6月25日
6月25日(火)
病院の地下にある、霊安室。微かに線香の香りがする、暗く冷たいこの部屋に、優子の遺体は保管されていた。
ドライアイスに包まれた胸の上で手を組み、静かに目を閉じている彼女は、生前のあの激しい一面は全く感じさせない、穏やかで安らかな表情を浮かべている。
その同じ部屋に、一族の面々は言葉もなく座っていた。
その場にいる神代の者には、全員に能力抑制装置が装着されている。啓子も、昌代も。沙羅も、その首に黒いチョーカーをはめられ、じっと押し黙っている。
部屋の片隅には、監視役に付き添われた寺崎の姿もある。寺崎は両手に手錠をかけられている。
魁然家の面々は、忌々しそうにそんな彼らの顔を睨め回していた。誰一人口を開く者はいない。一様に押し黙り、これから行われる会合の結果に思いをはせている。
そのとき、音もなく部屋の扉が開いた。中にいた者全員が一斉にそちらに目を向ける。
入ってきたのは、体中に包帯を巻いた亨也と、彼の乗る車いすを押す順平だった。前を行く二人を監視するかのように、その後ろから義虎が入室する。義虎の後ろには、その身をすくめるようにしてうつむく玲璃の姿もある。周囲を固めていた十人ほどの黒服の護衛たちは、部屋の後方に移動すると、そこに並んで立った。
「お待たせしました」
義虎は不機嫌そうにそう言うと、手近なパイプ椅子を顎で示す。順平は頭を下げると、享也の隣にその椅子を置き、黙って座った。義虎は神代の面々とは相対する場所に置かれていたソファに玲璃を座らせ、その隣に自分もどっかと腰を下ろした。
「では、緊急会合を始めます。非常にお忙しい中無理にお時間を作っていただいて、皆様には本当に感謝いたします。そういった関係上、なるべく合理的に短時間で議事を進められるようにしたい。今回の件のあらましについては昨日ご連絡した通りですので割愛させていただきます。なにはさておき、先日の一件、アリゾナでの能力解放にかかわる顛末を、ここにいる全員で共有したい。享也さん、よろしいですかな」
「では、このチョーカーを外していただけますか」
亨也は静かに口を開いた。
「入り組んだ話ですので、送信で共有するのが妥当かと思います。それにはこのチョーカーを外していただかないと」
義虎はしばらくは胡乱な目で亨也をにらんでいた。
「……まさかそのまま、転移して逃げるなんて言うことを考えてはおらんでしょうな」
亨也は困ったように肩をすくめて笑った。
「今の私の状態では、転移したとしても一,二キロがせいぜいです。魁然家の皆さんが走った方が速い。すぐに追いつかれますよ」
それでも義虎はしばらくの間、信用ならないとでも言いたげに黙っていたが、やがて小さく息をつくと、うなずいた。
「分かった。信用しよう」
すぐさま魁然の護衛が駆けより、亨也の首のチョーカーを外す。
「ありがとうございます」
亨也は右手で首をさすりながら頭を下げた。
「では、事の次第をお伝えします。おとといの朝、東京からアリゾナにとんだ時からのことです。本件とかかわりの薄い部分や、個人的な部分については割愛しますが、おおむね全てをお見せしますので」
目を閉じた亨也の体がほのかに銀色の輝きをまとい始めた、瞬間。
その場にいる全員の頭に、あの日、亨也の見た光景が、押し寄せる津波のように流れ込んできた。
☆☆☆
銀色の気の高まりを、紺野ははっきりと感じた。
ハッと目を開き、状況を確認するかのように視線を移動する。
見覚えのある白い天井から、枕元に置かれたパソコン、数種類の電子機器を接続するコード、音もなく一定間隔で滴り落ちる点滴に目を移し、心拍だろうか? 電子音が微かに聞こえるモニターに、何かのグラフが表示されている様子が目に映る。
――病院?
間仕切りのカーテン越しに見えるマスクを着けた看護師たちは、日本人のようだ。ということは、ここは恐らく、神代の病院。アリゾナではない。
――生きている?
自分はあの時、確かに事切れたはずだった。あのまま死んでも、仕方がないと思った。優子を残して逝くことは心残りだったが、優子にみとられて死ねるのなら、自分のような人間にとってはこれ以上ないほどの、一番幸せな最期かもしれないと思った。
だが、自分はなぜか生きている。
かなり近くで、亨也の気の気配を感じる。ということは、亨也も生きているということだ。だが、その気にはいつもの力強さが感じられなかった。非常に弱々しく、不安定な気だ。
――ケガをしているのではないだろうか?
紺野の胸を不安が過ぎる。沙羅のことも気になるし、優子の気配も感じない。彼女は今、どこにいるのだろう? 神代の病院にいるのだろうか? それとも、あの施設に帰っているのだろうか? まさかあのままアリゾナにいるとは思わないが、それならばいったいどこにいるのだろう? 全く予想がつかなかった。
――知りたい。
紺野の意識がその一事に集中した、刹那。
彼の全身を、瞬く間に白い気が満たした。気は瞬時に病院内を駆け抜け、地下にいる亨也の姿を感受する。
紺野は、自分が力を自在に操れることに驚きを感じていた。今までにない感覚だった。
――これが、百パーセントを知った、効果?
だが、今はその効果に驚いている暇はない。紺野はすぐさま亨也の意識に自分の意識を同調させた。
☆☆☆
送信を始めていた亨也も、紺野の気を感知してはっと目を見開いた。
――紺野さん、気がついたのか。
ほっとしたようにほほ笑むと、送信に意識を集中する。あの日、自分が見たことの全てが、紺野にも届くように、さらに強く。
送信はものの三分もかからなかった。程なくその場にいる全員が、あの日亨也が見たことを共有した。紺野の解放のありさまも、京子の死も、優子の協力で事なきを得たことも。
亨也が小さく息をつくと、潮が引くようにその体の周囲を覆っていた銀色の輝きが収束する。
輝きが消え去ると同時に、魁然の護衛数人が早足で亨也に歩み寄り、髪をつかんで、乱暴に上向かされた彼の首に再び、黒いチョーカーを装着した。
「……私が知っているのは、ここまでです。そのあと、意識を失ってしまったので。ですから、優子さんがどうしてあの場にいたのか、どうしてこういう結果になってしまったのか、その点についての詳細は分かりません」
亨也の言葉に一同は、部屋の一隅に目を向ける。亨也も、その視線をなぞるように目線を移す。それに伴い、亨也に同調して追跡していた紺野も、その姿をこの時初めて目の当たりにする。
亨也の視界に映る、線香の白い煙に包まれて、ぼんやりと霞んだ四角い箱。
そこに横たわる人物の姿に、紺野は自分の目を疑った。
――優子?
先ほどから誰かがそこに横たわっているのは知っていた。だが、それが優子だなどと思いもしなかったのだ。紺野は息を殺し、意識を研ぎ澄ませてトレースに集中する。
亨也の意識を通してみる彼女は、まるで眠っているように穏やかな表情だった。だが、その頬の異様な白さも、胸の上で組まれた青白い手も、腹の上に置かれているドライアイスも、彼女が既にその命を失っていることを雄弁に物語っている。
――どうして。
混乱する紺野の意識に、義虎の声が響き渡った。
「それについては、あの男に教えてもらうことにしよう」
一同は首を巡らせ、部屋の片隅に手錠をかけられてたたずむ寺崎に注目する。寺崎は心持ち斜からそんな一同の視線を受け止めつつ、しばらくは黙っていた。
「確かに、知ってるんすけど」
寺崎は目線を落とすと、おもむろに口を開く。
「俺、優子のことは、まず最初に紺野に伝えてやりたいんです」
その言葉に、沙羅も玲璃も目を丸くした。
「……何を言っているんだ」
地をはうがごとき義虎の声は、怒気をはらんで震えている。
「おまえ、自分の立場を分かっているんだろうな」
寺崎は顔を上げると、正面から義虎の視線を受け止めた。
「おまえは、今までわれわれをつけ狙い攻撃していたやつに手を貸した裏切り者だ! きちんと釈明して筋を通さない限り、おまえはわれわれに今ここで消されても、何も文句は言えんのだ!」
怒号が、薄暗い地下室に反響する。だが寺崎は、揺るぎなく義虎を見据えながら、静かに口を開いた。
「すげえプライベートなことなんですよ、こいつの話したことって」
少しだけ首を巡らせ、白い煙に包まれて静かに横たわる優子をじっと見つめる。
「できれば、最初に紺野に伝えてやりたい。こいつの思いを最初に知るべきは、紺野だと思うんです」
ついに堪忍袋の緒が切れたのか、義虎はソファから弾かれたように立ち上がった。速足で寺崎の前に歩み寄り、その襟首をわしづかみにする。
「この非常事態に、何を甘いことを言っているんだ?」
火を吐かんばかりに寺崎を怒鳴りつける義虎。襟首をつかみ上げられている寺崎は、それでもほとんど表情を動かさず、青筋の浮き立った義虎の顔を静かに見つめ返している。
「われわれは今日、そのために集まった。こいつがなぜ今までわれわれをつけ狙い、攻撃し続けていたのか、被害を受け続けたわれわれにも、知る権利があって当然だ!」
「話さないとは言ってません」
寺崎も負けてはいなかった。
「ただ俺は、紺野の意識が戻ってからそれをやってもいいと思うんです。だいたい今日のこの話だって、どうして当事者である紺野を抜きにして勝手に進んでいくのか、俺には分からないんです!」
「当事者だと?」
義虎は鼻で笑うと、ちらっと背後に座る亨也に目を向ける。
「こいつらが、当事者である訳がない」
寺崎は目を見開いた。
「われわれ一族の悲願は三百年以上前から何代にもわたり、何百人もの人々の手で脈々と受け継がれてきた。総代というのは、その人々の思いが凝縮した一つの結果だ。そこに個人の意志は存在しない。そこにあるのは、われわれ一族が受け継ぎ、守ってきた、何百人もの人々の思いだけだ!」
寺崎はゆるゆると奥にたたずむ沙羅と、亨也を見た。沙羅はうつむいたまま、何も言わなかった。亨也もじっと前方を見つめたまま、表情も目線も動かさない。
「……だからって、まるっきりその意志を無視するなんて、おかしいっすよ」
押し殺した声で言葉を絞り出し、堅く拳を握りしめる。頭の中に、いつか玲璃が自分に言った言葉がよみがえる。
『自分に素直に生きていいって言われても、よく考えてみろ。九月に結婚することが分かってるんだ。それなのに、本当に素直に生きていいのか?』
寺崎は決然と顔を上げた。
「個人の意思が尊重されないなんて、やっぱおかしいっすよ! 一人の人間なのに、まるで一族の悲願を実現する道具みたいに扱われて、自分の意志もまるっきり表せないなんて……!」
言葉は、うなりを上げてとんできた義虎の拳によって奪われた。
そのスピードとパワーは、いかに寺崎といえど避けようもなかった。殴り飛ばされた寺崎は、口の端から血の筋を引きながら五メートルほど空をとび、奥に積み上げられていた長机の山に派手な音をたてて突っ込んだ。
「……いい加減にしろ」
長机の山に埋もれながら、口元の血を袖で拭っている寺崎に、義虎はゆっくりと歩み寄る。すさまじいまでの憤怒を、その一歩一歩に込めながら。
「少々痛い目にあわないと、分からないようだな」
寺崎は顔を上げ、強い目線でまっすぐに義虎を見る。怯えたり、許しを請うたりする様子は全く見られない。義虎は忌々しそうに口元をゆがめると、拳を固く握りしめた。寺崎は覚悟を決めると、歯を食いしばって目を閉じる。
だが、義虎の拳は飛んでこなかった。
何の衝撃もないことをいぶかしんで目を開けた寺崎は、視界に飛び込んできた人物の後ろ姿に、思わず呼吸を止めた。
両手を広げ、まるで自分を守るかのように義虎の前に立ちはだかっている、白い病院服に茶色い髪の男。
その男は肩で息をしながら、それでも真っすぐに義虎を見据えていた。義虎も拳を固めた姿勢のまま、その視線を瞬ぎもせず受け止めている。
寺崎は肺にたまった空気を吐き出しながら、かすれた声でその男の名を呼んだ。
「……紺野」
「大丈夫ですか、寺崎さん」
寺崎の方を振り返って、紺野が問う。
寺崎がうなずいたのを確認すると、紺野はゆっくりと歩き始めた。動けずにいる義虎の脇を抜け、息を詰めて見守る一族の面々の前を歩き、ドライアイスに包まれた優子の傍らで足を止める。
少しだけ身を乗り出して、その顔をのぞき込む。
まるで眠っているように穏やかな表情の優子。紺野はまじろぎもせずその顔を見つめて動かなかったが、やがて震える指先をそっとその白い頬に添わせた。指に突き刺さる、容赦なく冷たい頬の感触。固く閉じられたその目は、当然のことながら開く気配もない。
寺崎は長机の山からはいあがると、立ち尽くす紺野に歩み寄った。紺野の傍らに立ち、しばらくは一緒に優子を見つめていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「おまえを助けて、死んだんだ」
紺野は何も言わなかった。凍り付いたように優子の顔を見つめて動かない。
「おまえに伝えてくれって、優子から頼まれてることがあるんだ。……見てくれるか?」
紺野はゆるゆると寺崎に目線を移した。寺崎が自分の右手を黙って紺野に差し出す。紺野はじっとその手を見つめていたが、やがてその手を自分の震える両手で包むと、ほのかに白い輝きを放ち始めた。
紺野の脳内に、あの時の優子の姿が鮮やかによみがえる。
寺崎はできる限り意識を解放した。全てを、ありのままを紺野の意識に届けられるように。優子が出流の姿で寺崎に連れて行ってほしいと頼んだ時のことも、施設の部屋でその姿を初めて寺崎に見せた時のことも、あの遊休地で、寺崎に話してくれたことも、……全てを。
そして最期に、寺崎に託したあの言葉も。
紺野はその一部始終を、黙って感受していた。
受信自体は数分もかからなかった。だが、受信が終わり、寺崎の手から自分の手を離した後も、紺野は黙って立ち尽くしていた。
やがて、紺野はゆるゆると優子に目を向けた。線香の煙の向こうに、穏やかな表情で、まるで眠っているかのように横たわる、優子。紺野はその傍らにひざまずき、胸の上で組まれた手をそっと握りしめた。
白く細い指の氷のような冷たさが、紺野の指先に突き刺さる。
たちまちのうちにあふれた涙が長いまつ毛に押し出され、冷たい床に次々に滴り落ちる。
そうしてしばらくの間、紺野は声もなく涙を落とし続けた。
重い沈黙が、室内を支配していた。誰も何も言わなかった。寺崎も、亨也も、沙羅も、玲璃も、紺野の震える背中を黙って見つめているしかなかった。神代家、魁然家の面々も押し黙り、新たな総代となる人物の一挙手一投足を、凍るようなまなざしで見守っていた。
義虎も、しばらくは何も言わなかった。だが、ちらりと腕時計に目線を走らせると、おもむろに口を開いた。
「最初に見せることはできたわけだろう」
自分の方に顔を向けた寺崎を、義虎は刺すように見据える。
「じゃあ、われわれにも見せてもらえるんだろうな」
「紺野に聞いてください」
寺崎はそう言うと、紺野の震える背中に目を向ける。
「ただ、もう少しそっとしておいてやってほしいってのが正直なところで……娘が死んだんです。こいつも、今はまだ、そんなことを考えらる状態じゃないと思います」
「娘だって?」
せせら笑うようなその言葉に、寺崎は目を丸くして振り返った。
「あの化け物が、娘? 笑わせてくれるな。あんなやつが人間のはずがない。人間として扱われる資格なんかあるものか!」
寺崎は耳を疑った。口の端を上げてせせら笑う義虎を、しばらくはあぜんとして見ていたが、やがて腹の底から沸き上がってくる激しい怒りに四肢が細かく震え出した。手のひらに爪が食い込むほど固く拳を握りしめ、たまらず一歩を踏み出した、その時。
寺崎の眼前にこつ然と現れた何者かが、義虎の襟首を掴み上げた。
義虎ですらかわしようがないスピードだったのだから、寺崎は当然のことながら視認できなかった。驚いてその人物を見やり、大きく目を見開いて言葉を失う。
義虎の襟首をつかんでいるのは、紺野だった。
一言も言葉を発さず、両眼を大きく見開き、まじろぎもせず義虎を見据えている。津波が押し寄せる寸前の、潮の引ききった海岸のような緊張をはらんだ沈黙に、室内の誰もが息をのみ、言葉もなくその動向を注視する。
緊張を突き崩すように、義虎は背の低い紺野を傲然と見下ろしながら、バカにしたように鼻で笑った。
「どうかしましたか? 新しい神代総代。何か気に障ったんですかな」
紺野はそれでもしばらくは何も言わなかったが、やがて襟首をつかんでいた手を離すと、目線を落として口を開いた。
「優子のことは、送信は控えさせてください」
義虎はすっと目を細める。
「ただ、これだけは言っておきます。優子は僕を助けるためにアリゾナに来たんです。寺崎さんはそんな優子の気持ちをくんで、協力してくださった。二人には何の咎もありません」
その言葉に、義虎は嘲笑うような笑みを浮かべた。
「そんな主観まみれの妄言が信用できると思ってるんですか? 冗談も大概にしてください。子どもじゃあるまいし……それとも、見てくれだけでなく、脳までも退化して子どもと同等になってるんですかな」
義虎はやれやれとでも言いたげに肩をすくめると、部屋にいる魁然家の面々を見回した。
「どう思われますか? 新総代の、この発言について」
義虎の投げかけに、奥に座っていた白髭の男性……魁然義文が、おもむろに応じる。
「私は、総代の発言を信用するしないに関わらず、まずは何が起きたのか、客観的な事実を共有すべきではないかと思います」
そう言って、底光りする目で紺野をじっと見据える。
「それが、総代としてのつとめではないかと思いますが」
義文の言葉に、隣に座っていた廣政も深々とうなずいてみせる。
「私もそう思います。ましてや、これから総代としてわが一族を代表していただくのであれば、われわれが納得しやすいように事を運ぶのは当然の務めでしょう」
義虎は、バカにしきったような笑みを浮かべて紺野を見下ろした。
「理解できますかな。あなたの個人的な感情で物事を運んでいただいては困るという、大人の世界では至極当たり前の話なんですよ」
勝ち誇ったようにそう言うと、亨也の方に顔を向ける。
「ですが、まあ、どうしても理解できないというのなら、しかたがありません。亨也さん。この男の記憶をスキャンしてもらえますかな」
そう言うと、寺崎の二の腕をつかみ、亨也の前に乱暴に引ったてる。歴然たる腕力の差に息をのみ、体勢を崩してよろけた寺崎を見て、亨也は思わず腰を浮かしかけた。
「そして、われわれに伝えてください。この優子とかいうやつが一体どうしてアリゾナに行き、そこで何をして、どうして死んだのか。ご希望とあらば、チョーカーは外させますから」
亨也は鋭いまなざしで義虎を見据えていたが、やがて静かに口を開いた。
「本人の了承がなければ、記憶をのぞくことはできません。了承を得ずにのぞき見るのは犯罪です」
「そんなこと言っている場合じゃないのは、あんただって分かっているはずだ」
義虎は低い声でこう言うと、亨也にたたきつけるように寺崎を突き放した。圧倒的な力の差に、いともたやすく投げ飛ばされた寺崎は息をのんだ。亨也は体中に深い裂傷を負っている。ぶつかったり転倒したりしたらそれこそ命取りになってしまう。寺崎は必死で亨也を避けると、壁に立てかけられていた数脚のパイプ椅子をなぎ倒して転倒した。
「寺崎さん!」
思わず立ちあがりかけた亨也の腕をつかみ、魁然の護衛が両側から拘束する。義虎は亨也に歩み寄ると、勝ち誇ったように口の端を上げて享也の襟首をつかみ上げた。青ざめた沙羅が、思わず一歩踏み出しかける。
「今すぐ、この男の頭の中を見ろ!」
襟首をつかみ上げられた亨也は、怒鳴りつけられてもなお静かなおももちで義虎を見つめていた。
「お断りします。私はもう総代ではない。組織のしがらみに縛られるいわれはない」
そのあまりにも平静な態度に、怒り心頭に発した義虎はかっと目を見開くと、その拳を固く握りしめた。亨也はしかし顔色ひとつ変えず、義虎を見据えながら黙っている。
「この……!」
義虎が亨也に向かって拳を振り上げかけた、その時だった。
「やめてください!」
薄暗い霊安室に、紺野の叫びが響き渡った。
義虎はゆっくりと振り返り、自分の背後に立つ紺野を見やる。
部屋の中央に立つ紺野の体からは、ゆるやかに白い輝きが放射されている。義虎は忌々しそうに口の端を上げた。
「何か言いたいことでもおありですかな? 新しい神代総代」
義虎は亨也の襟首から乱暴に手を離すと、踵を返して紺野に歩み寄った。
「あんたがいけないんでしょう。送信はしたくないなどと、子どもじみたワガママをおっしゃるから……」
口の端を片側だけ引き上げ、勝ち誇ったように鼻で笑う。
「それとも、やっと送信する気になりましたかな?」
鋭い目で義虎を見据えながら、紺野は口を開いた。
「さっきも言ったとおり、そのつもりはありません」
その言葉が耳に届くやいなや、義虎は血走った目を見開いた。うつむきかげんの目元をおおう長い前髪をわしづかみにすると、その顔を上向かせ、怒声を浴びせかける。
「いいかげんにしてもらえませんか、総代!」
そう言うと前髪ごと体を引き、突き放すように背後の壁にたたきつける。後頭部が壁に強く打ち付けられ、鈍い音が響いた。
「自分勝手なことばかり言ってないで、総代としての責任を果たしたらどうです? あんたは神代の総代なんだ。それらしく振る舞っていただかないと!」
それでもなお揺るぎなく義虎を見据えながら、紺野は表情を動かさなかった。
「誰が総代になると言いましたか」
「何⁉」
「僕はそんなものになる気はない」
地下室の空気が、一瞬にして凍りついた。
義虎は左手の拳を堅く握りしめ、ぶるぶると全身を震わせ始めた。煮えたぎる憤怒が抑えきれないと言った風だった。
「いい加減にしろ!」
割れるような大声で怒鳴りつけ、つかんでいた前髪を下方向に引く。頭から床にたたきつけられた紺野の腹を、間髪を入れずに蹴り飛ばす。無論全力ではないが、魁然家総帥のパワーはけた違いだ。壁に背中からたたきつけられた紺野の口から、血しぶきが飛び散った。玲璃は耐えきれず、両手で耳を塞ぎ、目を堅くつむって息を殺した。
床に倒れ伏していた紺野は、ゆるゆると顔を上げて義虎を見た。先ほどと全く変わらぬ、強いまなざしで。義虎はそんな紺野をにらみ下ろしながら、沸き立つ怒りに拳を震わせている。
「いい気になるのも大概にしろ。私だって、おまえを総代だなどと思いたくはない。誰がおまえのような人殺しに、大切な娘をやりたいものか! だが、そういう結果がでてしまったからには従うしかないんだ。これは個人的感情でどうこうできる問題ではない!」
紺野はゆっくりとした動作で口元の血を拭った。
「あなたは、僕を殺したいんでしょう」
義虎は目を見開いて動きを止めた。寺崎も、玲璃も、その部屋にいる全員が、呼吸すら忘れて紺野を見つめる。
「僕が裕子に手を出し、そのために裕子は死に、さらに自分の娘が危険にさらされ、あげく、その娘を奪われる……殺したくて当然です」
つぶやきながら紺野はよろよろと立ちあがった。脇腹の傷が開いたのか、白い病院服がうっすら赤く染まっている。紺野は顔を上げると、気圧されたように自分を見ている義虎に視線を合わせた。
「殺していただいて、構いません」
張り詰めた地下室の空気が、人々の息をのむ気配とともに大きく揺らいだ。
「そうすれば、総代なんて者もいなくなる」
紺野はどこか遠くを見つめながら、無表情に言葉を続けた。
「亨也さんが死ぬ必要もなくなる。魁然さんも望まない結婚をしなくてすむ。あなたも、娘を僕のような男にやらずにすむ。……いいことずくめでしょう」
「ふざけるな! 分かったような口をきくんじゃない!」
ブチ切れたのだろう。義虎が、かっと目を見開いた。同時に、寺崎や亨也、そして紺野自身がハッとする間もなく、義虎の豪速の拳が紺野に向かって突き入れられる。
だが、次の瞬間。一同が見たのは、義虎の拳に突き殺された紺野ではなかった。
いつの間に移動したのだろう。義虎の拳の前には、自らの体を盾にして立ちはだかり、強い目線で父親を見上げる玲璃の姿があった。その時初めて、座っていたはずの玲璃の席が空になっていることに気づき、隣席の魁然家の出席者が息をのむ。本当に一瞬の出来事だった。
「もうやめてください、父様!」
玲璃は真っ赤にうるんだ目で父親を見上げていた。
「紺野は大ケガをしているんですよ! そんなことをしたら、本当に死んでしまう!」
「結構な話じゃないか」
玲璃はその言葉に息をのんだ。そんな娘の反応を意にも介さない様子で、義虎は口の端を上げて笑った。
「その男の言うとおりだ。私はこいつに死んでほしい。四月に会った時から、ずっとそう思っていた」
玲璃は震えながら、目を背け、耳をふさぎたい衝動を必死でこらえた。この現実から、目を背けてはいけないような気がした。
義虎は拳を収めると、玲璃の後ろで壁によりかかり、肩で息をしている紺野に目を向け、音が鳴るほど強く奥歯をかみしめた。
「こいつが総代だったと知って、地獄に突き落とされた気分だった。私はまたこいつに、大事な人間を奪われるんだからな。本当に、疫病神以外のなにものでもない。つくづく四月のあの時、殺しておけば良かったと思ったよ!」
玲璃ははっとした。紺野をにらみ付ける義虎の目の際に、何かが光っているような気がしたのだ。
「今からでも、遅くありませんよ」
紺野は荒い呼吸の間から、ぽつりと口を開いた。
「僕は誰が何と言おうと、総代になどなる気はない。僕は、誰も恨んではいません。僕や、僕に関係する人々がこんな目にあわなければならなかったのは、僕の責任なのは言うまでもありませんから。……ただ、今回のことで僕は、今までの出来事も含めて、自分のせいばかりではないことに気づいたんです」
寺崎も、亨也も、沙羅も、そして玲璃も、その場にいる全員が、息を殺して紺野の言葉に耳を傾ける。
義虎が、低い声で問いかける。
「何のせいだというんだ」
紺野は顔を上げると、義虎を正面から見据えた。
「あなた方一族の、目的のせいです」
この言葉に、地下室にいた全員が打たれたように動きを止め、瞬ぎもせず紺野を見つめた。自分たちもうっすらと感じ続けてきた重大な何かを、唐突に白日の下にさらされたような居心地の悪さを感じて、その場にいる全員がたじろいだ。
紺野はその視線を無表情に受け止めながら、静かに言葉を続けた。
「京子さんが僕を捨てたのは、総代という立場の人間が二人は必要ないという一族の方針に従うことができなかったからです。あの人は、僕を殺したくない一心で東京駅に捨てた。僕は、致し方なかったと思います。そのことに関して、僕はあの人を責める気は一切ない。……でも、双子が産まれたら、片方は必ず殺さなければならないというこの一族の方針には、納得しかねます」
紺野は言葉を切って息を整えた。その足元には、脇腹から染み出して滴り落ちた赤い水玉模様が幾つもできている。
「そして裕子は、やはり組織の目的を達成するために、十四歳という若さで子を成した。それは恐らく、自然な成り行きではなかったでしょう。その成り行きに彼女が不満を持っていたかどうかはわかりませんが、少なくとも彼女はその後、自分の産んだ子と一緒にいられないことが耐えられなかった。それゆえ、彼女はあんな行動に出た……僕はそう思っています」
義虎は拳を握りしめた。体全体が、はっきり分かるほど震えている。
「そして、その結果、優子が生まれた」
紺野はじっと目の前に横たわる優子を見つめた。
「もちろん、無責任に裕子に手を出した僕の罪は重い。あなたの怒りも当然です。僕はそれは、真摯に受け止めなければいけないと思っている。ただ、その背後にあるあなた方一族の目的が、今回の出来事全てに通底する要因になっていると、僕は思うんです」
そう言うと、静かにその長いまつ毛を伏せる。
「だから、殺していただきたいんです。そうすれば、総代なんてものはいなくなる。僕があなた方の目的に加担することもない。あなたも、僕が死ねば清々するでしょう」
「何言ってんだよ、紺野!」
それまで黙って聞いていた寺崎が、耐えきれなくなったように叫んだ。
「おまえ、生きるんじゃなかったのか? 生きたいんじゃなかったのかよ? 優子がせっかく助けてくれた命を、むざむざ捨てる気なのか?」
紺野は、寺崎の方にゆるゆると首を巡らせた。その目にみなぎる静かな、しかし激しい怒りを感じて、寺崎は射すくめられたように言葉を飲み込んだ。
「僕は、許せないんです」
寺崎を見つめながら、紺野は震える声を絞り出した。
「この一族の目的は、僕は詳しくは知りません。その裏に、どんなに多くの人が犠牲になっているのかも、そのためにどれほどの月日が流れたのかも。……でも、知らないからこそ、僕ははっきりと言える。僕はこの一族の目的が許せない。人を踏みにじり、人生を狂わせ、目的の障害となるものは殺すことでしか成就することができない……そんな目的のために、優子や京子さん、美咲さんが命がけで残してくれたこの命を使う気は、毛頭ありません!」
紺野が憤りをあらわにし、こんなに激しい口調で語る様子を見るのは、寺崎も、亨也も、玲璃も、初めてと言っていいくらいだった。紺野の深い悲しみと憤りをまざまざと感じて、三人はただ黙ってその言葉に耳を傾けるしかなかった。
「そんなものになるくらいなら、死んだ方がいい」
紺野は壁に背中をもたせかけると、荒い息の間からつぶやくように言葉を継いだ。
「僕を殺せばいい。そうすればこの一族の目的は消え、亨也さんも、魁然さんも、自由になることができる。自分自身の人生を歩むことができる」
「……紺野」
玲璃の目に限界までたまった涙が、瞬きとともに頬を伝い落ちる。
それまで黙って紺野の言葉を聞いていた義虎が、ふいに顔を上げ、紺野の方に向かって歩き始めた。踏みしめる一歩にも、にらみ据えるその目にも、猛り狂う嵐のような憤怒がたぎっているのが感じられ、部屋にいる一同は凍り付いたように義虎の動向を注視する。
「言いたいことは、それだけか」
義虎は、紺野の傷ついた左腕をわしづかみにした。紺野は一瞬だけ顔をゆがめたが、それでも義虎から目をそらさなかった。
「確かにおまえが、組織の目的を無視して総代にならない道を選択するのなら、私も組織の目的を無視して、おまえを殺す道を選択するだろう」
言いながら、つかんでいる手にゆっくりと力を込める。重機さながらのその握力に、傷口が開き、骨がきしみ、滲み出た血で白い病院服はたちまち深紅に染まっていく。玲璃の顔から血の気が引いた。
「父様! やめてください!」
亨也と寺崎は、ほぼ同時に紺野の元に駆けよろうと足を踏み出しかけた。が、その途端、魁然の護衛によって寺崎は右腕をねじり上げられ、亨也は両側から抑えつけられ、体の自由を奪われてしまう。
義虎は冷然と紺野を見下ろしながら、力を徐々に強めていく。紺野はしかし眉ひとつ動かさず、義虎を見据えてまじろぎもしない。腕をつかむ指の隙間から絞り出すようにあふれ、床に滴り落ちる、生温かい鮮血。義虎はそれを視界の端にとらえながら、決然と言い放った。
「おまえはわれわれ一族からも、組織からも逃れることはできない。おまえは組織の目的そのものなのだから。おまえがいいとか悪いとか、そんなことを決められる立場ではない。玲璃だって同じだ。誰も逃れられない」
底光りする目で紺野を見据えながら、押し殺したような声で後を続ける。
「……この目的のために、裕子は十四歳という若さで玲璃を産んだ。この目的を成就する、ただそのためだけに。その目的が簡単にほごにされてしまったら、いったい何のために裕子があんな思いをしたのか、分からなくなってしまう。そんなことは、絶対にあってはならんのだ!」
「もうやめてください!」
玲璃が半狂乱になって泣き叫ぶ声が、薄暗い地下室に反響する。寺崎も亨也も、魁然の護衛に拘束されたまま、ただ見守るしかない自分の無力さに打ちひしがれていた。
紺野は、額にべったり前髪が張り付くほど脂汗を流しながら、低くかすれた声で言葉を発した。
「裕子は、あなたしか見ていなかった」
その言葉に義虎は、血走った目を限界まで見開いた。
「あの時、裕子は泣きながら僕にこう言った。彼は、自分のことを愛していなかった、自分はあの一族に、子どもを産む道具として利用されただけだった、と……」
刺すような義虎の視線をものともせず、紺野の口からは、堰を切ったように言葉があふれた。
「裕子が欲しかったのは、あなたの愛情だけだったんです。僕なんかでは、何の足しにもならなかった。彼女は恐らく、あなたが自分の産んだ子を連れて別の女性と暮らしていることが耐えられなかった。……そんな彼女が、一族の目的を成就するためだけにあなたとそういう関係になったと思っているんですか。それこそ、裕子のことを何も分かっていない! だから裕子は、あんな事件を起こしたんです!」
紺野は吐き捨てるようにこう言うと、肩で息をしながら義虎を見据えた。
義虎は唇をわななかせながら、まじろぎもせず紺野を見ている。
自分の腕をつかんでいる義虎の手が震えているのを、紺野は感じた。
「おまえに、何が分かる!」
突然、義虎は耐え切れなくなったように叫んだ。つかんでいた紺野の腕ごと、背後にある壁に紺野の体をたたきつける。コンクリートの壁に後頭部を激しく打ち付け、一撃で気を失った紺野は、ずるずると床に座り込むようにして崩れ落ちた。
「……今日はそのくらいにしましょう、総帥」
歩み寄ってきた義文が、義虎の肩に手を置き、静かに口を開いた。
「総帥のお気持ちは、よく分かります。ですが、一族としては、この男を殺す訳にはいかんのです。それは総帥も、よくおわかりのはずだ」
義虎は肩で息をしながら、義文の言葉を黙って聞いている。
「会合は、日を改めて行いましょう。取りあえず、送信で事の概略は分かった訳ですから、今日のところは、それでよしとしておきましょう」
その言葉に、義虎は血塗られた拳を堅く握りしめながらも、小さくうなずいたようだった。
間もなくストレッチャーにのせられ、血だらけの紺野はICUに搬送されていった。義虎も、義文らに支えられるようにして、ゆっくりとその部屋を後にする。廣政も、その他の参加者たちも、それに続いて部屋を出て行った。玲璃も、寺崎も、亨也も、そして神代方の一族も、魁然の護衛達に両側から挟まれるようにしてその部屋を後にする。
薄暗く湿った地下室を、再び静寂が支配する。
非常灯の明かりだけがぼんやりと浮かび上がる暗い部屋には、白い煙に包まれた裕子だけが、まるで眠っているように穏やかな表情で、静かに横たわっていた。