4月16日 1
4月16日(火)
珠洲は、急ぎ足で取調室へ向かっていた。
昨日、河川敷で起きた火事に能力者が関与しているらしいことが、寺崎という末端構成員の証言で分かった。出火原因などについては管轄の警察官達が調べているが、能力者が関与しているとなれば、珠洲はそれとは別口で内密に調べを進めていかなければならない立場なのだ。
珠洲は、魁然義虎の娘であり、玲璃の義理の姉に当たる。珠子の実子であり、魁然家の長女で、三十歳になる。きりっとしたショートヘアにシンプルなパンツスーツがよく似合う涼やかな美女だが、結婚はしていない。複雑な家庭環境の影響で、彼女は結婚というものになんの期待も幻想も抱いていないどころか、嫌悪感すら抱いている。それゆえ彼女にとっては、そんなくだらない雑事に時間を割かれるよりは、刑事の仕事に没頭している方が何百倍も楽しいのだ。
魁然家は遺伝的に常人離れした身体能力を有する一族だ。だが、総代である玲璃を除いて、その能力特性は男性にしか現れない。それゆえ、珠洲も魁然家の血を色濃く受け継いではいるが、能力特性は不顕性であり、あくまで通常レベルの運動能力しか有していない。とはいえ、魁然家、そして、能力は違えど同様の特性を有する神代家の内情を知っている関係者の一人として、能力者の関わる事件捜査では彼女が担当することが多いのである。
扉をノックすると、珠洲は取調室へ入った。
窓際の席に、ぼうぜん自失という感じで小柄な老婆が座っていた。すすだらけの顔に、ところどころ焦げ跡のある汚らしい上着を引っかけ、髪は炎に炙られたためかちりちりになっている。珠洲が部屋に入ってくると、おびえたように身を縮めて小さくお辞儀をした。
「申し訳ありませんでした石川さん、お疲れのところお待たせしてしてしまって。早速ですが、昨日の火事であなたが体験されたことについて、もう一度詳しくお話を聞かせていただきたいのですが」
向かい側のパイプ椅子に座りながら珠洲が投げかけると、石川と呼ばれた老婆は怯えたような顔で頷き、かすれた声で話し始めた。
「昨日……わしは当番だったんで、ゴミ捨て場の掃除をしてたんじゃ。そうしたら、急にアパートから火がでて……わしは、じいさんの位牌を取りに、うちへ入った。そしたら、天井が落ちて、玄関が通れなくなってしまったんじゃ。もうだめだと思った。そうしたら……」
メモを取っていた珠洲は、老婆が言葉を切ったので俯いていた顔を上げる。すると老婆は、半ば神がかったような表情で叫んだ。
「浩孝が来てくれたんじゃ!」
うんざりした表情を浮かべた珠洲に構わず、老婆は早口でまくしたてた。
「浩孝はケガをしてるんじゃ。早う探してくれ。あんたたち、探してくれるいうて、まだ見つかってないんじゃろ? ウソつき!」
珠洲はため息をつくと、噛んで含めるようにゆっくりと、まるで小さな子どもに諭すような口調で話す。
「ですから何度も申し上げていますとおり、それは浩孝さんではなかったんです。あなたの洋服に付着していた血液は、検査の結果、隣の部屋に住んでいた紺野という男のものと一致しました。あなたを助けたのはお孫さんではなく、紺野なんです」
老婆はぼうぜんと珠洲を見つめながら、震える声で呟いた。
「……ウソじゃ。あれは確かに、浩孝じゃった」
「私がお聞きしたいのは、紺野がどうやってあなたの元に現れたのかということです。玄関は焼け落ちてふさがれていたんですよね? そんな状態で一体どうやって紺野は、あんな体であなたの所に来て、どうやって河川敷まであなたを連れ出したんですか?」
老婆はそんなことは聞きたくないとでも言わんばかりに頭を抱えると、ぶんぶん首を振る。
「違う、あれは浩孝じゃ。絶対浩孝じゃった」
珠洲は大きなため息をつくと、深々とうなずいてみせた。
「分かりました、では、石川さんの仰る通り、あれは浩孝さんだったとしましょう。玄関が焼け落ちているのに、浩孝さんはどうやってあなたのもとに現れたんですか?」
その言葉に、老婆は表情を改めて黙り込んだ。記憶を手繰り寄せるように、斜め下を見つめながら皺だらけの口をわずかに動かしている。数分間そうして考え込んでいたが、やがて重々しく口を開いた。
「わしは……もう死ぬと思って、じいさんを抱えて、丸くなって、般若心経を唱えていたんじゃ。そうしたら、ふいに背中に……浩孝が来てくれたのを、感じたんじゃ。そのあと、ものすごい頭痛がして……」
「頭痛ですね」
珠洲は頷きながらメモを取る。
「まるで地下鉄に乗った時みたいな、ものすごい耳鳴りもした。それで、わしは、たまらんくなって目をつぶったんじゃ。次に目を開けた時には、わしは川におった。それで、浩孝はいなくなっておった。わしは河原を必死で探したんじゃが、どこにもおらんかったんじゃ。そのあと……」
珠洲は書き終えると、ノートを閉じた。
「分かりました、石川さん。ありがとうございました。そこまでで結構です」
老婆は狐につままれたような表情で珠洲を見つめた。
「分かったって……何がじゃ。浩孝がどこにおるか、わかったのか?」
「浩孝さんは、娘さんの所におられますよ。電話なさるといいでしょう。とりあえず、警察としてはあなたにお伺いすることはこれ以上ありません。ご協力ありがとうございました」
珠洲は半ば強引に話を打ち切ると、何か言いかけた老婆に構わず取調室を後にした。
部屋を出ると、廊下の端に立っていた背の高い男子高校生……寺崎が、急ぎ足で歩み寄ってくるのが見えた。珠洲は足を止めると、寺崎に軽く頭を下げた。
「寺崎さん……でしたっけ。昨日はいろいろと協力ありがとうございました。それにしても、今日は平日のはずだけど。学校はいいの?」
その問いかけをスルーして、寺崎は早口でまくしたてる。
「ばあさん、何て言ってましたか?」
珠洲はため息をつくと、ちょっと肩をすくめてみせた。
「同じ話を何度もするし、話は回りくどいし、間違いを訂正しても聞き入れないし、彼女から得られる情報にそこまで価値の高いものはないかと思ってたけど、まあ、それなりに興味深い話は聞けたかな」
「興味深い話?」
寺崎が聞き返すと、珠洲は頷いていくぶん声を潜めた。
「あなたも感知したそうね、能力発動」
その言葉に、寺崎は真剣な表情で深々と頷く。
「彼女の話からすると、そのうちの二回は間違いなくあの紺野とかいう男によるものね」
寺崎は予想済みの事実だったのか、その発言に対してはそれほど驚かなかった。
「俺、あのとき、違うエネルギー発動も感知したんです。一方は紺野だとして、もう一方は……」
「そこまでは、あの人の話だけでは分からないわね。本当に、別のエネルギーだったの?」
「完全に違うものでした。もしかしたらその能力者が、紺野をあんな目に遭わせたのかもしれない」
「確かに、その可能性も否定できないわね」
珠洲は頷いてから、何を思いついたのか顔を上げて寺崎を見た。
「そういえば寺崎くん、神代の病院にも行ったのよね。紺野とかいう子、どんな様子だった? 相当に危険な状態で、どっちに転ぶかわからないなんて聞いたけど……持ち直しそう?」
その言葉に、寺崎は表情を曇らせた。
「それが……なんか、血液型が、とんでもなかったらしくて」
「え、どういうこと? あのおばあさんの服に付着していたものと一致したってことだけは聞いてたけど」
寺崎は首を小さく横に振った。
「それだけじゃなくて、あいつの血に、神代一族と同じ血液成分が含まれてることがわかって……それで、輸血はできないって」
「は?」
その言葉に、珠洲は息をのんで目を見はった。
「ちょっと待って。その子、転移能力発動したんでしょう? 突然変異の能力者じゃなくて、神代の血統ってことは……」
寺崎もこころもち青い顔で深々と頷く。
「神代系は、俺ら魁然系とは逆に女性側しか能力発現はしないはずで、男で能力発現してるのって、確か、総代だけ……なんすよね」
「そう。能力が発現するのは遺伝子的に女だけ。能力発現のある神代系男児が総代以外にこの世に存在するとしたら、考えられるのは、あの事件で生まれた、あの……」
珠洲は大きくその目を見開くと、言いかけた言葉を飲み込んだ。寺崎は息をのみ、珠洲の大きな目をまじまじと見つめる。
「……いや、でも、……」
寺崎は恐ろしい想像を振り払うように大きく首を振った。
「あの子どもは、あの事件の時に死んだはずっすよね。皮を脱いで生き返ったとか、そんな三流ホラーみたいな話、あるわけが……」
「……それはわからないわよ。われわれが「鬼子」という存在に接するのはあの子どもの事例が初めてで、それがどういう存在なのかなんて、本当になにもわかっていないんだもの。遺体安置所に残されていた赤子の遺体は確かに中身が空っぽで、セミの抜け殻のようになってたって記録にも残ってる。鬼子が魁然系の特性も有しているとすれば驚異的な生命力にも説明はつくし、今も生きている可能性だって、決してゼロじゃない」
「で、でも、だったらなんでそんなヤツが、あのばあさんを助けたんすか?」
珠洲は一呼吸おいてから、いかにも重々しく口を開く。
「おばあさんを助けたとみせかけてわれわれを油断させ、病院に潜り込む目的で自作自演した……とかね」
言葉を飲み込んで固まった寺崎を見て、珠洲はぷっと噴き出すと、クスクス笑いながら寺崎の肩をたたいた。
「ごめんごめん、脅かしすぎちゃったかな。大丈夫、そんなに怯えなくても、神代の病院には神代総帥も総代もいらっしゃるわけで、危険人物を拘束するにはある意味一番ふさわしい場所だから。われわれもこれからその線で調べてみるし、あとは大人に任せてちょうだい。いろいろありがとう。あなたの証言があったから、われわれもあの男の存在にたどり着けたわけで、今回の一番の功労者はあなたかもしれないわね。とにかく、あなたはこれ以上余計な心配はせずに、早く学校に行きなさい」
そう言って珠洲は軽く右手を上げると、踵を返し、廊下の向こうに消えていった。
薄暗い廊下に残された寺崎は、灰色の床の無機質な表面を見つめながら、先ほどの珠洲の言葉を反すうしていた。
『自作自演した……とかね』
寺崎は思い出していた。土手の下に、裸足に寝間着という格好で、草だらけになって転がっていた紺野の姿を。
搬送先の神代の病院で、右足のケガだけではなく肋骨を六本も骨折していたことが分かった。そのうち数本が肺に刺さっていたそうだ。あと少し発見が遅れていれば、死んでいただろうとも言われた。そして紺野の服の胸あたりには、何者かに蹴られたらしき無数の靴跡が残っていた。
老婆から点々と続いていた血痕。確かに紺野はあの老婆を助けた。しかもあんなボロボロの体で。転移したところで力つきて、土手から転がり落ちたに違いない。
――自作自演で、あそこまでするか? 普通。
寺崎は、無性に腹が立って仕方がなかった。