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輪廻  作者: 代田さん
第五章 解放
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6月28日 1

 6月28日(金)


 頭上で鳴り響くチャイムの音に急かされながら、玲璃は昇降口に駆け込んだ。

 昨日、あんな形で護衛を排除した以上、絶対に父親から詰問されるだろうと覚悟して、それに対する答えも全部用意して待ち構えたいた玲璃だったが、なぜかその件について父親から問いただされることはなかった。不思議に思いつつも、紺野との会話が頭から離れず、昨夜はなかなか眠れなかった。そのせいで起床時間がずれ込んでしまい、玲璃にしては珍しく、遅刻寸前のこんな時間になってしまったのだ。

 あたふたと上履きに履き替えている時、人気のない昇降口にもう一人の遅刻者が駆け込んできた。背の高いその男は一年のげた箱に向かうと、慌てた様子で外履きを脱ぎ捨てて上履きを突っかける。玲璃は思わず手を止めて、げた箱越しにその男をじっと見つめた。


「……寺崎」


 げた箱に外履きを放り込んだ寺崎は、その声に目を丸くして振り向いた。


「あれ、……総代? こんな時間に珍しいっすね」


 びっくりしたような寺崎の笑顔に、玲璃は今までの緊張が一気に解けるような脱力感を覚えた。

 その場にへなへなと座り込んだ玲璃を見て寺崎は目を丸くすると、あわてて駆けよってきた。


「だ、大丈夫すか? 総代!」


「寺崎……」


 弱々しく震えるその声は、完全に涙声だった。玲璃は顔を上げ、うるんだ瞳を寺崎に向ける。寺崎はドキッとしてのばしかけた手を止めた。


「……私は、おまえと一緒に行きたい」


「え?」


 何のことだか分からずきょとんとした寺崎に、いきなり玲璃は人目を構わず抱きついた。

 目を見開き口を開けたまま、寺崎は完全に凍り付いた。


「決めたんだ。私は、おまえと行く。一緒に、……行かせくれ」


「え? え? 行くって、……え?」


 寺崎は壊れたロボットさながらに疑問符を連発しながら、焦りまくってあたりを見回した。自分にはいまだに監視役がついている。その監視役にこんな所を見られたら、何を言われるか分からないのだ。だが、冷や汗をにじませながら焦りまくる寺崎をよそに、玲璃は寺崎の背中に回した腕に、さらに力を込めてしがみついてきた。

 その時、玲璃を引き離そうとその肩に手を触れて、寺崎ははっとした。

 震えているのだ。

 玲璃は、自らのくだした決断に怯えるように、細かく震えていた。背中に添えられた手も、胸に預けられた頭も、密着している胸も、体全体が震えている。

 寺崎は、肩に添えようとした手の動きを止めた。

 その手をおずおずと玲璃の背にまわし、一瞬だけ、ためらうように泳がせてから、思い切るようにその震える体を力いっぱい抱きしめる。

 寺崎には、玲璃の決断がいったい何なのか見当もつかなかった。だが、玲璃にとってそれは非常に重い、勇気をともなう決断だということだけは、分かった。寺崎にとっては、それで十分だった。


「大丈夫っす。俺も、一緒に行きます。総代とだったら、どこへでも……約束します」


 どこかで自分たちを見ているであろう監視の目など、もうどうでもう良かった。寺崎にとっては、自分の腕の中で震えるこの愛しい存在を力いっぱい抱きしめ返してやりたい、ただそれだけだった。

  


☆☆☆



 朝食の後片付けを終えて、みどりはふうと一息ついた。

 いくら流しの高さが低く、下部に膝がしまい込めるスペースがあるとはいえ、洗い物をする時は不自然に体を曲げて手を伸ばさないと届かない。彼女にとっては結構な重労働なのである。

 ほっとして、お茶でも飲もうかと居間の方に車椅子をくるりと回転させたみどりの目に、唐突に、見覚えのある人物の姿が映り込んだ。

 彼は居間の仏壇の前に座り、うつむき加減で目を閉じ、じっと手を合わせている。白い病院服に、目元を覆う茶色い髪。彼はみどりの視線に気がつくと、はにかんだような笑顔を浮かべて小さく頭を下げた。


「……紺野さん?」


「お久しぶりです、みどりさん」


 紺野は立ち上ると、もう一度深々と頭を下げた。


「え? あなた、どうして……。確か今は、病院に……」


「すみません、驚かせてしまって。実は、制服を取りに来たんです。身支度を調える必要があって」


「制服を?」


 紺野はうなずくと、こころなしか不確かな足取りで、時折壁に手をはわせながら自室の方に歩き始めた。みどりは信じられないような面持ちで、そんな紺野の後についていく。

 紺野は息を切らしながら、つぶやくように口を開いた。


「ここに戻ってこられるとは、思いませんでした」


 足を止め、ぐるっと室内を見回す。


「この廊下も、台所も、自分の部屋も……本当に懐かしい」


「紺野さん……」


 その言葉に、みどりも思わず熱いものがこみ上げてくるのを抑えられなかった。


「本当に、そうね。よかった。あなたが、無事に戻ってきてくれて……」


 震える声でつぶやくみどりを廊下に残し、紺野は自室に入ると頭を下げて横開きの扉を静かに閉めた。着替えるらしかったので、みどりは部屋の外側に車椅子を着けた。


「でも、突然でびっくりしたわ。身支度を調えなければならない用って、何なの?」


「いえ、たいした用ではないんですが、あの格好ではあまりにおかしいので……」


 扉の向こうから聞こえてくる声は、普段と全く変わりのない穏やかな調子だったが、みどりはふと不安になって問いただした。


「でも、大丈夫なの? 紘の話では、かなりの大ケガみたいなことを言っていたけど……」


 その問いに対する紺野のは答えはなかった。


「まあ、大げさに言ったのかもしれないけれど……あの子、あなたのことに関しては、妙に心配してみせるから」


 みどりはそう独りごちて肩をすくめると、気を取り直したような笑顔を浮かべた。


「その様子なら、もうすぐうちに戻ってこられるのよね。いつ帰ってこられそう?」


 部屋の中から、やはり答えはなかった。みどりが首をかしげて言葉を継ごうとした時、ぽつりと一言、こんな言葉が返ってきた。


「みどりさんに会えて、よかった……」


「え?」


 みどりは眉根を寄せた。


「僕は本当に、あなたに会えて幸せでした」


「……紺野さん?」


 みどりはハッとすると、部屋に入ろうと横開きの扉に手をかける。が、扉は開かなかった。すぐ向こう側に人の気配も感じる。紺野はどうやら、扉一枚を隔てた向こう側に、寄りかかって立っているらしかった。


「僕は、あなた方と暮らしたあの一カ月のことは、一生忘れません。僕にとって今まで生きてきた中で、一番幸せな一カ月でした。本当に、……ありがとうございました」


「ねえ、何を言ってるの? 紺野さん。まるで永の別れみたいな言い方して……」


 紺野はそれには答えなかった。ただ、涙を落としているような気配だけがひしひしと伝わってくる。みどりの背筋に、ゾッと寒気が走った。引き戸を必死で開けようとするが、なぜか扉はびくともしない。


「ちょっと、紺野さん! 開けてちょうだい!」


「すみません、みどりさん……」


 ややあって、まるでささやくような、かすれた声が聞こえた。


「僕は、このまま行きますね。多分、みどりさんの顔を見たら、僕は……」


「だめ! 紺野さん!」


「すみません、こんな別れ方しかできなくて。今まで、本当にありがとうございました。寺崎さんにも、よろしくお伝えください」


「紺野さん!」


 みどりが叫んだと同時に、いきなりタガが外れたように扉が横に動いた。

 勢いで倒れそうになりながらも、みどりは慌てて体を起こすと、部屋の中を見回す。

 部屋の中には、すでに誰もいなかった。


「紺野さん……」


 しばらくの間、みどりはぼうぜんと部屋を見回していたが、ふと足もとに目を落とし、はっとしたように息をのんだ。

 部屋の片隅にきちんと畳んで置かれている、先ほどまで紺野が着ていた病院服と思しき服のあちこちに、血の跡がついていたのだ。


――紺野さん!


 みどりは不安と焦燥で倒れそうになりながら、ぼうぜんとその血痕を見つめていた。

 


☆☆☆ 



 眠りそうになりながら授業を聞いていた玲璃は、思わず鉛筆を取り落としそうになった。

 脳裏をかすめた、白い気の気配。この転移反応は、間違いなく紺野のものだ。


「先生!」


 突然手をあげて立ち上がった玲璃に、黒板に数式を書き連ねていた数学教師は怪訝そうに振り返った。


「どうしました? 魁然さん。質問ですか?」


「いえ、ちょっと気分が悪いんです。吐き気が止まらなくて……」


 玲璃はそう言うと、右手で口元を押さえて大げさに嘔吐えずいてみせる。数学教師は目を丸くして、慌てたようにこう言った。


「ちょ、ちょっと、そこで吐かないで。すぐにトイレに行って来なさい。あまりひどいようなら、今日はもう帰ってもいいですから。おかしなウイルスにやられていたらたいへんです」


「そうですね。そうさせていただきます……うっ!」


 もう一度大げさに嘔吐いてみせてから、玲璃は教室を走り出た。

  


☆☆☆



 靴を履いて昇降口を飛び出した瞬間、同じように昇降口を飛び出した人物と目があって、玲璃はハッと足を止めた。


「寺崎!」


 寺崎は目を丸くして玲璃を見ると、勢い込んで駆け寄ってきた。


「総代! 総代も、感じたんすか? あの気……」


 玲璃はうなずくと、ものも言わずその手を取った。寺崎はドキッとしたように目を丸くして玲璃を見つめる。

 玲璃はそんな寺崎を真剣な目で見上げると、催促するようにうなずいてみせた。


「行こう、寺崎!」


「……はい!」


 うなずき返した次の瞬間、二人同時に地面を蹴って全速力で駆け出す。凄まじいスピードで校門の外に出た二人を、慌てふためきながら業者然とした男やスーツ姿の男どもが数人、やはり人間とは思えないスピードで追いかけて行った。

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