4月19日 1
神代総合病院は、最先端の治療と優秀な医師の診察を求めて全国から患者が集まる有名病院である。エントランスはまるで一流ホテルのように整備され、CTやMIR、超音波などの各種医療機器も充実していて、芸能人や有名人も数多く患者として来院している。
そのガラス張りの立派なエントランスに、玲璃はまるでかくれんぼでもしているかのような雰囲気で駆け込んだ。
随伴の護衛も、運転手付きの黒塗りハイヤーもない。一人きりで、しかも高校の制服姿で、手にはカバンを提げたままだ。
玲璃は心持ち姿勢を低くして辺りを見回しながら受付まで行くと、受付嬢に顔が見えないよう俯き加減で問いかける。
「あの、八階の病棟に入院している友人の見舞いに来たんですが、何階に行けばいいか教えていただけますか?」
可愛らしい受付嬢は顔を上げるとにこやかに答えた。
「面会の方はそちらの名簿にお名前をご記入の上、受付バッジをつけてお入りください。エレベーターはここをまっすぐに行った右手にございます」
「は、はい。ありがとうございます」
玲璃は名簿にでたらめの名前を書くと、バッジをつけ、そそくさとエレベーターホールへむかった。歩きながら、無事に受付を通過できた安堵感にほっと息をつく。
今日、病院へ行くことは誰にも告げていない。寺崎にすら言わなかった。
『おそらく総帥はお許しにならないと思いますよ』
――許してもらえないなら、内緒にするしかないからな。
玲璃は生徒会の仕事があると偽り、学校が終わるや否や家に帰らず病院に直行した。紺野の様子を見舞うためだ。自分たち一族に関わる重要案件、しかも同じ学校の生徒が関わっている案件に、総代という立場の自分が何のかかわりも持っていないことが許せなかったのだ。紺野という人物に個人的な興味を持っていたことも手伝い、事件関係者と面識を持つくらいのことはしておいてしかるべきだろうと、勝手な自己判断をした結果の行動だった。
父親に断りなく行動することなど、玲璃はこれまでの人生で一度も経験したことがない。生まれて初めて父の庇護下から出る後ろめたさと不安、そしてワクワクするような高揚感がないまぜになって、彼女はかなり興奮していた。そのせいだろうか、早足でエレベーターホールへ向かう彼女のあとを、一定の距離を保って追尾する黒縁メガネの男の存在に全く気づいていなかった。
☆☆☆
人気のない病室で、紺野は眠っていた。
ドレーンや尿道カテーテルが抜去されたためか、一見すると重傷度が下がったようにも見えるが、重度の貧血と感染からの発熱が続いており、容体は芳しくなかった。意識が戻ったと言ってもウトウトと眠っている時間が多く、頭部外傷もあったため、CT検査が行われる予定も組まれている。ベッドから起き上がったのは午前中に一度きり、車いすで室内にあるトイレに行っただけだ。食事も口からは取ることができず、いまだに点滴だけの状態が続いている。当然風呂になど入れるわけもなく、一週間以上洗っていないぼさぼさの髪は汚らしく束になり、お世辞にも清潔とは言えない姿だった。だが、眠っているとまつげの長さと通った鼻筋が際だち、不思議と不潔な感じはしなかった。
その時。何を感じ取ったのだろうか、眠っていたはずの紺野の目が薄く開いた。
そのまま、じっと何かに意識を集中するかのように天井の一点を見つめたきり、彼は目線を動かさなかった。
☆☆☆
一基のエレベーターが上階に出発したばかりだったため、エレベーターホールには誰もいなかった。玲璃は貸し切りのような状態で別のエレベーターに乗ると、八階のボタンを押す。
ゆっくりと扉が閉まり始めると同時に、玲璃は胸がどきどきし始めていた。
――勢いだけでこんなところまで来てしまったが、よく考えれば彼とはまだ一面識もない上に、見舞いの品もなにも持たずに来てしまった。だいたい、紺野に会って、一体何を話せばいいんだろう?
病室に足を踏み入れる勇気が一気になえたり、ここまで来ておいて引き返すのもあまりにも情けないと思い直したり……そんなことにばかり気を取られていたせいだろう。本来、気配に非常に敏感なはずの玲璃が、締まる扉の向こうから自分をじっと見つめていたメガネの男――滝川の存在に、全く気づくことができなかった。
玲璃の乗ったエレベーターの扉が完全に閉まり、上階に動き始めると、滝川は扉の前に歩み寄り、無表情に階数表示を見上げた。階数表示は順調に八階を目指して右に移動していく。四,五,六階……そして、七階までランプが点灯した、その時。
突然。滝川の体から禍々しい赤い輝きが迸った。能力発動を感知できる者には、恐らくそう見えたに違いない。
エレベーターの扉の隙間から侵入した赤いエネルギーは、ワイヤーを一気に駆け上り、エレベーターを追い越して最上部に到達する。エレベーターが八階に到達する寸前、最上部のワイヤーがエネルギー波の赤い鎌で一閃され、切り口も鮮やかにぶつりと切れる。
次の瞬間、まるで重力が反転したかのように、エレベーター内の玲璃の足がふわりと床から浮き上がった。
「……!?」
玲璃はとっさに受け身の姿勢をとったが、背中が天井に強かに打ち付けられ、衝撃で呼吸が止まる。
――何!?
なにがおきているか一切把握できないまま、エレベーターは凄まじい速度で地下へ向かって一直線に落下していく。
玲璃は魁然家の人間である。体力も、運動能力も、肉体回復力も、常人より遙かに優れている。だが、狭い室内に閉じこめられたこの状況では、いかに玲璃とて防御のしようがない。せめて衝突の衝撃を少しでも和らげようと、必死で頭を庇い歯を食いしばって目をつむる。
刹那。
周波数の高い耳鳴りと、軽い頭痛がこめかみをかすめた気がした。
辺りはしんと静まりかえり、なぜだか、消毒薬の匂いが鋭敏な嗅覚を刺激する。
いくら待っても、地面にたたきつけられた衝撃もなければ、エレベーターが破壊された音も聞こえない。訝しく思った玲璃は、頭を抱えていた手を下ろし、閉じていた目をおそるおそる開いた。
そこは、先ほどまで乗っていたエレベーター内とは様子が全く違っていた。
目の前に広がるのは鈍い光を放つ白い床。病室だろうか、殺風景な部屋の中央には白いシーツの掛かったベッドが置かれ、傍らに点滴や薬剤の瓶がいくつか吊してあるのが見える。だが、そこから伸びる管の先はなぜかどこにもつながっておらず、放り出されている管の先端から出た液体が、床に小さな水たまりを作っていた。
反対側の視界の端には、スリッパを履いた裸足の足と、松葉杖らしき棒の先端が映っている。そこに立っている誰かが自分をじっと見下ろしている気配を、先ほどから玲璃は感じとっていた。
玲璃は首を巡らせて、おずおずと目線を上げた。
そこに立っていたのは、作務衣のような簡素な白い服を着て、松葉杖をついた男だった。頭に包帯を巻いており、目元が茶色いぼさぼさの髪に覆われていて見えにくい。だが、玲璃はその顔に確かに見覚えがあった。
「……紺野?」
玲璃の問いかけに呼応するかのように踵を返すと、男――紺野は出入り口の方に松葉杖をついて歩き始めた。
玲璃はなにがなんだかわからなかった。確かに自分の乗っていたエレベーターは墜落した。あの状況では確実に大けがを負うか、悪くすれば死んでいてもおかしくない。それがどういうわけか、ふと気付いたら見たこともない病室の真ん中に座り込んでいて、目の前には他でもない、会いに行こうと思っていた相手である紺野秀明が立っていたのだ。混乱するのも道理だった。
どうしていいかもわからずぼうぜんと部屋の真ん中に座り込んでいると、ぎこちないしぐさで松葉杖をついて部屋の入口まで来た紺野が、足を止めて振り返った。ドキッとして身を固くした玲璃を、なにか言いたげにじっと見つめる。その訴えるようなまなざしに、玲璃はハッと目を見開いた。
――ついてこいってこと?
玲璃はあわててたちあがると、事態が全く飲み込めないまま、部屋を出る紺野の後を追って歩き始めた。
部屋の外は大騒ぎだった。エレベーターホールには大勢の野次馬が集まり、警備員が切羽詰まった表情で廊下を走り過ぎたり、詰所では看護師が慌てふためいてどこかに電話をかけていたり。ただならぬことが起きたことが一目でわかる状況だった。
騒ぎを横目に廊下を歩きながら、玲璃は前を行く紺野の後ろ姿をじっと見つめた。まだ慣れていないのだろうか、ゆっくりと、たどたどしく松葉杖を操りながら、振り返りもせずよろよろと進んでいく。
――この騒ぎからしても、私が乗っていたエレベーターは確かに墜落したんだ。でも、私は無傷だ。どうして無傷なんだ? あそこはおそらく紺野の病室だろうが、どうして私は気が付いたらあそこにいたんだ? なんで紺野は私がいたことに驚きもせず、当たり前のように私をどこかに連れて行こうとしている? 一瞬だったが確かに感じたあの耳鳴りと頭痛。あれはいったい何だったんだろう?
起こったことを整理しようと必死に考えてみるものの、答えはいっこうに見えてこない。とりあえず、今は紺野の後ろを黙ってついて歩くしかなかった。
目の前に、入院患者や面会者が自由にくつろげる談話室が見えてくる。どうやら紺野は談話室を目指して歩いていたらしい。談話室の反対側には、医療関係者と患者搬送用のエレベーターホールがある。紺野はちらりとそちらに目を向けてから、幾分足を速め、向かい側にある面会室に入っていった。玲璃も、その後を追って中に入る。
薄暗い職員用エレベーターホールの隅にたたずんでいたメガネの男は、忌々しそうに口の端をゆがめると、踵を返し、速足で階段を下りて行った。
談話室には、数組の見舞客と、数人の患者がいた。たった今起きた大事故を話題にしているのだろう、どの人も一様に、エレベーターホールを見やりながら心配そうな表情を浮かべている。
面会室に入ったところで、玲璃は耐えきれなくなったように口を開いた。
「……今、何があったんだ?」
紺野は、その言葉に歩みを止めた。が、振り返ることはせずに前を向いたまま、じっと黙って俯いている。玲璃はそんな紺野の背中に、矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。
「私はあのエレベーターに乗っていたはずなんだ。なのに、気が付いたらおまえの病室にいた。なにが起きたんだ? なんで私は無事なんだ? なんでおまえは、私をこんな所に連れ出した? 驚きもせず、当たり前みたいな顔をして……」
紺野はやはり何も言わず、何の反応も示さない。業を煮やした玲璃がもう一度問いただそうと口を開きかけた、その時だった。
「魁然総代!」
廊下中に響き渡るようなその声に驚いて振り返ると、髪の長い白衣の女性が息せき切って廊下を走ってくる姿が映りこんだ。確かこの病院に勤めている神代一族の一人、神代沙羅医師だ。先日の目通しに出席はしていなかったが、玲璃は両一族の会合で一度彼女にあいさつをしたことがあった。よほど急いで走ってきたのだろう、一つに纏めた茶色い髪が乱れて、整った顔に幾筋か落ちかかっている。
「ご無事でしたか……よかった」
はあはあと息を切らして、両手を膝について息を整えている。どうして彼女は自分がここにいることを知っていたのだろう? 玲璃は居心地が悪そうに目線を彷徨わせた。
「あ、あの、……私は……」
「神代総代が能力発動を感知して、状況を追跡してくださったんですが、今、折あしく手術中で……私も、少し前に魁然総代が巻き込まれているという送信をうけたんですが、どうしても手の離せない急患の処置がありまして、到着が遅れてしまいました。申し訳ありませんでした」
玲璃は慌てて頭を振った。
「そんな……私の方こそ、お仕事中にお騒がせして……」
沙羅はようやく呼吸を整えると、玲璃の前に佇む紺野の背中をきっと睨み付けた。
【あなた、魁然総代に何をしたの!】
つかつかと紺野に歩み寄り、肩を掴んで強引に自分の方に体を向ける。体勢を崩した紺野の手から松葉杖が離れ、甲高い音を立てて床に転がった。だが、談話室の人々は全く彼らに注意を向ける様子はない。沙羅が談話室にいる人たちの意識を遮断して、異常に気づかないように操作しているのだ。
紺野は無言のままだった。松葉杖がなくなって体勢を維持するのが難しいらしく、肩で息をしながら黙って壁にもたれかかっている。
【私は二回能力発動を感知した。一回はせん断系の念動力、一回は転送だった。ベースになるエネルギー波が明らかに異なったから、別々の能力者による発動ととらえるのが妥当。で、あなたはどっちの能力を発動したの? 答えなさい!】
会話の内容が周囲の患者に聞かれないように、沙羅は送信で呼びかける。焦っているからだろうか、相当に強い、能力耐性のない者が受信すれば卒倒するくらいの送信だ。だが、紺野の反応はない。足元に目線を落とし、肩を揺らして荒い呼吸を繰り返しているだけだ。
【答えないの? じゃあ、あなたが魁然総代を殺そうとしたってことになるけど、それでいい?】
玲璃にも沙羅の送信は傍受できた。だが、玲璃はどうすることもできず、睨み合う沙羅と紺野を代わる代わる見つめるより他になかった。
その時。玲璃はふっと鼻をかすめた臭いに違和感を覚えた。見ると足元の床に、点々と何かの跡がついている。それは、廊下の向こうからずっと続いているようだ。何だろう? 赤黒い、シミのような……。
「……!」
目を見開いて息をのみ、口元を両手で覆った玲璃の様子に気づき、沙羅はいぶかし気に彼女の目線を追って……その目を大きく見開いた。
床に点々と並んでいる赤いシミ。紺野の足下にまで続いているそれは、血の跡だった。
紺野の右足は、にじみ出た血で真っ赤に染まっていた。彼の足は、まだ歩ける状態ではなかったのだ。