6月27日 2
紺野はICUから一般病棟の個室に移されていた。
その病室へ続く廊下を歩いてきた制服姿の玲璃の前に、スーツ姿の監視役たちが驚いたように立ちはだかった。
「魁然総代、どうされたんですか? 確か今は、まだ学校が……」
「父の命令できた」
玲璃は平然とうそぶいた。
「父に、急いで紺野に関するあることを確認してきてほしいと頼まれた。あさっての会合に関係があることなんだが、おまえたちに聞かれるとちょっとまずいんだ。紺野の病室では、席を外してほしい」
監視役たちは戸惑ったように顔を見合わせる。
「われわれは、そんな話は聞いていませんが……あの男の病室には医療関係者以外は誰も入れるなと、きついお達しがありますので……」
するともう一人の監視役が、携帯電話を取りだした。
「ちょっと確認させていただきますね、魁然総帥に」
玲璃の目に、鋭い光が走る。
携帯を手にした男の首に、次の瞬間目にもとまらぬ速さで手刀が振り下ろされた。声を上げる間もなく気絶して崩れ落ちる監視役の異変にもう一人が気づいた瞬間、すでにその腹には玲璃の拳が深々とめり込んでいた。その男も、秒で意識を失う。
玲璃は二人の襟首をつかむと、軽々と引きずって廊下の奥の給湯室に押し込んだ。扉を閉めてちょっと息をつくと、振り返って病室の扉を見つめる。
玲璃は深呼吸をすると、その白い扉に手をかけた。
☆☆☆
薄暗い病室は、静かだった。
微かに医療機器の電子音が聞こえる他は、点滴の薬剤が滴下する音すら聞こえない。
玲璃は足音を忍ばせて紺野の枕元に歩み寄り、そっと顔をのぞき込んだ。
紺野は眠っていた。長いまつ毛をピッタリと閉じて、ほんのわずかに開いている口は酸素マスクに覆われている。そのやつれた姿に、玲璃は今日この場に来たことを少し後悔した。
黙って枕元の丸椅子に座り、改めてその顔をまじまじと見つめる。相変わらず無防備なその寝顔に苦笑すると、点滴の管が装着され毛布の上に出されていた右手に、そっと自分の手を重ねた。
その刺激に意識を引き戻されたのか、紺野の目が薄く開いた。
紺野はゆっくりと視線を玲璃に目を向け、驚いたようにその目を見張ると、戸惑ったような送信をよこした。
【どうしたんですか? こんなところに……】
「ごめん、紺野」
申し訳なさそうに頭を下げると、玲璃は表情を強ばらせた。
「なんか、どうしてもおまえに会いたくなって……でも、おまえ、こんな状態だったんだよな。ごめん。自己中だった」
紺野はわずかに頭を振ると、硬い表情でうつむく玲璃を優しい目で見つめた。
「この間は、本当にすまなかった。父のせいで、こんな目にあわされて……。そのことも、ずっと謝りたくて」
【いいんですよ】
紺野は笑ったようだった。自分の手に重ねられていた玲璃の手を、そっと握り返す。
【あなたのお父さんには、僕は何をされても文句は言えない。防御するつもりもない。それだけのことを、僕はあの人にしてしまっている。それは、購っていかなければなりませんから】
そう言うと、いたずらっぽい笑みを浮かべてみせる。
【僕も、言いたいことを言いましたしね】
玲璃はほっとしたように少しだけ笑って涙を拭うと、改まった表情で紺野を見つめた。
「お帰り、紺野」
語尾が震え、その目に再び涙が浮かぶ。
「無事で戻ってきて、本当に良かった。悲しいこともあったと思うけど……私はおまえが戻ってきてくれて、本当に嬉しい」
紺野はそんな玲璃に優しくほほ笑みかけた。
【どうしたんですか】
玲璃は少しだけ目を見開いた。
【ここへ来たのには、何か訳があるんでしょう?】
「話しても、大丈夫か?」
玲璃が心配そうに問うと、紺野は小さくうなずいたようだった。
【構いません、僕で良ければ】
玲璃は再び紺野の手を取ると、両手で包み込むようにその手を握りしめた。考えこんでいるかのようにその状態でじっとしていたが、手のひらに伝わる紺野の温かみに後押しされたかのように、重い口を開いた。
「……どうしたらいいのか、分からなくて」
ゆっくりと紡ぎ出される玲璃の言葉に、紺野は黙って耳を傾けている。
「今まで私は、決められた道をあまり考えもせず進んできた。でも今になって、その道が通行止めになっちゃって。脇道が何本かあるけど、いったい自分はどこに進んだらいいのか、正直全然見えないんだ」
言葉を切り、深いため息を一つ、つく。
「おまえは総代にならない道を選択した。きっとそれには、おまえなりの理由があるんだろうと思う。私も、選択したい道はある。でも、それはただそうしたいというだけで、さしたる理由があるわけじゃない。理由だけなら、通行止めになってしまった道の方が、はるかに大きな理由があった。だからその道を選択しようにも、いまひとつ自信が持てなくて……」
そこまで言うと顔を上げ、その大きな瞳で紺野を真っすぐに見つめた。
「おまえがどうしてその道を選択したのか、理由を聞かせてくれないか?」
再び目線をそらすと、いくぶん小さな声でこう付け加える。
「私のことが気に入らないのは、当然だとは思うけど……」
紺野は目を丸くすると、慌てたように首を振った。
【とんでもないです。そんなことは、全然……】
そう言って困ったような笑みを浮かべる。
【僕がそう決めたのは、全然別の理由です】
「じゃあ、……どんな?」
紺野は目線を中空に泳がせて、考え込むような表情をした。
【いえ……全然別、とも言いきれないでしょうか】
「え?」
聞き返してきた玲璃に、紺野は優しいまなざしを向けた。
【あなたに対して不思議な感覚を、僕は確かに覚えるんです】
玲璃はドキッとして赤くなる。
【それは多分、生まれながらにそういう血が流れているせいなんだろうと思います。その血に逆らわない選択も確かにあり得ますし、その方が簡単です】
紺野は遠いまなざしを天井に向けた。
【そうすることを盾に、亨也さんや順平さんの身の安全を要求することだって、もしかしたらできるかもしれない】
玲璃ははっとした。そうだ。このままいけば、神代亨也は不要の烙印を押され、粛正される運命にあるのだ。
【でも、僕はそれだけはどうしてもできないんです】
「どうして……」
玲璃の顔を紺野は見つめた。何とも優しい、そして悲しげな表情だった。
【僕は、あなたの母親である裕子さんとの間に、娘を一人、もうけました】
玲璃は思い出していた。あの地下でドライアイスに包まれて横たわっていた、紺野によく似た少女の姿を。
【あの子に対して、僕は無責任だった。ああいう行為の結果があの子を産み出すであろうことを、その時僕は全く予想していなかった。だから、いざ彼女がああいう生まれ方をした時、僕はうろたえるしかなかった。彼女を受け止めてやろうなんていうことは、みじんも思いつかなかった】
紺野は悲しげな瞳で、じっと天井を見つめた。
【結果十六年間も、あの子をたった一人で苦しませることになったんです】
その目を、ゆっくりと玲璃に向ける。
【もし今回、運命に流されるままにあなたと僕が一緒になったとして、産まれてくる子がどんな子どもになるか、想像がつきますか?】
玲璃は寸刻呼吸すら忘れ、瞬ぎもせずその視線を受け止めた。
【僕とあなたが、お互いを必要としているならまだ分かる。でも、このままいけばお互いに中途半端な気持ちのままでその子を迎えなければならない。そんな状態で、その子の人生全てに責任をもっていかれるんでしょうか】
紺野は淡々と言葉を継ぐ。
【僕はもう誰にも、あの子のような思いをしてほしくない。自分の気持ちが中途半端な以上、僕はあなたと一緒になることはできないんです】
そこまで言うと、紺野は少しだけ目線を移して微かに笑った。
【僕の気持ちが中途半端なのは、あなたのせいではないんですよ。……さっきも言ったとおり】
「え?」
聞き返した玲璃に、紺野は悲し気な笑みを投げた。
【僕はあなたの中に、いつも裕子を見ている】
胸を激しく突かれたような衝撃に、玲璃は言葉を失った。
紺野は悲しげ表情で、それでも少しだけ笑っていた。
【僕は十六年前、言ってみれば裕子を……殺してしまった。僕はもう、彼女以外の誰ともそういう関係になる気はありません。加えて、裕子の娘であるあなたを見ていると、どうしても僕はそこに裕子を重ねてしまう。あなたに対して、これほど失礼な話はないでしょう】
枕元に立ち尽くす玲璃の喉元が痙攣するように動き、口元がわずかに震える。
【だから僕は総代にならない、そう決断したんです。もちろんその他にも、先日あなたのお父さんに申し上げたようなことも含まれてくるんですが。そういった諸々のことが重なって、今回のような結論になったんです】
そこまで言うと紺野は玲璃を見て、ちょっと笑って見せた。
【こんな感じでよろしいですか?】
深々とうなずいた玲璃の目から、こらえきれなくなったように涙があふれた。
口元に手を添え、言葉もなくしゃくり上げている玲璃に、紺野は黙って優しいまなざしを向けていたが、やがてぽつりとこう送信した。
【道を選択するのに、必ずしも理由は必要ないです】
玲璃は驚いたように泣きぬれた顔を上げ、紺野を見つめた。
【そうしたいから、そうなりたいから、それだけで十分だと思います。その選択に対して困難なことが降りかかっても、本当にそうなりたいと思い続けていれば、きっとかなうんじゃないでしょうか。人の気持ちって、そんなに理由付けできるものでもないでしょう? それが好きだから、そうしたいから……そういう気持ちを尊重することだって、たぶん大切なことだと思いますよ】
そう言うと、いたずらっぽく笑ってみせる。
【僕だって要するに、総代になりたくない、ただそれだけなんですから】
玲璃は激しくしゃくり上げながら、その言葉に何度もうなずいていた。紺野はそんな玲璃を優しく見つめながら、静かにこう送信した。
【寺崎さんは、ステキな人です】
嗚咽を飲み込み、勢いよく顔を上げた玲璃の頬が、たちまちのうちにバラ色に染まる。
【僕が女だったらほっときませんよ、多分。きっと、あなたを幸せにしてくれる。太鼓判を押しますよ】
「紺野……」
【自分の気持ちに、素直になってください。そうすればきっと、あなたの道が見えてきます。あなた自身の選択した道が。今より、もっとはっきりと】
「紺……」
玲璃はもう、何も言えなかった。こみ上げてくる嗚咽をどうすることもできないまま、ただ紺野の足元に突っ伏して涙を流すしかなかった。紺野はそんな玲璃を優しい目で見つめながら、黙ってその手を握りしめていた。
☆☆☆
玲璃が病院から帰ったあと、紺野は給湯室に押し込まれていた護衛たちの記憶を抜き、彼らを廊下の長いすに腰かけさせ、何事もなかったように装った。今の体の状態からして決して楽な作業ではなかったが、自分が彼女にしてやれることはこのくらいしかない。あとのことは、彼女自身の力で乗り越えてもらうしかないのだ。
やっとのことで作業を終え、毛布も掛けず酸素マスクも装着せずにベッドに横になると、白い天井をぼんやりと眺める。
先ほど玲璃に自分が言った、あの言葉が頭によみがえる。
『そうすることを盾に亨也さんや順平さんの身の安全を要求することだって、もしかしたらできるかもしれない』
自分は総代にならないという決断を下した。その決断に対しては、何ら後悔するところはない。だが、このままでは恐らく亨也も、順平も、悪くすれば亨也に手を貸した沙羅も、一族に粛正されてしまうだろう。それを回避するために、いったい自分はどうすればいいのか。先日から、ずっと考え続けていたことだった。
玲璃に言ったとおり、自分が総代になる判断をすれば確かに簡単だ。そうなることと引き替えに、彼らの身の安全を要求すればいいからだ。だが、彼にはそのつもりはない。そんなことをすれば玲璃は裕子の二の舞となり、産まれてくる子は優子の二の舞となってしまうのだ。そんなことは絶対に耐えられなかった。
子どもを作らず、形だけ玲璃と婚姻関係を結ぶという方法もある。だが、紺野はそれは自信がなかった。いつも玲璃に対して感じていた、あの不思議な感覚。加えて、裕子に生き写しの容貌。一緒にいれば、遠からず彼女に惹かれてしまうであろう自分を、紺野は確信していた。だから離れようと思った。玲璃に惹かれている寺崎のためにも。
紺野は大きく息をつき、右腕でその目元を覆った。
――やはり、消えるしかないんだろうか。
脳裏に、先日の義虎の言葉がよみがえる。
『この目的のために、裕子は十四歳という若さで玲璃を産んだ。この目的を成就する、ただそのためだけに。その目的が簡単にほごにされてしまったら、いったい何のために裕子があんな思いをしたのか、分からなくなってしまう。そんなことは、絶対にあってはならんのだ!』
一族の目的を信じ、その成就のためだけに生きてきた男。
紺野は心の奥底に、義虎に対する不信感をずっと抱え続けてきた。自分にああいう形で近づいてきた裕子。彼女は自分を子どもを産む道具として利用し、その子どもを取り上げて別の女性と暮らしている男に復讐するために、あんな恐ろしい行動に出た。真偽を確かめる術はないにしろ、それは恐らく事実だろうと、紺野は確信している。
だが、先日紺野が間近で見た義虎は、紺野がこれまで抱いていたイメージとは少し異なっているような気がした。
『こいつが総代だったと知って、地獄に突き落とされた気分だった。私はまたこいつに、大事な人間を奪われるんだからな。本当に、疫病神以外のなにものでもない。つくづく四月のあの時、殺しておけば良かったと思ったよ!』
そう吐き捨てた義虎の目に光っていた、涙。
――大事な人間、か。
紺野は腕を下ろすと、深いため息をついた。
義虎にとって裕子は、確かに大事な人間だったのだ。だからこそ彼は、裕子を殺された恨みをあれほど激しく自分にぶつけてくるのだろう。だが、その大事な裕子でさえ後回しにされるほど、義虎にとって組織の目的は絶対だったのだ。
――僕は、彼にとって大事だったものを全て、奪うことになる。
彼の頭に再び響き渡る、義虎の言葉。
『確かにおまえが、組織の目的を無視して総代にならない道を選択するのなら、私も組織の目的を無視して、おまえを殺す道を選択するだろう』
紺野はゆっくりとその目を開くと、遠いまなざしで白い天井を見つめた。