈夫、おまえは何も気にすることはないから。誰一人けが人は出ていないし、あの破壊は私を殺そうとした能力者の責任だし、なにより、おまえは私を助けてくれたんだ。感謝こそすれ、非難されるいわれはなにもない」
それでも紺野は何も言おうとしなかった。ただ、自分を見つめる紺野のまなざしにふと何かの感情がよぎった気がして、玲璃は首をかしげた。
「……どうした?」
自分より少しだけ背の低い紺野の顔をのぞき込むように、玲璃が身をかがめた、その時。
「魁然総代!」
廊下に、鋭く高い女性の声が響いた。
ドキッとして振り返ると、向こうから、白衣を着た髪の長い女性医師……神代沙羅が小走りで駆け寄ってくる姿が見える。玲璃は慌てて紺野から距離をとった。
沙羅は息を切らせながら二人の傍まで来ると、呆れたような表情を浮かべてため息をついた。
「こんなところで何をしているんですか? この男には近づいてはならないと、総帥があれほど……」
「わかってます。わかってはいて……ただちょっと、どうしてもこの間のお礼が言いたかっただけなので……お願いします、父様には、このことは内緒にしてください! ごめんなさい、失礼しました!」
沙羅の返事を待たずに深々と頭をさげると、玲璃はあたふたと踵を返し、小走りでエレベーターの方に行ってしまった。
沙羅は肩をすくめると、無言でその後ろ姿を見送っている紺野に、低い声で問いかける。
「余計なことは言っていないわね」
紺野は頷くと、松葉杖をついて歩き始めた。沙羅も黙ってその後に続く。
病室に入り、横開きの戸を閉めると、紺野は松葉杖を置き、疲れ切ったようにベッドに横になった。
沙羅は枕元に歩み寄ると、リクライニングベッドのリモコンを手にした。
「このあと、総代の回診の予定があるの。眠らないで待っていてちょうだい」
そう言うと、リモコンを操作してベッドを起こした状態にする。紺野はされるがままに上体を起こした体勢にさせられたが、特に文句を言うでもなくぼんやりと手元を見つめている。
その顔をまじろぎもせず見つめていた沙羅だったが、何を思ったのか、突然紺野の顎を右手でつかみ、俯いていたその顔を強制的に上向かせた。
紺野は驚いたように目を丸くしたが、拒否したり抵抗したりする気配もなく、されるがままに上向かされている。
沙羅はその顔をじっと見つめてから、何を思ったのか、濡れた前髪にフッと息を吹きかけた。
次の瞬間、まるでドライヤーを吹きあてたような高温の風が紺野の顔に吹き付けてきた。思わず目を閉じたその一瞬で濡れた前髪があっという間に乾き、おずおずと目を開いた紺野の顔に、乾いた前髪がサラサラとかかる。
その顔を、沙羅は興奮しきったような顔でじっと見つめた。
――似てる。
沙羅はごくりと唾を飲み込んだ。
そう。彼は似ていたのだ。彼女がひそかに思いを寄せている人物、神代享也に。
神代一族は特有の共通した外見を有しているため、これまでも時おり違和感は覚えていたものの、紺野が神代の血を引いているせいだろうと大して気に留めてはいなかった。だが、清潔になって改めて見てみると、驚くほどよく似ているのだ。沙羅は享也と同じ高校に通い、彼の学生時代の様子をよく覚えているのだが、ふとした拍子にあの頃の享也の面影が重なって見えるほどだった。
沙羅は亨也のいとこにあたる。血族婚の縛りがある以上、享也と結ばれることは絶対にない。だが、彼女は昔から、冷静で明晰、しかも神代一族随一の異能を有し、それでいて朗らかで飾らず温和な亨也に、ほぼ恋愛感情に等しい強い憧れを抱いていた。そんな相手に外見が酷似しているうえに、同レベルの異能まで有しているとくれば、興味をひかれるのは当然だろう。沙羅は、高ぶる感情を抑えきれない様子で、口の端を引き上げた。
「……あなた、ほんとうに何者なの?」
一方、顎をつかまれて上向かされている紺野は、沙羅の行動の意味が分からないらしく、戸惑ったような表情を浮かべながら、その熱い視線から逃れるように目線をそらしている。
沙羅はその顔を無言で見つめていたが、ふいにぺろりと唇を舐め上げると、何を思ったのか、開きかけた紺野の口に自分の唇を押し当てた。
「……!」
息を飲み、瞬きも呼吸も停止して凍りつく紺野に構わず、唇を押し開いて舌を絡める。紺野が顔をそむけて逃れようとするも、顎をつかんで強引に引き戻し、思う存分口中を蹂躙しつくす。ややあって、沙羅はようやく満足したように口を離した。目を見開いて表情をこわばらせている紺野に満足げな笑みを投げると、顎をつかんでいた手を放して立ち上がる。
「具合が悪いから仕方がないけど、もうちょっとちゃんと歯を磨いた方がいいわね。免疫力が落ちてる時は虫歯になりやすいから」
その言葉に目を丸くして、あわてて口元を抑えた紺野に軽く右手を上げると、沙羅は悠然と病室を出て行った。
台風一過のような静けさに包まれた病室で、紺野は沙羅が去った戸口をぼうぜんと眺めやっていたが、やがて疲れ切ったように息をつくと、ベッドに背をあずけた。
シャワーに入る程度のことですら、体力の落ちている今の紺野にはかなりの重労働だ。体が疲れ切っていたところに、いきなりあんなわけのわからない行動をされれば、強すぎる刺激に精神が摩耗するのも道理だった。
だが、実を言えば紺野の消耗の主たる原因は沙羅ではなかった。
紺野の脳裏には、先ほどの玲璃の姿が焼き付いて離れなかった。
『この間は、助けてくれて……ありがとう』
そう言って笑う玲璃の顔が、あの日の裕子と二重写しになって見える。
『やっぱり、順也くんにもあったんだね……。『力』』
本当によく似ていた。実を言えば、初めて彼女を目にした時からそれは感じていた。だが、裕子の娘であるという事実を知った今、改めて見る彼女は、まさに裕子の生き写しだった。彼女の発する言葉や何気ない動作の一つ一つが、端からあの頃の裕子の記憶と重なって見えて、紺野は顔にこそ出さないまでも、内心では激しく動揺していたのだった。
『そう。わたしは十四歳。そしてわたしは、……子どもを産んだ』
あの時の裕子の言葉が鮮明に蘇る。今でもはっきりと覚えている、初めての、そして最後の夜、彼女が自分に打ち明けてくれた、あの言葉が――。
『わたしがその子に会えたのは、生んだその時だけ。すぐに叔父がどこかへ連れていって、それっきり……女の子だったってことしか分からない。名前すら教えてもらえなかった』
――その子が、あの娘?
残酷すぎる運命のいたずらに耐え切れず、紺野は震える両手で顔を覆った。