4月17日
4月17日(水)
玲璃は何だかウキウキしていた。
重荷だった許嫁との面通しが滞りなく終わったこと、そしてその許嫁が想像以上に素敵な男性だったことが、嬉しくてならなかったのだ。
今日は楽しみにしている数学もある。鼻歌を歌いながら机に教科書をしまっていた玲璃は、前扉の向こうからこちらを覗いているやたら背の高い男……寺崎の姿に気がついた。
「寺崎。どうした? こんな朝っぱらから」
玲璃はにこにこしながら寺崎の方へ歩み寄ったが、彼はどうしてだか暗い表情だった。
「おはようございます、総代。すんません、朝っぱらから……」
「いや、別に構わないが、どうした? 何かあったのか?」
寺崎は辺りを見回して近くに人の姿がないことを確かめると、声を潜めた。
「総代が気にかけていた、紺野という男のことですけど」
その名前を聞いた途端、玲璃はハッとしたように真顔になった。
「何か分かったのか?」
「……総帥から、何も聞いてないんですか?」
「? いや、何も……。そういえば、昨日は朝からメールやら電話やらがやたらとかかってきて、滅茶苦茶忙しそうだったのは確かだが、特には」
玲璃は昨日の義虎の様子を思い返した。確かに普段より忙しそうだったかもしれないが、その前日は面通しがあった。その関係でいろいろ処理しなければならないことがあるのだろうとたいして気にかけなかったのだが、そう言われれば確かに硬い表情で慌ただしく動き回っていた気がする。
寺崎は軽く身をかがめると、先ほどより更に声を潜めた。
「実は、あの紺野とかいう男……能力者かもしれません」
「は?」
想像もしていなかったその発言に、玲璃は目を丸くして凍り付く。寺崎は、畳みかけるように言葉を継いだ。
「しかも、神代の血統かもしれないんです」
「はあ??」
玲璃はあまりのことに口を開け、目を丸くして完全に動きを止めてしまった。しばらく経ってようやく思考が回転し始めたものの頭の中が疑問符だらけと言った様子で、これだけ言うのが精一杯なようだった。
「……っと、どういうことだか順を追って説明してくれないか。頭の整理が……」
「あ、そうですね。すみません。実は一昨日……」
寺崎はそう前置いてから、先日の出来事を語り始めた。
☆☆☆
寺崎がひと通り話し終わったあとも、玲璃はしばらくの間何も言わなかった。黙りこんで、じっと廊下の表面に目線を落としている。寺崎も、かける言葉が見つからなかった。こんな突拍子もない話を聞かされて、驚かない方がどうかしている。
ややあって、玲璃は重い口を開くと、ささやくように問いを発した。
「……じゃあ、紺野は今、どうしている?」
「わかりません。少なくとも、まだ意識は戻ってないと思います。輸血できなかったんで、今生きているだけでも奇跡的だって聞きましたから」
玲璃は、指先が震え出すのを感じた。
あの時。あの庭園で亨也が感じたと言っていた、三回の能力発動。あれが多分、紺野に関わる反応だったのだ。
自分があののどかな庭園で彼と談笑していたとき、紺野は能力者に襲われ、死にかけていたのだ。玲璃は自分の不甲斐なさに打ちのめされる気がした。
玲璃も一応は、魁然家の総代という立場の「高位能力者」だ。一般社会になじむよう普段は能力を抑制して表面に出さないようにしてはいるが、常人離れした高い身体能力と肉体回復力を有している。能力発動の察知にしても神代一族ほどではないにしろ、普通の人間に比べればはるかに敏感だ。
しかし、彼女はこれまでその能力を発揮したことも、立場に見合う責任を果たしたこともない。いつでも父である義虎に守られ、その背中に隠れ、その指示に従い、能力の抑制も義虎に命じられるままに行ってきた。未成年だったことをその理由とするなら、玲璃は先日十八歳になった。立場に見合う責務を果たしていい年齢だ。だが、今回も義虎は自分には何も知らせず、黙ってその危機に対処している。同じ「総代」という立場にあるはずの神代総代も、その立場に見合う責務を立派に果たしている。翻って、自分はいったい何なのだろう。責務を果たすどころか、能力発動すら感じ取れずに、目通しがうまく行ったことにただウキウキして浮かれていた。これでは張子の虎と同じではないか。玲璃は忸怩たる思いで、きつく奥歯を噛みしめた。
「様子を見に行っても、いいだろうか」
予想もしていなかった玲璃の言葉に、寺崎は目を丸くした。
「え? 総代がですか? どうして……」
問い直された玲璃は、目線を彷徨わせながら言いにくそうに言葉を返す。
「どうしてって……いや、普通は気になるだろ。一族に関わる案件で、同じ高校の生徒が死にかけてるんだぞ」
そのあまりにも「普通」な感覚の返答に、寺崎はぽかんと口を開けて玲璃を見てしまった。
今回の件に関わっている相手は能力者である可能性が高く、一族にとって危険な存在かもしれないのだ。何より、今回の件に玲璃が責任を感じる必要など全くない。でもそういう、大人的な合理性や一族の特殊な都合を度外視して、とにかく普通で真っすぐで正直なところが総代のいいところなんだよなと、なんだかやけに温かい気分になる寺崎だった。
「……でも、おそらく総帥はお許しにならないと思いますよ」
「どうしてだ?」
「だって、紺野は能力者で、しかも神代の血が入ってるとなると、十六年前のあの事件に絡んでいる可能性も十分あるってことじゃないですか」
玲璃は黙り込んだ。
十六年前の、あの事件。あの事件で生まれた、恐るべき子ども――鬼子。
事件の経過を、玲璃は詳しく知らない。父親をはじめ、一族の誰に聞いても詳しくは教えてもらえなかった。だが、十六年前に一族の者が禁を破り、危険な子どもを産んで死んだということだけは知っている。
紺野が、その子どもの可能性がある?
「まさか……」
「俺もまさかと思ってますけど、絶対とは言い切れませんから。総帥は総代を大事にされてますから、危険からは遠ざけようとすると思いますよ」
玲璃はそれ以上何も言わなかった。ただ、何か考えるように、じっと目の前の床を見つめていた。