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輪廻  作者: 代田さん
第一章 邂逅
29/203

4月22日 3

 おおかたの検査を終えた玲璃は、病室のベッドに横になっていた。

 玲璃が寝ているこの部屋は、神代の病院でも数部屋しかない特別室だ。広い部屋に設えられた大きな窓からは、夕刻の斜光に照らされて輝く町並みが見渡せる。その素晴らしい眺望をぼんやりと眺めながら、玲璃は昼間の学校での出来事を思い返していた。

 

――あれは、誰だったんだろう。


 あの時。意識が飛ぶ寸前、視界に映り込んだ裸足の足。

 あの足の主が自分を助けてくれたことは確かだ。あの足の主が現れたとたん、呼吸が復活したのだから。だが、すぐに意識が飛んでしまって、顔を確認することができなかった。あれがいったい誰だったのか、玲璃はずっと気になっていた。

 今回と同じような状況を、つい最近、玲璃はこの病院で経験している。エレベーター墜落事件の際、エレベーター内から転送されたあとに見た、スリッパを履いた裸足の足。あの足の持ち主は、彼……紺野秀明だった。


――でも、彼は絶対安静で、今も病室で寝ているはず。だとしたら、あれはいったい……。


 考えていると、突然ノックの音が響いた。玲璃は慌てて起き上がると、居住まいを正す。


「はい」


「失礼します」


 扉を開けて入ってきたのは、白衣姿のすらりとした男性医師、神代亨也だった。

 

「いかがですか? 気分は」


「はい。もうすっかりいいです。すみませんでした。ご迷惑をおかけして……」


 頭を下げた玲璃に亨也は笑顔で首を振ってみせると、ベッド脇の丸椅子に腰掛けた。


「検査の結果を見せてもらいましたが、数値は良好ですね。酸欠の後遺症は見られませんし、その他も特に問題は見当たりません。一晩ここでゆっくり休んでいけば、明日には登校も可能でしょう」


 玲璃は頷いてから、おずおずと口を開いた。


「あの……享也さんは、学校の……あの現場に、行かれてたんですか」


 享也は笑顔を収めると、うなずいた。


「ええ。現場の状況を確認して、病院にはつい先ほど戻ってきたところです。すみませんでした、本当は玲璃さんについているべきだったのですが、あちらの現場の検分に能力者の手が必要だったものですから、沙羅くん……神代沙羅医師が記憶の読み込みを担当することになっていたので、あなたのことは彼女に任せて、私はそちらに行かせていただきました」


「いえ、全然、とんでもないです。それで、……何か、わかりましたか?」


「まあ……いろいろと問題が山積みだということが分かった感じですね」


 困ったように笑って肩をすくめる享也に、玲璃はさらに問いを重ねた。


「残留していたエネルギー波の検分はされましたか。あのエレベーター事故の時の思念波と同じものが残っていたはずなんですが」


 享也は表情を改めると、うなずいた。


「確かに、現場に残されていた残留思念は、あのエレベーター事故で検出されたものと同じでしたね」


「やっぱり!」


 その言葉に、玲璃はわが意を得たりと身を乗り出した。


「沙羅先生が読み込んだ私の記憶を見ていただければわかりますが、私を襲った犯人は滝川という男です。滝川の発したエネルギー波は、あの時、エレベーター内で感じたものと同じでした。つまり、エレベーターで私を襲ったのも滝川です。紺野には何の罪もありません。そのことを一刻も早く父に伝えたくて、ここに来るのをずっと待っているんですが……父はまだ学校ですか?」


 享也は申し訳なさそうな表情で頷いた。


「そうですね。とにかく大きな事件でしたから、総帥もなかなか手が離せないようです。ただ、運がよかったのは被害を受けた一般人が誰もいなかったことと、第一発見者が玲璃さんの護衛任務に就いている魁然家の関係者だったことですね。彼の証言次第でなんとか収拾できるとは思います。と言っても、魁然総帥をはじめとして、警察の皆さんはいろいろとたいへんでしょう。先日のエレベーター事故の件も病院側の管理責任がそれほど問われない形で穏便に処理していただきましたし、総帥には本当に頭が上がりません」


 一番訴えたかったこととは別の方向にさりげなく論点をずらされた気がして、修正しようと玲璃が口を開きかけた時、少々乱暴なノックの音が響いた。

 玲璃が返事をすると、看護師が慌てた様子で駆け込んできて、亨也に何か耳打ちし始めた。亨也の表情から柔和なほほ笑みが消え、刃のような鋭さがその目に宿る。

 亨也は立ち上がると、ベッドに座る玲璃に頭を下げた。


「すみません、急患が入ってしまったようなので、これで失礼させていただきます」


「あの……」


 立ち去りかける享也を、玲璃はあわてて呼び止めた。


「もし、このあと父に会うことがありましたら、先ほどの……紺野が犯人ではないという話を、父に伝えていただけないでしょうか。もしかしたら、父は忙しいと言って、ここに来ないことも考えられるので……」


 享也は足を止めて振り返ると、頷いた。


「わかりました。玲璃さんのお気持ちは必ず伝えます。ただ、その後にどういう裁定が為されるかについては、総帥をはじめとした一族の合議で決定される事項ですので、その点はご理解いただければと思います」


 軽々しく「大丈夫」や「任せて」などと言わないあたり、紺野が無罪かどうかについて簡単に答えは出せないという事なのだろう。不安を覚えた玲璃は口を開きかけたが、それ以上何を言いようもないことに気づくと、目線を落として頭を下げた。享也は切なげな表情を浮かべたが、玲璃に倣って頭を下げると、病室を後にした。



☆☆☆



 近づいてきていた救急車のサイレンが、ぴたりと止んだ。また誰か、救患が搬送されてきたらしい。

 丸椅子に腰掛けた寺崎は慌ただしい搬送口にちらりと視線を流してから、再び目の前に横たわる紺野に目線を落とした。

 ストレッチャーに無造作に寝かされている紺野は、かろうじて呼吸はしているものの、見るからに悲惨な状態だった。右足は出血で真っ赤に染まり、紙のように白い顔にはあちこちに吐いた血がこびりついていて、黒い首輪チョーカーのはめられた首は、真っ赤に焼けただれて血がにじんでいる。

 寺崎は、心配そうにその顔を見つめていた。

 寺崎のワイシャツも、紺野の吐いた血で汚れている。あれから、病院に着くまでに二度ほど吐いた。最初のうちは意識もある程度はっきりしていたのだが、病院に着く頃には呼びかけにも反応しなくなってきている。素人の寺崎から見ても、相当に危険な状態に思えた。

 重傷者をいつまで放置しているんだろうと、やきもきしながら治療を待っていた寺崎の耳に、近づいてくる慌ただしい足音が届いた。ようやく医師に診てもらえるようだ。寺崎は立ち上がって部屋の入り口に向き直ったが、扉を開けて入ってきた人物の顔を見て固まった。

 看護師とともに入ってきたのは、神代家総代である神代亨也だったのだ。なんどか集会で見かけたことはあったものの、混血の下層構成員に過ぎない寺崎にとって、神代家最高峰の能力を誇る神代総代は畏れ多すぎて直視するのもはばかられる雲の上の存在だ。思わず頭を下げて一歩後退ると、享也はそれに応えるように軽く会釈をし、紺野の状態を確認し始めながら問いかけた。


「あなたは?」


 寺崎は思わず直立してその問いに答える。


「て、寺崎と言います。魁然総代の護衛をしているものです」


 その言葉に目を見開くと、享也は確認の手を止めて寺崎の方を振り返った。


「あなたが寺崎さんでしたか。あの現場に最初に駆け付けた護衛の方ですね。姿がなかったので警察の皆さん総出で探していたのですが……桜田くん、魁然総代に、寺崎さんが見つかった旨も急いで連絡していただけますか。こちらは逃亡の心配もなさそうですから、私一人で大丈夫ですので」


 指示を受けた看護師が急ぎ足で出て行くと、亨也は紺野の首のやけどを調べ始めながら口を開いた。


「私も能力発動は感知して追跡トレースを試みていたのですが、情報を得ることができなかった。この男は私のトレースに気づいて、妨害をかけていたようですね」


 その言葉に、寺崎は目を丸くした。トレースの気配など寺崎は全く感じていなかったからだ。だが、紺野はあの状態でそれに気づき、さらに妨害までかけていたという。しかも、神代総代を相手にだ。総代の追跡を妨害できる能力者など、今の神代家にも数えるほどしかいないだろう。

 寺崎は信じられない思いで無力に横たわっている紺野に目を向ける。現状の紺野は全くの無防備どころか意識すらはっきりせず、やろうと思えば寺崎の片手一本でも縊り殺せるだろう。こんな無力な男が、滝川の観念世界に飛び込んで能力影響を排除しながら、同時に神代総代からのトレースを妨害していたというのだ。寺崎は、なんだかひどくアンバランスな気がしてならなかった。

 と、廊下から女性のものらしい軽い足音が響いてきた。

 程なく部屋に駆け込んできたのは、先日、紺野の病室で遭遇した女性医師、神代沙羅だった。


「総代、遅くなってすみません。やっと処置が終わりまして……」


 言いながら、寺崎に気づくと驚いたように目を見開いて頭を下げる。それから、ストレッチャーに寝かされている紺野を横目で鋭く見やった。


「この男、どうしますか」


「魁然総帥には連絡したので、間もなく到着されると思う。処遇については、魁然総帥に事態の報告が済んでからだ」


「わかりました。ここでは人目がありすぎます。地下のCR室に移しますか」


「そうしよう。寺崎さん、でしたか。移送を手伝っていただけますか」


「は、はい。もちろんです」


 寺崎は慌てて頷いてから、ストレッチャー上の紺野を不安げに見やった。

 不規則で弱々しい呼吸に、判然としない意識。先ほど亨也が何か処置をしているように思ったが、それはどうやら状態を確認する一環に過ぎなかったらしい。寺崎はこんな重傷患者に何の処置もしないことを不審に思ったが、恐らく彼らが言っていた何とか室で処置するのだろうと思い、何も言わなかった。

 とにかく、早く治療してやってほしかった。さもないと本当に死んでしまうかもしれない。ストレッチャーを押して廊下を歩きながら、寺崎は逸る気持ちを抑えるのに必死だった。



☆☆☆



 地下のCR室に移って程なく、慌ただしい靴音とともに、数人の護衛を引き連れた堂々たる風格の壮年男性がやってきた。


「ご苦労さまです、魁然総帥」


 亨也の言葉に、寺崎はごくりと唾を飲み込んだ。魁然家の頂点に君臨する「総帥」をこんなに間近で見るのは、一族の最下層に位置する寺崎にとっては、当然のことながら初めての経験だった。

 義虎は寺崎のことなど一顧だにせず、享也に軽くあいさつをすませると、ストレッチャーに寝かされている紺野に鋭いまなざしを向けた。


「いきさつについて、詳しくお聞かせ願えますか」


「わかりました。じゃあ寺崎くん、先ほど話した通り、記憶の提示にご協力ください」


 寺崎がうなずくと、沙羅は寺崎に自分のそばに来るよう促した。


「今から送信で、この件の第一発見者であり、この男とつい先ほどまで行動をともにしていた彼……魁然総代の護衛である寺崎くんの、その件に関わる記憶をみなさんに共有します。取り込んだら即送信しますので、私が余計な情報を付け加えて改変していないかは総代にチェックしていただければと思います」


 沙羅の紹介を聞き、義虎はきつく眉根を引き寄せて寺崎を見た。寺崎はその眼力に縮み上がりつつも、あわてて頭を下げる。義虎はにこりともせずそんな寺崎を見つめていたが、小さく頷いた。


「分かりました。よろしくお願いします」


 そう言うと、義虎は沙羅にその節くれ立った大きな手を差し伸べる。沙羅はその手を左手で取ると、寺崎の手を右手で取り、蒼い輝きを放ち始めた。瞬時に、寺崎のこの件に関する記憶が沙羅に読み込まれ、それが義虎と、体を触れあわせていない亨也にも伝わっていく。

 伝達は数分で完了したが、送信が完了してもしばらくは、誰一人口を開かず暗い表情で黙り込んでいた。

 ややあって、義虎が最初に重い口を開いた。


「……なるほど。滝川という男は何者かに操られていたというわけですな」


「そうですね。紺野とは別の能力者の存在がこれではっきりしたことになります」


 享也の言葉に、二人の表情にサッと緊張が走る。別の能力者とはいったい何者なのか。自分たち一族にとってどういう存在なのか。三人はそれについては一言も口にしなかったが、恐らく三人ともが同じ予測にいきあたっていたのだろう。ややあって、沙羅が青ざめた顔で口を開いた。


「……とうとう、攻撃を仕掛けてきたんですね」


 その言葉に、義虎も緊張した面持ちで頷いた。


「あれから十六年か……ある意味、これだけ長きにわたって何事もなかったのが不思議なくらいだ。われわれも覚悟を決めて、体勢を整えなおす必要があるな」


 深刻な表情で語り合う組織中枢の面々。だが、寺崎にはその話の内容はさっぱり理解できなかった。そんなことより、ストレッチャーに寝かされたままの紺野のことの方が気になって仕方なかった。見ると、先ほどよりさらに呼吸が不規則に、弱々しくなってきている。顔色も真っ青を通り越して、土気色だ。

 とうとうしびれを切らした寺崎は、怖ず怖ずと口を開いた。 


「あの……」


 寺崎の声に、三人が話をやめて同時に振り返る。

 その威圧感に、寺崎は思わず言おうとしていた言葉を飲み込みかけたが、意を決して口を開いた。


「早く、治療、してやらないと……たぶんこいつ、かなりヤバいです」


 寺崎の言葉に、沙羅は当然のように頷いた。


「そうね。見たところ、肺挫傷で呼吸不全を起こしてるわ。おそらく明日の朝まではもたないでしょう。早ければ日付が変わる頃には、死ぬわね」


 まるで世間話のような平然としたその態度に、寺崎は一瞬思考が停止した。


「そこまでわかってるんでしたら、どうして……」


「治療はしません」


 寺崎は大きく目を見開くと、目の前の沙羅の整った顔をぼうぜんと見つめた。


「……治療しない? どういうことですか」


「どういうこともなにも、言葉通りです」


 沙羅はそう言うと、苦し気な呼吸を繰り返す紺野のあごに手をかけ、乱暴に上向かせると、首に装着されたチョーカーの周辺を示した。痛々しく焼けただれて変色した傷からは、細く血が流れ出ている。寺崎は思わず顔をひきつらせた。


「この首輪は能力発動を感知すると自動的に電磁波を流してシナプスの伝達を阻害する能力制御装置です。これを装着されれば、神代の能力者でも大概の人は発動が不可能になる。私ならもしかしたら多少の発動は可能かもしれないけど、それでもかなりの苦痛だし、普段の半分の力も出せないでしょう。なのにこの男は、これを装着された状態で、いくつもの能力を同時発動していた。残留思念から推定されたエネルギー量だけでもとんでもない上に、この男は総代のトレースを妨害までしてる。こんなすさまじい能力を持つ突然変異能力者なんて聞いたことがないの。この男がたとえ鬼子ではなかったとしても、こんな能力者がこの世に存在すること自体が危険でしょう。危険な存在には、消えてもらうのが最善。幸運なことに、この男はこのまま放っておけば、われわれが手を下すまでもなく死んでくれる。だから、治療しない。それだけのことです」


「そんな……」


 寺崎はあまりのことに言葉を失った。

 信じられない思いで、組織中枢の面々の顔を見渡す。魁然総帥も神代総代も何も言わない。同じ意見なのだろう。

 ゆるゆるとストレッチャーに横たわる紺野に目線を落とす。

 痛々しく変色した首のやけどに、出血で真っ赤に染まった右足。血まみれの病院服の先から出ている裸足の足裏は、土で薄黒く汚れて血が滲んでいる。学校に転移してきたときからずっと裸足だったのだろう。まるでぼろ雑巾のように汚らしく、惨めで無力な姿だった。

 こんな状態で、玲璃のみならず、あの滝川とかいう男まで助けた紺野。そんな人間が、組織の都合で見殺しにされようとしている……腹の底から湧き上がってくる怒りに耐え切れず、気が付くと、寺崎は声を荒げて叫んでいた。


「あんまりです! こいつは魁然総代を助けたんですよ。こいつが行かなければ、総代はおそらく無事ではなかった。その功績は無視して見殺しですか!?」


 相手が総代だろうが総帥だろうが、寺崎にはそんなことはどうでもよかった。こんな極限状態にありながら、寺崎の制服が汚れることを気にして何度も離れようとした紺野。そんな男が、組織の存続を揺るがす危険人物とはとても思えなかった。

 だが、沙羅は寺崎を馬鹿にしたような目で見やると、肩をすくめてため息をついた。


「そんな単純な話で片付かないから、大人の世界は難しいの。結果的に功績があろうがなんだろうが、この男が危険人物であることに変わりはありません。個人的感傷でものを言われてもね」


「個人的感傷とか……」


 寺崎がさらに声を荒げて反論しかけたときだった。


「いいん……です」


 薄暗いCR室に、かすれた、小さな声が響いた。


「……紺野?」


 荒い息づかいで途切れがちなその声の主は、確かに紺野だ。紺野は荒い呼吸の合間から、かろうじて声を絞り出しているようだった。

 慌てて枕元に駆け寄る寺崎を、他の者たちはその場から冷然と眺めやる。


「構い、ません……」


「構わないっておまえ、そう言う問題じゃ……」


 思わず食い下がる寺崎に、紺野は息を切らしながら、しかしはっきりとこう言った。


「死ねる、なら……嬉しい……」


 その言葉に寺崎は、言いかけた言葉を飲み込んだ。


――嬉しい?


「ただ、ひとつ、お願いが……」


「お願い?」


 紺野は閉じていた目を薄く開くと、奥にたたずむ神代亨也の方を見た。


「しばらくの間……僕の、周囲を……遮断シールドして……もらえないで……しょうか……」


 亨也は微かに眉根を寄せた。


「どうしてですか?」


 紺野は荒い呼吸を繰り返しながら、再び力なくその目を閉じた。


「僕は、一度……死にました。でも、死ねな……かった……」


 その言葉に、一同はちらりと鋭い目線を交わしあった。

 寺崎は枕元にしゃがみ込むと、氷のように冷たい紺野の右手を自分の両手で包む込み、必死で叫んだ。


「何を言ってんだ? しっかりしろよ、紺野!」


 寺崎の言葉はしかし、紺野の耳には届いていないようだった。


「本当に、死にたかった……。でも、気がついたら、僕は……全くの、別人……紺野、秀明として、生まれていた……」


 義虎は、はっとしたようにその目を見開いた。


「僕の、意志では……どうにも、ならない……。だから、細胞の……転移が、起きないように……遮断シールドを……」


 紺野はそこまで言うと、激しい息づかいで呼吸しながら言葉を止めた。

 義虎はそんな紺野をじっと睨み据えていたが、ややあって、低い声で問いを発した。心なしか、震える声だった。


「……おまえの本当の名は、なんと言うんだ」


 荒い息の間からとぎれとぎれに紡ぎ出されたその名は、その場にいた全員に、恐るべき衝撃をもたらした。


「東、順也……」


 言い終えると同時に、咳込んだ紺野の口から鮮血が溢れる。赤い液体はストレッチャーから音を立てて白い床にしたたり落ちた。

 紺野の次の言葉は、切れ切れの送信だった。


【すみません、これ以上……意識を、保て、ない……。お願いです……、遮断を……】


 それきり、紺野の送信は途絶えた。

 部屋にいた全員が、まじろぎもせず紺野を見つめながら、完全に凍り付いていた。静まりかえった部屋に、ストレッチャーから血が滴り落ちる音だけが単調なリズムを刻んで響いている。


「魁然総帥、東順也というと……」


 最初に重い口を開いたのは亨也だった。義虎は蒼白な顔でうなずくと、かすれた声でその問いに答える。


「十六年前の、あの事件の犯人とされている男だ。だが、あの男がどこまでどのように事件に関わっていたのか、結局真相は分からずじまいだった。一般人と神代の混血という結果は出たにしろ、どういう出自のどの一派の者かも、一切明らかにされてはいない。どの程度の能力を持っていたのかも、どうして裕子があの男を相手に選んだのかも、本当に相手だったのかさえ……何もな」


 震える拳を握りしめ、地を這うような声を絞り出す。


「そしてあの赤子の行方も、いまだにわからないままだ」


 吐き捨てると、義虎は血反吐にまみれて横たわる紺野を突き刺すように睨み据える。


「この男が、その東順也だと……?」


 亨也はそんな義虎を何とも言えない表情で眺めやっていたが、ややあって、静かに口を開いた。


「この男の言葉がもし本当であるなら、謎が多かったあの事件の真相が明らかになるかもしれません。この男、このまま逝かせてしまってよろしいのでしょうか」


 享也の言葉に義虎は目を見開くと、血まみれの紺野を睨みつけながら黙り込んでいたが、やがて小さく息をつくと、思考を切り換えたかのように顔を上げた。


「まだ、間に合いますか」


「私の能力を百パーセント使用するのであれば、救命は可能です。首輪ではなく、例の物を直接頸動脈(けいどうみゃく)か脳に埋め込めば、万が一の際も心配はありません」


 義虎は意を決したように頷くと、亨也に深々と頭を下げた。


「……では、救命をお願いします。申し訳ない。我が一族の不始末のために、お手数をおかけします」



☆☆☆



 CR室を出た寺崎は、病院の廊下をふらふらと、まるで夢遊病者のように歩いていた。

 東順也という名を聞いた瞬間、目の前が真っ暗になって思考が停止した。その後の総帥たちの会話も上の空で、いつ部屋を出たのかも分からないほどだった。

 寺崎は父親の顔を知らない。十六年前にあのマンションが倒壊した時、寺崎を身ごもっていた母親は両足を失い、母をかばった父親は倒れてきた柱の下敷きになり、死んだのだ。

 足の不自由な母親は、血の出る思いで寺崎を育ててくれた。生活は苦しかった。あんな事故さえ起きなければ……いつもそう思って生きてきた。

 ある時、母親は「東順也」という名を口にした。倒壊事件に能力者が関与しているらしいことは組織の情報から知ってはいたが、それがどうやら東順也という名前だということ、その男は神代一族と同じ遺伝子を持っているが、その出自がはっきりしないことなどを確か話していたと思う。その男が見つかれば、事件の真相が分かるとも……。


――その「東順也」が、紺野?


 寺崎の東順也に対するイメージは、まさに当時新聞が書き立てた凶悪犯そのものの、血も涙もない冷酷無慈悲な男だった。だが、あの男……紺野秀明からは、そんな凶悪さはみじんも感じられない。どちらかといえば控えめで、気弱といえるくらいで、自分のことより他人のことばかり気にしている。


――あの紺野が、東順也!?


 寺崎は思考の整理がつけられず、ただひたすら混乱していた。

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