4月16日 2
気の早い太陽が顔を出したのか、人気のない病院の廊下にも微かな日の光が届き始めた。
窓から入ってくる日差しに薄暗い廊下が徐々に照らし出され始めると、長椅子に座っていた白衣姿の男……神代亨也もうつむいていた顔を上げ、明るくなり始めた窓の外に目を向けた。
そこへ、同じく白衣を着た三十代前半とおぼしき女性医師が、缶コーヒーを両手に持ってやってきた。腰までもある茶色いストレートヘアを無造作に束ね、色白の肌に大きな目が魅力的な、才媛といった雰囲気の美女だ。
「総代、お疲れさまでした」
女性はそう言うと、ねぎらうような笑顔とともに亨也に缶コーヒーを差し出した。
「ありがとう、沙羅くん」
亨也がそのコーヒーをを受け取ると、沙羅と呼ばれたその女性は彼の隣に腰を下ろした。
「結局、一晩かかってしまいましたね」
享也は缶コーヒーに口をつけると、苦笑混じりにうなずいた。
「腱を再生するのに案外時間がかかってしまったからね。でもまあ、なんとか持ちこたえてくれて良かった」
「総代が出血を食い止めてくださっていたおかげです。あれがなければ、たぶん手術終了まで持ちこたえられなかったでしょう。……しかし、驚きましたね」
その投げかけに、亨也は缶コーヒーから口を離すと、朝の光を反射して鈍い光を放つ灰色の床に黙って目線を落とした。
「あの血の成分……あの男、寺崎とかいうあの末端構成員の話では、転移した可能性があるんでしょう?」
「恐らくは。私も三回ほど能力発動を感知したが、そのうちの二回は彼によるものだと思う。あとの一回は分からないが」
「あとの一回は、完全に違う能力者による発動でしたか?」
「そう思う」
その言葉に、沙羅は鬱々とした表情で小さく息をついた。
「何にせよ、あの紺野とかいう男については、血液成分はもちろん、遺伝子検査や能力測定、記憶解析その他、あらゆる角度から調査する必要がありますね。もし本当に神代の血を汲んでいるのだとしたら、総代以外の男性で能力を発動できる人間となると、あのときに生まれた鬼子以外に考えられませんから……ところで、両総帥に現状報告はされましたか?」
「神代総帥には概略を送信済みだ。魁然側にも連絡を入れた。魁然総帥はじきじきに病院にお越しになるそうだ」
「そうですか」
沙羅は言葉を切ると、缶コーヒーを飲み干す亨也を横目でじっと見つめた。次の言葉を口に出すのを躊躇うように逡巡していたが、やがて覚悟を決めたように唾を飲み込むと、おずおずと問いかける。
「……ところで、昨日、お会いになったんですか?」
「え?」
首をかしげて聞き返した亨也からあわてて視線を逸らすと、沙羅は先ほどより小さな声で言葉を継ぐ。
「あの……魁然総代に」
亨也は何ということもない様子で「ああ」と頷いた。
「会ったよ」
沙羅は亨也の視線から逃れるように、足元の床を見つめていた。
「……いかがでした?」
「? いかがもなにも、かわいい子だったよ、案外ね。ただ、まだ十八歳だからね。何を話していいのか正直よく分からなかったけど」
そう言って困ったように笑う亨也に、沙羅は苦笑しているような、でもどこか寂し気な、複雑な感情がないまぜになった笑みを返した。
☆☆☆
魁然義虎は、神代の病院前でタクシーを降りた。
武骨な右手には、黒い携帯が握られたままだ。
先ほど神代総代から受け取った衝撃的なメール。能力を有する男……しかも神代一族と同一の血液成分を持つ者が発見されたとあっては、何をおいてもその男の顔を見に行かずにはおれなかった。連絡を受け取るやいなや、彼はみっちり詰まった午前中の予定の一部を強引にキャンセルして、神代の病院に駆けつけたのだ。
病院の入り口には神代総代である亨也と、神代沙羅医師の姿があった。義虎が歩いてくると、享也が一歩前に進み出て恭しく一礼する。
「ご苦労さまです、魁然総帥」
「……いや、総代の方こそ、昨夜は寝ていないのでは? 申し訳ありませんな。お疲れのところ、お時間をとらせてしまって」
「とんでもない、非常事態ですから。まずは応接室にて状況説明をと思っているのですが、すぐに確認された方がよろしいですか?」
義虎は固い表情で頷いた。
「私もあまり時間がない。すぐに確認させていただけますか。状況説明は案内していただく道すがら、概略をお聞かせいただければ十分です」
「わかりました」
享也を先頭に、三人は病院に入った。九階のICUへ向かうためにエレベーターホールに向かいながら、義虎が重々しく口を開く。
「あの男の血液成分が、神代の成分と一致したそうですね」
義虎の斜め後ろを歩いていた沙羅が、その問いかけに厳しい表情で頷く。
「はい、詳細な分析はこれからですが、われわれ一族と一致しているのは確かです」
エレベーターホールについてからも、義虎はさらに質問を重ねた。
「魁然側の成分はどうでした? 神代の成分と比較しての含有率など、わかる範囲で教えていただけますか」
「それが……魁然の成分とは一致点がありませんでした」
「なんですと?」
義虎は目を丸くして斜め後ろに立っている沙羅を見た。
「そんなバカな。その男、能力を発動させたと聞いているが」
沙羅は義虎のけんまくに身を縮めながらおずおずと頷く。
「はい。その可能性が濃厚です」
「あり得ない。なにかの間違いではないのか?」
義虎はエレベーターが到着したことにも気づいていない様子でまくしたてた。
「珠洲の報告では、その男は玲璃の高校の新入生と聞いている。十五、六歳であれば、年齢的にもあの子どもと近い。その上、能力発動をしたとなれば、鬼子とみて間違いないだろう。それなのに、魁然側の成分がみられないなどと……何かの間違いとしか思えないのだが」
そこで、それまで黙ってエレベーターの扉をあけて待っていた亨也が、静かに口を開いた。
「検査は二回行って、二回とも同じ結果が出ました。たぶん間違いはないでしょう。その理由については、今後の解析や調査の結果を待つしかないと思います。鬼子が出生後、どのような成長過程を経て、どのような体質、特性を有するようになるのか、前例が全くないわけですから。鬼子が血液成分のバランスを欠いて生まれた子どもである以上、何が起きても不思議はないのも確かです。とにかく、まずはご覧になってください。魁然総帥は実際に、事件当事者である裕子さんの顔はもちろん、あのとき自殺した犯人の顔もご覧になっています。何かわかることがあるやもしれません」
義虎はうなずくと、厳しい表情でエレベーターに乗り込んだ。九階に到着すると、清潔だが無機質な廊下をICUへ向かう。
マスクなどを装着して規定通り身支度を調えると、三人はICUの中へ入った。モニターや心電図計、酸素吸入器その他の機器が所狭しと並ぶ室内の一番奥のベッドに行くと、享也はそこに横たわる人物を手で示した。
「この男です」
マスク越しに少々くぐもった声で亨也が言う。義虎はベッドサイドに歩み寄ると、身を乗り出してその顔を見た。
酸素マスクを装着されているため顔は上半分しかわからなかったが、弱々しい呼吸を繰り返すその顔を見た瞬間、義虎は息を呑んだようだった。
「意識はまだ戻っていません。本当は輸血が必要なのですが、輸液のみしかできていないので生きているのが奇跡的ですね。一応、致命的な傷に関してだけは私の能力で修復していますが、危険な状態です」
義虎は、そう説明する亨也の声も聞こえていないかのように、身動きひとつしないで紺野の顔を凝視している。亨也はそんな義虎の様子を見て、いたわるような表情を浮かべた。
義虎はややあって、紺野の顔に目線を落としたまま、かすれた声で問いを発した。
「……危険な状態とは、つまり、いつ死んでも不思議はない状態、という理解でよろしいですか」
その問いに、享也は重々しく頷いた。
「はい。そういうことになります。合法的に存在を抹消するのに、今は非常に好都合と言えるでしょう。ただ、処分を実行するための判断の材料が現時点では十分とは言えません。血液や遺伝子などの解析にはあと一週間ほどかかります。本来なら、その結果が出るまで処分の判断を待つのが筋でしょうが、その結果、現状より容体が改善してしまう可能性があるわけです。意識が回復したあとで鬼子であることが判明した場合、処分が難しくなるのは確かです」
義虎は顔を上げると、言葉を止めている享也の顔をじっと見つめた。
「……鬼子であることが科学的に証明されない限り、抹消について私の一存で決めることはできん。両一族の会議にかけて了承を得ないことには」
「わかりました。では、検査結果がでないうちにこの男の容体が持ち直した場合、病院を収容施設として、処遇が確定するまでわれわれの方で身柄を拘束し、動向を監視する、という対応でよろしいでしょうか」
「神代側には過分な負担をおかけして申し訳ないが、そうしていただけるとたいへん助かる」
義虎は享也に向き直ると、深々と頭を下げた。
「状況の急変を含め、監視の人員や拘束が必要となった場合、その都度連絡をいただければ魁然側でも対処します。容体に急変があった場合や万が一死亡した場合もご連絡ください。連絡を密に取り合いながら連携してまいりましょう。今後ともよろしくお願いいたします。では、私はこのあと十時から会議がありますので、これで失礼させていただきます」
義虎は再度享也と沙羅に一礼すると、寝ている男を横目で一瞥し、足早にICUを後にした。
エレベーターに乗り、扉が閉まると、義虎は壁にもたれて大きく息をついた。
先ほど見たあの男の顔が、まぶたの裏に焼き付いて離れないのだ。
――そっくりだった。
十六年前起きた、思い出すのもおぞましいあの事件。裕子に鬼子を孕ませた東という男は投身自殺をはかった。義虎は、その死体の検屍に立ち会ったのだ。
落下時に側頭部を強打し、割れた頭から脳が露出してはいたが、高層階から転落した割に遺体はきれいな状態だった。忘れもしない、その時に見た死体の顔に、先ほど見た紺野とかいう男の顔は瓜二つと言っていいほどそっくりだったのだ。
――であれば、やはりあの男は。
義虎は、震える拳を握りしめた。
あのとき、病院に残されていた赤子の死体は、中身が空っぽだった。部屋の中には何かが這いまわったような跡と、かすかなエネルギー発動の痕跡も残されていた。とても信じられないことだが、赤子の中身が脱皮のような形で抜け出た可能性があると結論付けられた。もしそれが事実で、あの赤子が順当に成長していれば、十六歳……まさに、あの紺野という男と同じ年齢になるはずなのだ。
東という男の血液や遺伝子も調査した。神代総帥からの報告によれば、相当に濃度の高い混血、しかも、傍系ではなく主流派の血を汲んでいるという結果が出たそうだ。一般人の突然変異遺伝子も確認できたことから、神代一族の主流派の誰か、おそらく不顕性の男系血族が、能力発動のできる突然変異の一般人との間に子をもうけた結果、能力発動のある男子が生まれた非常に珍しい事例だろうという結論で落ち着いた。
血族婚に納得している者ばかりではない以上、堂々と宣言して一族を抜ける者だけでなく、陰に隠れて浮気という形で一般人との恋愛を継続する不届きな混血事例は時たま起こる。魁然一族でも同様のことはこれまで何件かあった。そういう事実が明らかになったときは、一族の結束に水を差さないよう、遺伝子検査などは行わず、誰の子であるかは闇に伏せるのが通例になっている。だが、義虎はあの時ばかりは、遺伝子検査をして親を突き止めてほしいという激しい衝動にかられた。一族の誰かがそんな不貞を行いさえしなければ、あの東という男は生まれず、裕子があんな悲惨な目に遭うこともなかったのだから。
義虎は奥歯を音がなるほどきつく噛みしめた。
紺野というあの男は、間違いなく裕子とあの東という男との間に生まれた鬼子だ。能力発動をし、東にうり二つの容貌を見れば、血液検査や遺伝子検査の結果を待つまでもなく結論は明白だ。それ以外に考えられない。
――このまま、殺してしまった方がいいのではないか?
神代総代も、今ならどちらに転んでもおかしくないと言っていた。意識不明なのだから抵抗されることもない。法治国家に生きている以上、あまり不自然な状況で殺害すれば後始末がいろいろと面倒になる。意識が戻った後で殺害の決定が出たとして、相手は能力者であり、抵抗されればそれなりの損害も受けるだろう。場合によっては一族側に被害が出ることもありうる。今なら、そういった心配をすることもなく、すんなり闇に葬ることが可能なのだ。
義虎は九階に戻ろうとエレベーターのボタンに手を伸ばしかけた。だが、躊躇うようにその動きを止めた。
先日の顔合わせの際の、玲璃の花のような艶姿が脳裏をよぎったのだ。
義虎は、複雑な出自と家庭環境を背負わせてしまっている負い目もあり、玲璃にはできるだけ一族に関わる薄暗い事実を知らせず、背負わせず、ごく普通の娘と同じ幸せを味わえるように気を使って育ててきた。そんな彼女が、たとえ面識はなくとも、自分と同じ学校に通う同年代の「子ども」を自分の父親が殺したと知れば、相当な衝撃を受けるに違いない。無論彼女にそんな事実を知らせるつもりは毛頭ないが、血で汚れた手を隠しながら純真な娘に平常心で相対せる気がしなかった。
娘を言い訳に自らの手を汚す覚悟すらできないのかと、義虎がさげすむような笑みを浮かべた時、エレベーターの扉が開いた。義虎は暗い表情で一階のフロアに出、エントランスに向かって歩き始めた。
――とはいえ、確かに不審な点は多い。
裕子の子である以上、魁然側の血液成分が検出されないはずがない。鬼子は「不均衡な混血」であり、一方の血の特性がもう一方を駆逐してしまうことは理論的にはありうるが、それが果たして成分まで駆逐することにつながるかどうかがわからない。また、紺野という男が本当に鬼子なのだとしたら、あんな負傷をするはずがないだろう。能力として転移能力しか発現できない可能性もゼロではないが、だとしても暴行を受けた時点で転移して逃れれば済む話だ。なぜあんな状態になるまで無抵抗にやられたのか、非常に不可解だ。加えて、あんな状態になるまで痛めつけたもう一人の能力者の存在も気になる。靴跡から捜査をすすめているが、この能力者もまた、鬼子となんらかのかかわりがあるのだとしたら。
今回の件は、解明しなければならないことがあまりにも多すぎる。あの男を今すぐに殺してしまえば、これらの謎のかなりの部分があの男とともに闇に消えることになる。それは義虎としても、できれば避けたいことには違いなかった。
――とにかく、あの男はしばらくは動けない。あと一週間で検査結果も出る。その間に、可能な限り調べを進めるしかないだろう。
義虎は思いを新たにしつつ、明るい日差しのあふれるエントランスを抜け、病院をあとにした。