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輪廻  作者: 代田さん
第五章 解放
198/203

6月28日 3

 紺野の頭部は、スイカのように割れ、砕け散ったかと思われた。

 そうなるはずだった。

 だが、紺野は生きていた。

 いつまでも襲ってこない衝撃を不審に思い、紺野は閉じていた目を薄く開いた。

 その視界に、誰かの足が映りこんだ。すぐ目の前、自分と義虎の間に誰かが立っている。重心をかけるように前後に開かれたすらりと長い足に、ワンポイントの入ったソックスとローファー。丈の短いグレンチェックのプリーツスカートに、校章の入った白のベスト……やがて、紺野の目に、肩を軽く覆うくらいの柔らかそうな髪が映る。

 振り下ろされた義虎の拳を両手で受け止め、乱れた髪の間から義虎を見据えているその人物は、義虎の娘――魁然玲璃、その人だった。


「やめてください、父様……」


 義虎はそんな玲璃の視線を瞬ぎもせず受け止めていたが、無言でその拳を引くと、不機嫌そうに口を開く。


「何をしに来た。今はまだ授業中のはずだ」


「能力発動を感知したから来たんです。絶対安静の紺野が能力を発動するなんて、よほどのことですから」


 義虎はあきれたように肩をすくめた。


「あれほど学校が好きだ行きたいとダダをこねておきながら、こんなことくらいで放り出して来るとはな。あきれた話だ」


 そう言うと、眼光鋭く玲璃を見据える。


「見て分かるとおり、おまえが首を突っ込むようなことではない。今すぐ学校に戻れ!」


「戻りません!」


 臆する気配もなく、玲璃は即答する。


「こんな状況を見て、戻れる訳がありません」


 吐き捨てるようにそう言うと、真っすぐに義虎を見据えてまじろぎもしない。

 義虎はそんな娘をにらみつけると、奥歯をきしませた。

 玲璃の背にかばわれ、そんな二人の様子を息を詰めて見守っていた紺野は、自分の背にそっと誰かの手が添えられたのを感じた。はっとして振り返ると、そこには寺崎の姿があった。紺野の目線に気づくと、軽く息を切らしながら、心配そうに口を開く。


「大丈夫か、紺野」


「寺崎さん……」


 寺崎はあざだらけだった。唇の端も切れている。見ると、開け放たれた病室の扉の隙間から、先ほど廊下に出て行った護衛や監視役が廊下にのびているのが見えた。入室しようとした際に小競り合いになったのだろう。

 寺崎はにらみ合う二人に目を向け、緊張した面持ちで黙り込んだ。紺野も、再び視線を目の前の親子に目を移し、その動向を注視する。

 義虎は、口の端をゆがめると、吐き捨てるように言葉を返した。


「こんな状況だからこそ、子どもは帰れと言っている。危険人物の粛清など、子どもが見ていいものではない」


「……危険人物?」


「そうだ」


 義虎はうなずくと、玲璃の背後にうずくまる紺野を震え上がるような目でにらみ付ける。


「こいつは、われわれ一族をのっとろうとしている危険人物だ。今すぐ粛正されてしかるべきだ」


「紺野はそんなことはしません! 第一、紺野は神代総代になるべき人物でしょう。そんな重要人物を、魁然の一存で殺していいはずがない」


「こいつは総代になる気はないそうだ。ならば神代一族にとっても不要だろう。われわれ一族にとって、生かしておく意味のない人間だ」


「父さまはいつも一族一族と仰います」


 そう言うと、刺すような目で義虎を見据える。


「でも、本当は違うんでしょう」


「何だと?」


「今仰ったことは、父様ご自身のお気持ちなんでしょう」


「……どういう意味だ」


 聞き返しながら、玲璃の顔をまじまじと見つめ直した。これまで彼女に対して感じたことのない雰囲気を感じたからだ。

 玲璃は明るく、素直で、従順な娘だった。親の言うことに反発することはあっても、その根底には親である自分に対する揺るぎない信頼があった。義虎は今まで、自分に対する娘の信頼を疑ったことはなかった。

 だが、今の玲璃には、その信頼がまるで感じられない。そのまなざしから感じられるのは、自分に対する暗い猜疑さいぎ心と、どす黒い不信感だけだ。

 戸惑いを隠せない義虎に向かって、玲璃は耐えきれなくなったように、叫んだ。


「父様は、どうしてそんなに紺野を憎むんですか!」


 まっすぐに義虎を見据えるその目には、大粒の涙が浮かんでいる。


「私はずっと分からなかった。なぜ父様が、紺野に対してこれほどまでに憎しみの感情を抱くのか。紺野に対する時だけは、父様はまるで別人のようです。優しくて、揺るぎなくて、信頼できて、温かくて……私の知っている父様はそういう人のはずなのに、紺野に対する時だけは、残酷で、冷酷で、非情です。私の知らない父様なんです!」


 吐き捨てると、玲璃はうつむいた。大きな目いっぱいにたまっていた涙が、重力の法則に従って音を立てて足元に滴り落ちる。


「父様は私に仰いました。自分は紺野を許せない。それは、私の母である裕子という女性を、結果的に殺したからだと。でも、私は違うと思った。裕子を殺したのは紺野じゃない」


 息をのむ義虎を、玲璃は涙にぬれた目でまっすぐに見据えた。


「私は今まで裕子という人のことを、なにも知らないままで生きてきました。知りたくなかった訳じゃないけれど、何となく聞いてはいけないような気がしていたから。でも、知るべきだったんです。知らなければいけなかった」


 玲璃はいったん言葉を切ると、その長いまつ毛を伏せた。


「……私、以前紺野に聞いたんです。裕子という人が、どんな人だったのか」


「何だと⁉」


 義虎はまじろぎもせず娘を見つめる。玲璃は目線を上げると、その視線をまっすぐに受け止めた。


「紺野は話してくれました。裕子は自分にとって全てだったと。そして、私のことをとても大切に思っていてくれたと……」


 微かに語尾を震わせ、玲璃は語尾をのみこんだ。寺崎も、紺野も、そんな玲璃を何とも言えない表情で見つめている。


「その話を聞いて、私は嬉しかった。裕子という人が、私のことを大事に思っていてくれたことを知って……」


 そう言うと顔を上げ、再び目線を義虎に合わせる。


「裕子は、十四歳で私を産んだそうですね」


 義虎は黙っていた。黙ったまま、硬い表情で玲璃の口元を見つめている。


「私は亨也さんとの結婚が決まった時、とても不安でした。まともに恋愛もしたことのない自分のような人間が、一足飛びに結婚なんかしてしまって本当に大丈夫なのか、子どもの自分が子どもを産んで、本当に育てられるんだろうかって……」


 玲璃は震える拳を堅く握りしめる。


「でも、裕子はそれよりもっとひどい。十四歳って、まだ中学生でしょう? 子どもを産んだって育てられる訳が、ない。それなのに……」


「それは、その通りだ」


 義虎はうなずいた。


「だからこそおまえは、珠子の子として、珠子が育てた」


「それを裕子は、納得していたんですか?」


 黙り込んだ義虎に、玲璃は矢継ぎ早に畳みかける。


「いくら子どもでも、産んでしまったからには、裕子は母親だったんです。育てられなくても、母親になってしまったんです! 紺野は言いました。裕子は私を何より大事に思っていた、だからこそ、あんな事件を起こしたんだと……。どうして、裕子から私を取り上げたんですか。育てられないのなら、どうして裕子がもっと成長するまで、待ってあげられなかったんですか⁉」


「……仕方がなかった」


 義虎は絞り出すようにこう言うと、奥歯をかみしめた。


「四十歳までに子を成さなければ、総代は産まれない。三百年来の一族の目的を、そこで無に帰す訳にはいかなかったんだ」


「じゃあ裕子とのことは、一族のためだけだったと仰るんですね!」


 その言葉に、義虎は胸をえぐられるような気がして、黙り込んだ。

 自分を見つめる玲璃に目を向ける。涙で潤んだ、大きな瞳。意志の強そうな、はっきりした眉。一文字に結んだ、その形の良い唇。

 その顔に、あの日の裕子の面影が重なった。



☆☆☆  



 雨が降っていた。

 薄暗く、湿った空気が澱んでいるその部屋の片隅に、裕子はうつむいて座っていた。

 義虎が障子を開けると、裕子はその顔を少しだけ上げた。

 義虎は部屋の入口にたたずんで、そんな裕子をじっと見つめていたが、やがて静かにその傍らに歩み寄った。


『……いいのか?』


 義虎がたずねると、裕子は小さくうなずいた。膝の上で握られた両手が、微かに震えている。

 義虎はそっと手を伸ばすと、うつむき加減の顔にかかっていた柔らかな髪をかき上げた。裕子はそれに応えるかのように、静かに顔を上げる。

 義虎を見つめる、裕子のまつ毛の長い大きな瞳。その潤んだ瞳には、もはや迷いは感じられなかった。全てを受け容れる覚悟を決めた目に、義虎には思えた。

 義虎は目を閉じると、その唇に自分の唇を重ねた。

 制服を脱ぎ捨てた裕子の体は、その年齢にしては成熟していたとはいえ、まだまだ未発達な、幼さの残る体だった。

 だが、義虎はそれを美しいと思った。繊細で壊れそうなその体を優しく愛撫しながら、義虎は幸せだった。このまま、死んでいいとさえ思った。

 事を終えた後、向こうを向いて横たわっている裕子の肩が、小刻みに震えているのに義虎は気づいた。半身を起こして目をやると、裕子の目のあたりを涙が伝い落ちているのが見える。


『……泣いているのか?』


 裕子は無言で小さくうなずいた。

 やはり、自分のような中年男と関係を持ったことは、彼女にとってはショックだったのだろう。いくら組織の命とはいえ、幼い少女を傷つけてしまった犯罪的な事実を突きつけられた気がして、義虎は重苦しい罪悪感に苛まれた。

 その時。裕子はゆっくりと体ごと反転させて、義虎の方に顔を向けた。

 義虎ははっとした。

 裕子はバラ色の頬を引き上げて、満足げにほほ笑んでいた。そして、潤んだ瞳で義虎を見つめながら、小声で一言、こうささやいた。


『……嬉しい』


 義虎は胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じながら、夢中で裕子の細い体をかき抱いた。



☆☆☆  



「そうじゃない」


 義虎は口を開いた。低く、小さな声だった。玲璃は唇を引き結んだまま、黙って義虎を見つめた。


「一族のためだけではない。私は、裕子に惹かれたんだ。それも、凄まじいレベルで。そしてそれは、裕子も同じだった」


 義虎の言葉を、紺野も黙って聞いていた。


「あの時、私の頭の中には一族のことも、組織のことも、多分なかった。ただ、裕子と一緒にいたいという、その思いだけだったんだ」


「じゃあ、どうしてずっと一緒にいてあげなかったんですか?」


 こらえきれなくなったように声を裏返す玲璃の頬を、涙が幾筋も伝い落ちる。


「どうして、私を裕子から取り上げたんですか? そんなに裕子のことが大事だったなら、一緒に暮らして、一緒に私を育ててくれれば良かった。でも、父様はそうしなかった。裕子から私を取り上げて、お金だけ渡して放り出した」


 玲璃は涙を流しながら、口の端を引きつらせて笑った。


「世間体ですか? 親子ほど年が離れているから? それとも、ご自分の立場ですか? そんなに惹かれ合っていたなら、そんなもの捨ててしまえば良かった。全てを捨てて、裕子と一緒にいてあげればよかったんです!」


「そんなことじゃない!」


 拳を握りしめ、義虎は叫んだ。

 

「そんなことをしたら、珠子と珠洲はどうするんだ」


 玲璃は、はっと目を見開いた。


「あの時、珠洲は十一歳になっていた。もう大体のことは理解できる年だ。多感な時期に入りつつある娘に、そんな仕打ちができる訳がないだろう!」


 痙攣けいれんするように引きつる義虎の頬を、涙が伝い落ちる。


「できることなら、裕子といてやりたかった。でもそんなことをすれば、今まで築きあげてきた家庭は崩壊する。私は壊したくなかった。珠洲も、珠子も、悲しませたくはなかったんだ!」


 心の内にわだかまっていた思いを吐き出すように叫ぶと、義虎はうつむいた。握りしめた拳が、端から見てもはっきり分かるほど震えている。

 玲璃は、震える唇からかすれた声を絞り出した。


「私は、間違っていると思う」


 義虎は顔を上げ、娘に目を向けた。頬を伝う涙を拭いもせず、まっすぐに自分を見つめる、裕子によく似た愛しい娘に。


「だったら、裕子と関係なんか持たなければよかった。全てを捨てる覚悟がなければ……だから裕子は、あんな事件を起こしたんです。一族にそれを求められなんていうのは、ただの言い訳です。父様が間違っていたんです」


 義虎は何も言わなかった。ただ悲しい目で、止めどなく涙を流す娘をじっと見つめている。


「私は、父様みたいにはならない」


 玲璃は頬を伝う涙を腕で拭うと、きっぱりと言い切った。


「自分の道は自分で決める。私は、魁然総代にはならない」


 玲璃はそう言うと目を伏せた。少しの間、迷うように足元を見つめていたが、やがて決然と顔を上げると、思い切ったように口を開いた。


「私には、好きな人がいます」


 紺野を支えるようにして寄り添っていた寺崎は、その言葉にはっとしたように顔を上げた。


「私は、その人と一緒に行きたい、一緒にいられる限り……。だから、紺野とは結婚しません。私は、私の人生を歩みます」


 強い目線で父親を見据えながら言葉を継ぐ玲璃は、かすかにほほ笑んでいるようにさえ見えた。


「大学にも行きます。お金は、自分で何とかします。奨学金でもいい、働きながら二部大学に行ったっていい。私は数学を学びたい。数学を生かした職業に就きたいんです」


 義虎は娘をじっと見つめていた。何も言わなかった。ただ、その目には、驚きと、悲しみと……そしてどういうわけか、かすかな喜びがにじんでいるように見えた。


「きっと平坦な道のりではないでしょう。うまくいかないこともあるかもしれない。でも、私はきっと乗り越えられる。乗り越えて見せます……寺崎と一緒に」


 そこまで言うと玲璃は、寺崎に目を向けた。寺崎も、その視線を受け止めて深々とうなずいて見せる。

 その時、今まで黙って聞いていた義虎が、おもむろに口を開いた。


「それを私が反対したら、どうするつもりだ?」


 その言葉に、玲璃は顔を上げた。まっすぐに、強い視線で義虎を見つめながら、きっぱりと断じる。


「戦います」


 義虎は表情を動かさずに、玲璃の視線を真正面から受け止めた。


「父様があくまで一族の目的を強制し、寺崎も、順平さんも、そして紺野も殺すというのなら、私は戦います。戦って……自由を手に入れる」


「そうか」


 足元を見つめながら、義虎はふうと息を吐いた。目をつむり、じっとうつむいていたが、やがてその頬をふっと緩めた。

 義虎は目を開くと顔を上げ、おもむろに背広の上着を脱ぎ捨てた。


「わかった。……かかってきなさい」


 そう言って、玲璃にまっすぐに向き直る。

 玲璃も、そんな父親をまっすぐに見つめ返す。

 その時、玲璃の脳裏には、懐かしい光景がよみがえってきていた。

 


☆☆☆



 まだ小学校に上がる前、彼女はよく、父親と庭で相撲を取った。魁然家の一族は時々そうして持てる力を解放する。彼女の相手はもっぱら父親だった。そのころにはすでに、彼女の相手ができるのは義虎以外にはいなくなっていたのだ。


『さあこい、玲璃!』


 義虎は笑顔でそう言うと腰を屈め、パン、と手をたたいて広げる。玲璃はその胸に飛び込むように、力いっぱいぶつかっていく。地響きとともに地面が割れ、砂ぼこりが舞い上がり、あたり一帯が大きく揺れる。傍目には壮絶なその光景も、当の玲璃にとっては本当に楽しい、嬉しい時間だった。

 義虎はその力に圧倒されそうになりながらも、まだまだ負けてはいない。最後はいつも、玲璃が引き倒されて終わりだった。


『惜しかったな。でも、父さんに勝てるようになるのはまだ先だな』


 そう言って笑う父親に、玲璃はちょっとふくれて見せながらも、笑顔で抱きついた。

 温かく、優しい父の胸。大好きだった。いつまでも、一緒にいたいと思った。

 玲璃は拳を握りしめた。力いっぱい握りしめる。


――全力を出そう。


 出さなければならないと思った。目の前にある、「父」という壁を打ち破るには、生半可な力ではだめだと思った。全力でかからなければ、義虎に対して失礼なような気もした。

 玲璃は呼吸を整えると、ゆっくりと顔をあげて父を見た。


「……いきます」


 義虎はうなずき、静かにその目を閉じた。

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