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輪廻  作者: 代田さん
第五章 解放
199/203

6月28日 4

 玲璃の姿はかき消えた。寺崎の目にはそうとしか映らなかった。彼の動体視力をもってしても、玲璃の動きを捉えることはできなかった。

 そして、次の瞬間。寺崎が見たのは、義虎の腹に深々とめり込む玲璃の拳だった。

 寺崎は瞬ぎもせず、息を殺してその光景を凝視した。

 寺崎には分かったのだ。義虎が、みじんも避けようとしていなかったことが。

 いかに総代である玲璃の攻撃であっても、真正面から、しかも宣言までされたのだ。総帥たる義虎であれば、かわすことは可能だったはずだ。だが、義虎は動かなかった。微動だにしなかった。玲璃の百パーセントの力をこんなふうに正面から受け止めれば、無事でいられるはずがない。

 そして、それは玲璃も分かっていた。一歩踏み出した瞬間に目を閉じた義虎を見て、玲璃は父の意図を察した。だが、それでも玲璃はやめなかった。今ここでやめることは、義虎に対して非常に失礼なことだと思ったのだ。

 同時に、父の思いも感じていた。

 父は多分、裕子を愛していた。

 珠子も、珠洲も捨てることはできない。加えて、親子ほどの年の差に対する羞恥心、そして社会的な自分の地位……そういった諸々のことが、彼を現実に引き戻そうとする。だが、それでも裕子への思いは断ち切りがたかった。一族の目的も、彼を後押しした。そうして、玲璃は今のような形で存在することになったのだ。

 父の心情を理解することはできる。ある意味、そうなっても仕方のないことだったのかもしれないとさえ、思う。でも、玲璃には受け入れがたかった。妻も子どももありながら、中学生だった裕子に子どもを産ませ、その子を取り上げて彼女を捨てた父が。

 玲璃はそういう全ての思いを、その拳に込めたのだ。


 

☆☆☆



 足元に落としていた目線を上げて、玲璃は義虎を見た。

 義虎は上半身を折り曲げ、両手をだらりと両脇にさげたまま、腹をかばう様子もなくうつむいている。

 しかし、全力で突き入れたはずの玲璃の拳は、義虎の腹に当たってはいなかった。体に当たる寸前、あと数センチのところで、玲璃の拳はまるで見えない壁か何かに阻まれたかのように止まっていた。

 義虎の体をぼんやりと覆う、白い輝き。


「……紺野」


 玲璃は拳を収めると、ゆるゆると振り返った。

 寺崎に血だらけの上半身を支えられ、肩で息をしながらうつむいていた紺野は、玲璃の視線に気づくと、頭を下げるようなしぐさをした。


「すみませんでした。口出しできる立場じゃないのは、分かっていたんですが……」


 寺崎は目を丸くして紺野を見た。全く気がつかなかったのだ。恐らく、あの玲璃のスピードに合わせて、本当に一瞬だけ気を放出したのだろう。百パーセントの解放により、紺野のコントロール能力も格段に上がっているらしかった。


「どうしてだ?」


 玲璃はどこかぼうぜんとした様子でそう言うと、潤んだ目で紺野を見つめた。


「おまえは、父様に散々ひどい目に遭わされてる。今だって、そんな目に遭って……。それなのに、どうして父様を庇うんだ?」


 それまでじっとうつむいていた義虎も、ようやく少しだけ顔を上げると、血だらけの紺野に目を向ける。

 玲璃の言葉に、紺野は目線を落としたまま、小さくかぶりを振って見せた。


「誰も、悪くないんです」


 その頬に、悲しげなほほ笑みが浮かぶ。

  

「加害者なんて誰もいない。何かが少しずつ狂ったせいで、こんなことになっただけなんです」


 義虎は、つぶやくように言葉を継ぐ紺野を、瞬ぎもせず見つめていた。


「あなたの気持ちは、きっとお父さんに伝わっています。だからこそ、お父さんは何も抵抗しようとしなかった。自分が死んで、あなたを自由にするつもりだったんです。それが分かっただけで、もう十分でしょう? 何も本当にそんなことをしなくても、もうあなたは自由なんです」


 少しだけ顔を上げ、紺野は優しく玲璃を見つめた。


「あなたは本当は、お父さんが大好きなんでしょう」


 玲璃ははっとしたようにその目を見開いた。


「僕のシールドに当たる直前、あなたは自分の力を自分でセーブした。恐らく僕のシールドがなくても、魁然さんは大丈夫だったでしょう」


 優しい、それでいて悲しげなほほ笑みを浮かべながら、紺野は静かに言葉を継いだ。


「素直になってください。そうしてあと何年かして、あなたが子どもを持つようになった時、きっとお父さんの気持ちが分かる時が来る」


 言葉を切り、乱れた息を整えると、紺野は目線を落とした。


「僕はあなたに会った時、実はとても驚いたんです。あなたは相当に複雑な環境で育ってきている。それなのに、あなたは明るくて、素直で、優しくて、本当にまっすぐに育っていた。普通なら、もう少し暗さがあったり、曲がっていたりしても不思議はないのに」


 そう言うと、その場にぼうぜんと立ち尽くしている玲璃を優しく見つめた。


「それはきっと、お父さんのおかげなんです」


 玲璃は息をのんだようだった。口元を両手で覆い、呼吸を忘れて立ちすくむ。


「お父さんは、あなたが自分の生い立ちで苦しんだり悩んだりしないように、本当に気をつけながらあなたを慈しみ育てた。きっと、その結果なんだと思います」


 喉元が激しく震え、玲璃の目から堰を切ったように涙があふれた。くずおれるように膝をつき、肩を震わせながらその顔を両手で覆う。

 紺野は寺崎にちらりと目を向けた。寺崎は迷うように動きを止めたが、すぐに小さくうなずき返すと、紺野から離れた。泣き崩れる玲璃の側に寄り添い、震える肩をそっと抱きしめる。

 紺野はそんな二人を見つめながら、絞り出すようにつぶやいた。


「全て、終わったことなんです。だからもうこれ以上、傷つけ合うのはやめてください……」


「何も終わっていない」


 するとその時、今までじっと黙っていた義虎が、突然口を開いた。血だらけでうずくまる紺野を見下ろしながら、地をはうような声を絞り出す。

 

「私は、カタをつけなければならない。十六年前に起こった、あの出来事に。裕子が死んだあの瞬間から、私の人生はストップしたままだ。それにカタをつけない限り、何も終わりはしないのだ」


 紺野は肩で息をしながら義虎を見上げると、小さくうなずいた。


「分かっています。僕はそのつもりでここに来ました。あなたに会って、気の済むようにしていただこうと……。僕は抵抗できないし、たとえできたとしてもするつもりはありません。あなたの思うようになさってください」


 そう言うと、目線を落として悲しげにつぶやく。


「僕はそれだけのことを、あなたにしてしまっている」


「勘違いするな」


 つっけんどんに差し挟まれたその言葉の意味が分からず、紺野は戸惑ったように顔を上げた。

 紺野を見下ろす義虎の目には、先刻までの煮えたぎるような憎悪は影を潜めていた。代わりに深い海の底のような、静かで悲しげな色がにじんでいるように見える。

 義虎は震える唇から、つぶやくように言葉を発した。

 

「被害者は、おまえだ」


 紺野も、そして、寺崎と玲璃も、その言葉に目を見開いた。


「十四歳の裕子と関係を持ち、産んだ子を取り上げ、その気持ちを顧みず、あんな結果を招いてしまった。全ての原因はこの私にあるんだ。私のせいでおまえは、滅茶苦茶な人生を歩まざるを得なかったんだ」


 義虎は、絞り出すように言葉を継いだ。


「私は、おまえを必要以上に憎むことで、自分の罪から目を逸らそうとしていた。全ておまえが悪いと、そう思いこもうとしていた。そうしなければいられなかった。自分が裕子を殺してしまった事実を、直視することなどできなかったんだ」


 言葉を切り、堅く目をつむる。体全体が震えているのが、端から見てもはっきり分かる。


「だから、おまえが私を殺せ」


「魁然さん……」


「ひと思いに殺してくれ。おまえのその力で、跡形もなく消し去ってくれ」


 紺野はゆっくりとその首を横に振った。


「できません」


「なぜだ?」


 紺野はほほ笑んだ。優しい、それでいて、なんとも悲しげなほほ笑みだった。


「あなたには、大切な人たちがいるでしょう」


 義虎ははっとしたように目を見開いた。

 ゆるゆるとその視線を、寺崎に肩を抱かれ、涙に濡れた目で自分を見つめている玲璃に向ける。


「しかもあなたは、社会的に非常に重要なポストに就いていらっしゃる。あなたの下には、あなたの指示を待っている何千人もの人々がいる。死んでいる場合じゃないでしょう?」


 そう言うと紺野は、悲しい目で遠くを見つめた。


「裕子のことは、僕はあなたの責任だとは思わない。しいて言うなら、われわれの血のせいです。でもそれは運命で、抗えようもない。だから、あなたが必要以上に責任を感じることはない。あなたの話を聞いて、僕はそう思いました」


 言葉を切り、微かに目を伏せる。


「そうは言っても、責任を感じてしまう気持ちも、僕は良く分かります。それは仕方のないことです。でもそのことで、あなたが死ぬ必要は一切ない。そんなことより、……生きてください」


 義虎は瞬ぎもせず紺野を見つめていた。


「生きて、誰かの役に立つことで初めて、亡くなった人たちに報いることができると……あの時僕は、京子さんに言われました。その通りだと思います。僕はこれからその方法を探さなくてはなりませんが、あなたはその仕事を通して大きく社会に貢献することができる、非常に恵まれた立場にいらっしゃる。本当に羨ましい」


 紺野は口をつぐんだ。しばらくは苦しそうに肩で息をしていたが、ややあって、荒い呼吸の間からとぎれとぎれに言葉を継ぐ。


「だから、生きてください。裕子の分まで。裕子だって、あなたが、死んだりしたら、きっと、悲しむ……」


 そこまで言った時、紺野の意識がふっと途切れた。崩れ落ちるその体を義虎が即座に支えたが、着衣を真っ赤に染め上げているその出血量に息をのむ。


「紺野!」


 紺野は薄く目を開き、かすれた声でささやいた。


「僕を……許して、くれますか……」


「許すも許さないもないだろう!」


 義虎は激しい口調で叫ぶと、のどのこわばりを必死で飲み下した。


「おまえに許しを請うべきは、私だ。私の方こそ、おまえにそう聞かなければならない」


 涙をにじませ、唇を震わせながら、かすれた声を絞り出す。


「私を、……許してくれ」


 紺野は長いまつ毛を伏せると、微かに笑ったようだった。


「……はい」


 紺野はそれきり動かなかった。意識が途切れたようだった。


「紺野!」


 寺崎は弾かれたように立ち上がると、紺野のもとに駆けよった。義虎の腕の中の紺野は、血のついた口を何か言いかけるようにほんの少しだけ開けて、目を閉じていた。何とも穏やかな表情だった。

 義虎は抱えていた紺野を寺崎に託すと、ポケットから携帯を取りだした。どこにかけるつもりなのか、慌ただしく画面を開く。

 と、その時、病室の扉がすっと開いた。

 そこに立っていた思いがけない人物の姿に、玲璃も、寺崎も、そして携帯を手にした義虎も、驚きを隠せない様子で動きを止めた。


「かけてもムダですよ、ずっとここにいましたから」


 その人物――神代亨也はそう言って笑うと、部屋の中に入ってきた。いくぶん足を引きずってはいたが、力強い足取りは体調の確かな回復を感じさせた。

 寺崎が紺野をベッドに移動してやると、享也はさっそくその状態を確認しながら、横目で義虎を見やる。


「外していただけますか?」


「分かっている」


 義虎は即答すると、ポケットからICカードを取り出し、亨也の首に装着されているチョーカーに触れた。チョーカーは軽い音とともに外れ、床に涼しい音をたてて転がり落ちた。

 チョーカーが外れた瞬間から、亨也の手元は待ちきれないように銀色の輝きを放ち始めていた。目映く輝くその手をかざして、すぐさま治療を開始する。

 順平は、入口近くにたたずんでその様子を見ていたが、義虎と目が合うと、その傍らに歩み寄った。


「ありがとうございました」


 順平は目を潤ませてそう言うと、深々と頭を下げる。小さく首を振ると、義虎も順平にならって頭を下げた。


「いろいろと失礼なことを申し上げて、申し訳なかった」


「とんでもない。われわれの方こそ、多大なご心労をおかけして……」


 そう言って順平は、にじんでくる涙を指先で拭った。


「亨也が能力発動を感知したので、自宅の監視員の方々には少々眠っていただいて、ここまで来たんです。でも、何だか立ち聞きするような感じになってしまいました……申し訳ない」


「そうだったんですか」


 義虎はうなずくと、振り返った。

 寺崎に寄り添うようにしてたたずむ玲璃の姿が目に入る。

 義虎の目線に気づいたのか、玲璃もうつむいていた顔を上げた。

 義虎は、二人の方に向かって歩き始めた。かみしめるような足取りで近づいてくる義虎を、寺崎と玲璃は体を寄せ合い、緊張した面持ちで見つめている。

 足を止めた義虎は、寄り添う二人を見つめながら、しばらくは黙っていた。


「玲璃」


 ややあって、低い声で自分の名を呼ばれた玲璃は、緊張に頬を強ばらせながらその顔を上げる。


「はい」


「好きな男とは……その男か?」


 ドキッとしたように目を見開いてから、玲璃は義虎の方に顔を向け、しっかりと目線を合わせてうなずいた。


「はい」


「そうか」


 義虎の目に、どこか寂しげな色が浮かんだ。


「大学にも、行くのか」


「はい」


 玲璃は義虎を見つめるまなざしに、より一層力を込めて、きっぱりとうなずいた。

 義虎はしばらくの間、そんな娘をじっと見つめていた。少しだけ寂しそうに、そして、微かに嬉しそうに。


「好きにするといい」


 その言葉に、玲璃は呼吸すら忘れた。寺崎も大きくその目を見開き、ぼうぜんと義虎を見つめている。

 義虎はそんな二人の視線を受け止めながら、重々しく続けた。


「ただし、この先の人生、何があっても自分で責任を取れ。大学に行く金を出すとか出さないとか、全部一人で解決しろとか、そういうことじゃない。おまえの選んだ道の先で困難が降りかかったとき、そこから逃げずにきちんと向き合って、諦めずに解決の道を探せ。自分の選んだ道なんだ。自分の責任で、その道を立派に歩き通してみせろ」


 玲璃の頬が震え、喉元が激しく上下する。


「……はい」


 かすれて裏返った声を絞り出した途端、その目から耐えきれなくなったように涙があふれた。


「ありがとうございます、父様……」


「いや」


 義虎は小さく首を振ると、その目を寺崎に向けた。


「寺崎くん、だったか」


「は、はい」


 自分を見据える義虎の視線を、寺崎は緊張に頬を引きつらせながらも、正面からしっかりと受け止める。

 にらみ合うかのように寺崎と視線を交わしていた義虎は、やがてぽつりと一言、こう言った。


「玲璃のことを、よろしく頼む」


 寺崎は大きくその目を見はり、足りなくなった酸素を一気に肺に供給した。

 それを一気に吐き出しながら、万感胸に迫る思いで答えを返す。


「……はい!」


 感情のたかぶりが抑えられなくなったように、玲璃は嗚咽しながら寺崎の胸に飛び込んだ。驚いたように目を丸くした寺崎も、その体を両腕で包み込むように抱き締め返す。

 義虎はそんな二人から目をそらすように、窓の外に目を向けた。

 雨は上がっていた。厚い雲の隙間から、まるで定規で引いたような光が真っすぐに地上に降りそそぎ、雨上がりの町を明るく照らし出していた。

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