4月22日 1
4月22日(月)
ホームルーム中の教室を、玲璃は完全に気配を消して抜け出した。
もともと、こうした行動は得意中の得意だ。クラスメートも、前に立つ教師も、誰一人玲璃が抜け出したことに気づかない。背面黒板の前を姿勢を低くして通り過ぎ、後ろ扉から廊下に出るやいなや、音も立てずに走り出す。
今日はこのあと、五月末に行われる体育祭について、各クラスから出た意見を集約する会合がある。玲璃はそれらの意見にある程度目を通しておく必要があったのだが、その仕事に今日まで全く手をつけることができずにいたのだ。
先週はとにかくいろいろなことがありすぎた。月曜の目通しから始まり、能力者の関与が疑われる不審な火事と、紺野のケガ、そして、金曜のエレベーター崩落事件。さらに、その事故から自分を救ってくれた恩人の容体が悪化しているとあっては、落ち着いて学校の日常業務をする気になれるわけがない。どうにかして紺野に会い、助けてくれたお礼とお詫びがしたいが、自分の立場ではそんなことは不可能だ。玲璃は休みの間中そのことばかり考えて、ただひたすら悶々としていたのだ。
そんな重い気持ちをひきずりながら登校した玲璃だったが、同学年の柴田から土曜日に寺崎が紺野を見舞ったらしいという報告を聞いた途端にスイッチが入った。寺崎も一年B組のクラス役員に無事選出されたので、今日の会合に代表として顔を見せるはずだ。できるだけスムーズに短時間で話し合いを終わらせ、寺崎に紺野の状態を詳しく聞きたい。そのためには、ほかの役員が来る前にある程度案件に目を通しておかなければならない。がぜんやる気が出てきた玲璃は、「人間として不審を持たれない程度」のスピードを心がけて走りながら、廊下の角を曲がった。
階段にさしかかり、少しスピードを落とした玲璃は、背中の毛がフッと逆立つような感覚に襲われて身震いした。誰かの視線を感じたのだ。
――距離十m、購買部のあたりか?
振り返らずに、温度差とわずかな空気の動きで対象との距離を計算する。
玲璃は、神代家と正反対の特性を持つ血族、魁然家の最高能力者だ。神代家は遺伝的に女性が超常能力を受け継ぐ女系血族だが、魁然家は男性が常人離れした高い身体能力を受け継ぐ。ただ一人、総代である玲璃を除いて。玲璃は魁然家でただ一人、女性でありながら超人的な身体能力を有する。その身体能力は筋力や骨、内臓の強度のみならず、視覚や聴覚、嗅覚など、あらゆる感覚において人間の能力をはるかに超えるレベルで発揮されるのだ。
昇降口を過ぎ、職員室前を通過してもなお、その気配は玲璃のあとを一定の距離を保ってついてきている。においがわかればその人物が誰であるかの見当もつけられるのだが、あいにく室内は風がなく、対象のにおいは流れてこない。意識を尖らせつつ歩いていた玲璃だったが、生徒会室の前まで来たところで、さっと振り返って背後を見た。
十メートルほど離れた位置に、廊下の窓から差し込む西日を黒縁眼鏡に反射させながら、二年の生徒会役員である滝川雅昭が立っていた。玲璃と目が合うと、軽く一礼してみせる。
この男に、玲璃はあまりいい感情を抱いていない。さきほどの視線も、神経を逆なでされるような刺々しさを感じたからこそ注意を向けていたのだ。やはりこの男には何かあるとは思いつつも、滝川が生徒会室に来るのは別に不思議なことではない。彼も役員なのだから。
「滝川……おまえ、ずいぶん早いな」
「ホームルームが早く終わりましたから。先輩も?」
「いや、私は抜けてきたんだ。会議の前に意見に目を通しておこうと思って……」
動物的な勘とでもいうべきか、なぜだか分からないが、この男と生徒会室という閉鎖空間に二人きりになることがひどく危険なことのように思えて、玲璃は生徒会室に踏み入れかけた足をとめた。だが、山のような意見に目を通しておかなければ会議を円滑に進めることができないのも事実だ。玲璃は滝川の動向に細心の注意を向けつつ、意を決したように生徒会室に入った。滝川も、玲璃の後から続いて生徒会室に入る。
玲璃は議長席に座り、カバンから取り出した山のような資料に目を通し始めたが、斜め前に座る滝川の動向が気になり、今ひとつ集中できないでいた。
その時だった。
異常なエネルギー反応の急激な高まりを感じ、玲璃は弾かれたように顔を上げた。
その視界に、禍々しい赤い光を全身から放射しながらカミソリのような笑みを浮かべる滝川が映り込む。
玲璃は即座に立ち上がり、間合いを取るために跳び退った。
魁然家の人間は高い身体能力の他にもう一つ、能力を有する。能力発動によるエネルギーを可視化したり、感受したりする能力だ。そして、今玲璃が感じているエネルギーは、あの時、エレベーター内で玲璃が感じたものと全く同じものだったのだ。
「滝川、おまえ……!」
滝川は口の端を片側だけ引き上げると、さらに強く発光した。見る間にその赤い光は生徒会室全体を覆い尽くし、室内と外部の空間を遮断する。生徒会室は外部空間から完全に切り離され、ここから脱出することはおろか、外部の人間が内部の様子を知ることも、侵入することもできない、完全に孤立した遮断空間となった。
玲璃は覚悟を決めると、拳を握りしめ、靴音も高く床を蹴る。リノリウムの床が衝撃で弾け飛ぶと同時に、玲璃の姿がかき消えた。視認が不可能なスピードで跳躍した玲璃が瞬間移動さながらに滝川の眼前に現れ、豪速のこぶしを突き入れる。だが、滝川は玲璃の動向を読んでいたのだろう、こぶしが当たる寸前で教室の反対側に転移し、その攻撃をかわした。かわされたことに気づいた玲璃は即座にこぶしを引いたが、圧力で生じた衝撃波が生徒会室の床を轟音とともに破壊する。しまったという表情を浮かべつつ空中で一回転して着地した玲璃が、即座に反転して再攻勢に出ようとした、刹那。
薄笑いを浮かべた滝川が、再び強く発光した。
「……!」
突然、玲璃は訳の分からない息苦しさに襲われた。
筋肉へのエネルギーの供給がたちまちのうちに絶たれ、失速して膝をついた玲璃の視界の端に、薄笑いを浮かべる滝川の姿が映りこむ。玲璃は歯がみしつつ、大きく深呼吸して酸素を取り込もうと試みるが、いくら呼吸しても息苦しさは一向に解消しない。それどころか、吸えば吸うほど息苦しさが募り、頭を割られるような頭痛が襲ってくる。四肢には力が入らず、立ちあがることすらままならない。
――酸素がない。
玲璃は朦朧とする意識の中、そう確信した。周囲が真空状態になっている訳ではないところをみると、滝川は恐らく酸素分子のみを玲璃の周囲、もしくはこの教室全体から奪い去り、自分の周囲にだけ残しているのだろう。分子レベルで対象を操作できる能力者など、神代一族の中でも数えるほどしかいない。玲璃は生まれて初めて、背筋が凍り付くような恐怖を感じた。
『もういや。こんなの、もうやりたくない』
恐怖に飲まれながら、遠い昔、泣いて訓練を拒否した在りし日の自分の姿がまぶたの裏によみがえる。
玲璃たち一族は常人離れした筋力を有するが、その分消費する酸素やエネルギーの量は凄まじい。潤沢に供給されていれば問題はないが、戦闘中に酸素の供給が断たれる事態に巻き込まれれば当然受ける影響も大きく、それは無敵の肉体を誇る魁然一族の唯一最大の弱点だった。その弱点を克服するため、義虎をはじめ一族の主要な能力者たちは、ごく幼少の頃から無酸素状態で体を動かす訓練を継続して行う。酸素量が極少の状態をあえて創り出し、その状態を繰り返し経験させ体を慣れさせることで、最終的に低酸素状態でもある程度の時間活動し続けられるように体を鍛えるのだ。義虎などは無酸素状態でも十五分近く活動し続けることが可能であり、最高の潜在能力を持つ玲璃であれば、さらに長時間活動できるようになる可能性は訓練次第では十分にあった。
とはいえ、重しをつけて水中に放り込まれるその絵面からして恐ろしい上に、訓練開始当初はかなりの苦痛を要するため、たいていの子どもは泣き叫んで訓練を拒否する。必要なことだからと説き伏せられ、もしくは叱りつけられながら無理やりやらされているのが実情だったが、一見したところは虐待にしか見えないこの訓練は、親たちの間でもすこぶる評判が悪かった。
玲璃も幼少のみぎり、この訓練への参加を義虎から勧められた。大好きな父の言いつけにはとりあえず素直に従う子どもだった玲璃は意気揚々と訓練に参加し、そのあまりの恐ろしさと苦痛に泣いて参加を拒否した。この平和な時代に、しかも女の子の玲璃が戦闘訓練などする必要はないだろうと義虎もその意向を尊重し、それ以降、彼女が訓練に参加することはなかった。
まさか今になって、その負債を払うことになるとは思わなかった。訓練をやりきる胆力のなかった自身の弱さを悔やんだが、後の祭り。負債は自らの命と安全を犠牲にして支払わねばならない。玲璃は視界が暗転し始めるのを感じながら、戦闘における自身の無力を噛みしめていた。
玲璃は滝川につかみかかろうと最後の力を振り絞って手を伸ばす。だが、酸欠状態の薄暗い視界にはチカチカと星が瞬き、滝川がどこに立っているのかすら判別することも覚束ない。手足を動かそうにももはや力が入らず、指一本すら思うように動かせない。星のきらめく視界の端で、薄笑いを浮かべる滝川の姿が歪み、ぼやける。
その時だった。
滝川が弾かれたように天井を振り仰いだ。
同時に、玲璃の視界が眩しいほどの白一色に染まる。
次の瞬間、坑道の落盤のごとく、轟音とともに天井の一角が破壊された。砕け散った天井に空いた穴から、目を開けていられないほどの強風が音を立てて吹きこむ。風は渦を巻き、机上に置かれていた紙片を巻き上げながら生徒会室を駆け抜ける。
まるでその風に酸素が運ばれてきたかのように、玲璃の呼吸が復活した。低酸素に悲鳴を上げていた全身からホッとしたように力が抜け、ギリギリで保たれていた意識が遠のき始める。たちまちのうちにぼやける視界の端に映りこむ、滝川ではない、見知らぬ誰かの後ろ姿。
――……誰?
同時に感じた、滝川のものとは明らかに異質な能力発動。滝川以外の誰か別の能力者がこの場に現れたことは確かだ。神代一族の誰かが救援に駆けつけてくれたのだろうか。だが、能力者の姿を確認しようにも、すでに玲璃の意識は飛ぶ寸前だった。狭まりゆく視界に裸足の足が映り込んだが、その映像が脳に情報として到達する前に、玲璃の視界は暗転した。
「……来たな」
滝川は玲璃の前に立つその男を睨めつけながら、口の端を引きつり上げて不敵な笑みを浮かべた。
松葉杖をつき、簡素な病院服を着て頭に包帯を巻いた、ぼさぼさの茶色い髪の男――紺野秀明は、そんな滝川に目を向けることもせず、ただ黙って俯いていた。松葉づえに体重を預け、肩で息をしながら、そこに立っているのが精いっぱいといった風情だった。
滝川はそんな紺野の様子を鼻で嗤ったかと思うと、やおら左足を振り上げ、紺野の右足を力いっぱい蹴りつけた。
そのアナログで単純な攻撃をもろに食らった紺野は、あっけないほど簡単に転倒した。松葉杖がかん高い音を教室内に響かせて転がり、衝撃で開いた傷から流れ出た血が、白い病院服にじんわりと滲む。
「死ね」
滝川は低い声で呟くと、床に転がっている紺野の胸に力いっぱい右足を叩きこむ。前回の件で、何をしても紺野は抵抗しないと悟ったらしい。まだ先日の傷が治りきっていない胸部に、全力の蹴りを何度も打ち込む。紺野は低く呻くと、蹴りの雨から逃れようと弱弱しく体をひねった。
滝川は逃げる紺野の髪を掴んで自分の方に引き寄せると、紺野の上に馬乗りになった。薄笑いを浮かべながら黒いチョーカーをつけた首を両手でつかみ、全力で締め上げる。
なすがまま縊り殺されるかに見えた紺野が、乱れた髪の間から刺すように滝川を見据えたのはその時だった。
滝川の手首を、紺野の両手が掴む。
滝川はハッと息を呑んだ。能力発動を可視化できるものが見ていれば、紺野が白く発光したように見えただろう。
【思い出してください、あなたは、あいつじゃない!】
滝川の脳に紺野の送信が響き渡った、瞬間。
滝川は、これまで味わったことのない異様な感覚に襲われた。
脳を支配していた意識が強制的に排除される時の、脳髄をかき混ぜられるような酩酊感。同時に、万力で締めあげられるような強烈な頭痛と、激しい眩暈と吐き気。滝川はたまらず紺野の首から手を離すと、割れるように痛む頭をその両手で抱えこみ、力なくくずおれた。
紺野が滝川の意識に強力な防壁を張り巡らせ、滝川の意識を外部から操作していた能力影響を遮断したのだ。同時に、強制的に忘却させられていた滝川自身の記憶が津波のごとく脳内に現れはじめる。つい今しがたまで忘れ去っていた見覚えのある風景に、滝川は目を見開いて息を飲む。
だが、次の瞬間。
防壁で遮断されていたはずの外部意識が、再び滝川の脳内に侵入を開始した。紺野の防壁を突破して強引に入り込んでいるためだろう、能力耐性のことなどまるで考慮にない、紺野ですら軽い頭痛を覚えるほどの強力なエネルギーが、一気に滝川の脳に流れ込む。
脳に両手を突っ込まれてグチャグチャに攪拌されているような感覚に襲われ、滝川は呼吸すら止めた。視界も聴覚も平衡感覚も思考も呼吸も拍動も、脳がつかさどっていた全ての機能が磁石にあてられた方位磁針のようにめちゃくちゃに狂い、涙と鼻血が勝手にダラダラと流れ始める。工事現場の轟音のような耳鳴り、歪んで回転する風景。割れるような頭痛に耐え切れず、喉の奥からは勝手に吐瀉物がこみあげてくる。
「ぎゃあぁぁぁぁ……!」
素っ頓狂に裏返った叫び声を残し、滝川の姿は消失した。穴の開いた天井の一部が轟音とともにはじけ飛び、がれきが室内に音を立てて降り注ぐ。
紺野は力尽きたように床に両手をつくと、肩を揺らしてせき込み始めた。首輪をはめられている紺野の首は、やけどだろうか、見るも無残に赤く焼けただれている。
咳こむ紺野の頭上で、放課を知らせるチャイムの音が軽やかに響き渡った。
☆☆☆
寺崎が駆けつけたとき、生徒会室周辺にはまだ誰もいなかった。
防壁と転移の能力発動を感知した寺崎は、ホームルーム中にも関わらず教室を飛び出した。驚いた担任教師が前扉から廊下を見た時には、既に彼の姿は廊下から消えていた。
久々の全力疾走で幾分息を切らしながら生徒会室の扉を開けた寺崎は、その途端目に飛び込んできた惨状に凍り付いた。
遮断が解けた生徒会室は、無残な姿を晒していた。教室の一角の天井には直径二メートルほどの巨大な穴が開き、薄曇りの空がのぞく空間からは生暖かい風が吹き込んでいる。遮断されていたことと、今はまだホームルーム中ということもあり、異常に気づいたものはまだ誰もいないようだが、あり得ない惨状だった。
――いったい何だよ、これ。
教室内から、誰かの咳の音が響いてくる。彼の位置から姿は見えないが、かなりひどくせき込んでいる。誰かが破壊に巻き込まれてケガをしているのかもしれない。安否を確認するべく、寺崎は教室内に足を踏み入れた。
その途端。寺崎の目に、背面黒板を背にして横向きに倒れている女生徒の姿が映り込んだ。そのすぐ隣には白い服を着た茶色い髪の男がうずくまり、背中を丸め、肩を波打たせながら激しく咳き込んでいる。その傍らに転がる、二本の松葉づえ。
――まさか。
寺崎の気配に気づいたのだろう。なんとか咳を収めたその男が、息を切らしながらほんの少しだけ顔を上げて寺崎を見る。その顔をみた寺崎は、わが目を疑った。そこにいるのは紛れもなく病院で絶対安静状態のはずの監視対象、紺野秀明だった。そしてさらに驚くべきは、その傍らに倒れているのがほかでもない、彼が護衛するべき最重要人物、魁然玲璃だったのだ。
「総代!」
寺崎は色を失って玲璃のそばに駆けよると、仰向けにして心拍と呼吸を確認する。気は失っているが心拍に異常はない。顔色も悪くないし、呼吸も規則的でしっかりしている。特に目立ったケガもしていない様子だ。寺崎は心底ほっとしたように息をつくと、首を巡らせて隣にいる紺野を見た。
紺野は咳こそ収まったものの、両手を床について苦しそうに肩で息をしている。黒い首輪のようなものをはめられた首は、ヤケドだろうか、見るも無残に赤く爛れている。寺崎は玲璃から離れると、うつむいている紺野の顔を覗き込んだ。
「おい。いったい何があったんだ? 説明してくれ」
紺野はちらりと横目で寺崎を見たが、その問いには答えず、荒い呼吸の合間から独り言のように呟いた。
「……行かなければ」
「は? 行くって、どこへ……」
紺野は四つんばいのような姿勢になると、転がっている松葉杖を手元に引き寄せる。
「あの人は、もう限界です。早く解放してやらないと……」
「あの人? 誰のことだよ」
紺野は寺崎の問いには答えず、松葉杖にすがると、それを支えに立ちあがろうとした。だが、血まみれの右足に体重を支える力は残っていなかったらしい。激しい痛みに襲われた紺野は、息を呑んで動きを止めた。
「ちょっと待て、そんな体でどこへ行くつもりなんだよ? 無理だって!」
寺崎は倒れかける紺野の体をを支えると、必死の形相でその顔を覗き込んだ。
「説明してくれよ。いったい何があったんだ? しゃべりが無理なら送信してくれ。俺は耐性あるんで大丈夫だから」
紺野は大きくその目を見開くと、汗だくの顔を上げて寺崎を見た。
寺崎は無言で頷くと、紺野の手に自分の手を重ねる。
紺野は驚いたように手を引きかけたが、寺崎の視線の圧力に押されるようにおずおずとその手を戻すと、先ほどの出来事を送信しはじめた。
☆☆☆
送信は一分もかからなかった。その間に、ようやく異常事態に気づいた他の生徒たちがわらわらと生徒会室の周囲に集まり始める。と、にわかに騒がしくなってきた廊下の一角から、ひときわ大きな野太い声が響き渡った。
「おい、寺崎っていったっけ? いったいなんだよこれは……って、総代!?」
声の主はもう一人の玲璃の護衛、柴田だった。前扉から動転した様子で叫ぶ柴田に、寺崎は早口でまくしたてる。
「先輩、総代を頼みます!」
柴田は倒れている玲璃を見て青ざめると、凄まじい速度でその傍に駆け寄った。
「総代……って、何だよこれ。おい寺崎、総代は大丈夫なのか?」
「呼吸も脈拍もしっかりしてるんで、たぶん大丈夫です。こいつが総代を助けてくれたんで……」
「こいつ?」
柴田は離れたところに座り込んでいる病院服姿の男に目をやり、胡散臭げに眉根を寄せた。
「誰だ、こいつ……? こんなところに、こんな格好で怪しすぎるだろ。こいつがやったんじゃないのか?」
「違います。滝川とかいうやつの仕業らしいです」
「は? ……滝川って、あの滝川? なんで滝川が……」
寺崎は柴田に、手短にさきほど紺野から送信された内容を伝えた。
伝えながらも、寺崎は紺野をちらりと横目で見やる。離れた場所に座り込んでいる紺野は、じっと俯いて何かに意識を集中している。おそらく、滝川の行方を追跡しているのだろう。ほのかに白く発光しているように、寺崎には見えた。
「マジかよ……それがホントなら、あの神代病院のエレベーター事故も、みんな滝川の仕業だったってことか?」
「そうみたいす。ただ、紺野が言うには、滝川は操られているだけみたいなんすけど」
「……は? 操る?」
あっけにとられる柴田に、寺崎は深々と頷いて見せる。
「なんか、俺も詳しくは分からないすけど、送信で大量の指示を叩き込まれて、ロボットみたいな状態になってるらしいんす……な、紺野」
追跡に集中していた紺野は急に話を振られて驚いたのか、目を丸くして振り向いてから、遠慮がちに頷いた。
「おまえ、いつそれが分かったんだ?」
紺野は戸惑ったように目線を彷徨わせながら、小声で柴田の問いに答える。
「あの人が、火事の時に転移したんです。それが、不自然だったので……」
その言葉に息を呑むと、寺崎は身を乗り出した。
「……っと待て。じゃあ何か? おまえをそんな目に遭わせたのも……」
紺野は、小さく頷いた。
「普通の人間がこんな強い力に晒され続けていれば、脳に何らかのダメージを受けます。はやく解放してやらないと……」
「解放って……おまえ、まさか行くつもりなのか? そんな体で……」
紺野はそれにはもう答えなかった。再び追跡に意識を集中し始めたのか、体全体が仄白く輝き始める。
「とにかく、もう遮断は解けてるんで、人が集まってきます。先輩は、総代をお願いします!」
エネルギーの高まりを感じた寺崎は、早口でまくしたてると立ち上がった。紺野は滝川の行方を突き止めたらしい。体を包み込む白い輝きがより一層強さを増す。
――転移する!
そう思った瞬間。寺崎は反射的に紺野の腕を掴んでいた。
紺野がはっとする間もなく、二人の姿はその場から消失した。