6月22日 12
全速力で走っていた寺崎は、はっとして足を止めた。
急激な赤い気の高まりを感じたのだ。
――優子?
どうやらこの限界状態で、力を行使しているらしい。いったい何をしているのだろう? 紺野にしても優子にしても、限界まで力を使い切って消耗しきっているはず。寺崎は何だか嫌な予感がした。
再び足を踏み出すと、先ほどよりさらにスピードを上げて走り出す。大きなクレーターのような、巨大なくぼみの中心に向かって続くなだらかな坂を果てしなく駆け下りるうちに、やがて赤い輝きが視界に捉えられ始める。燦然と光り輝く赤い気。あれは確かに、優子の気だ。
その気の中心に位置する、人影……最初米粒ほどだった人影が徐々に大きくなり、小豆粒大になり、鶏卵大になり……やがてそれが握り拳ほどの大きさに見えてきた頃、寺崎は優子の気の変化に気づいた。
いつもの、あの禍々しさが感じられないのだ。
その赤い気は、透き通ってピンク色のように輝いて見える。何とも温かで、優しい気だ。
その気から感じる気配に、寺崎は覚えがあった。
――これは、……紺野の、気?
紺野がみどりにシールドをかけている時、いつも感じたあの温かさ。優しさ。それとよく似た気配を、寺崎は感じたのだ。
いぶかしみながらスピードを落とした寺崎は、赤い気の中心に展開していた光景に、息をのんだ。
気の中心では、血まみれで横たわる紺野の傍らに、端然と正座した優子が座り、その体に赤く輝く手をかざしていた。かざした手からはあの何とも温かで優しい気がほとばしり、紺野の体のまわりを周回している。背筋を伸ばして座る優子の姿は、その体が不自由だということを全く感じさせなかった。ごく当たり前に紺野の側に座り、当たり前に手をかざしているように見える。
寺崎はしばし言葉もなく、そんな二人を見つめていた。
と、寺崎に気がついたのか、優子の微弱な送信が届いた。
【結構、難シイナ】
「おまえ、紺野の傷、……治してるのか?」
【アタシガツケタ傷ダカラナ】
苦笑するような、優子の気配。
【寝タママデヤロウトシタラ、能力ガポイントニウマク当タラナイ。起キ上ガッテヤラナイトダメダッタ】
「おまえ……大丈夫か?」
【四十パーセント程度ハ治ッタト思ウ。大キナ出血ハ止メタカラ、命ニ別条ナイ位ニハナッタ】
その返答に、寺崎も思わず苦笑した。
「……おまえ、マジで紺野にそっくりだな」
優子はいぶかしげに黙り込む。
「俺は、おまえのことを聞いたつもりだったんだ。紺野もそうだった。俺は紺野が大丈夫かどうか聞いたのに、あいつは別のやつのことを答えやがって……」
そう言うと、寺崎は真剣な表情で優子を見つめ直した。
「おまえは、大丈夫なのか?」
その言葉が紡ぎ出されると同時に、優子を取り巻いていた赤い気が、まるで潮が引くように消え始めた。
【……サアナ】
つぶやくような送信が脳をかすめた瞬間、正座していた優子本体は力が抜けたようにがくりと崩れ落ちた。
寺崎は即座に反応してその体を支えたが、左腕にぐったりと体重を預けた優子本体の目は、すでに堅く閉ざされていた。
「優子⁉」
【能力ヲ……使イ過ギタ】
消え入りそうなその送信に、寺崎は息をのんだ。
【アタシノ脳ハ、間モナク活動ヲ停止スル。恐ラク、モウ目覚メル事ハ無イダロウ】
「……何だって?」
寺崎は耳を疑った。優子は、自分の限界を超えて力を行使したということなのか。
「どうして、そんな……」
【アタシニモ、ヨク分カラナイ】
苦笑しているような送信が、寺崎の脳裏をかすめた。
【タダ、コノ男ガ死ネバ、アタシハマタ一人ボッチニナル。動ケナイママ、何ノ楽シミモナク、誰カノ世話ニナリ続ケテ……ソンナ状態デ生キ続ケルヨリ、死ンダ方ガイイ。ソウ思ッタンダ】
「なに言ってんだよ、そんなこと……」
【アタシガ生キルヨリハ、コイツガ生キル方ガイイダロ】
寺崎は何か言おうとしたが、言葉にならなかったのだろう。震える唇を引き結んで横たわる優子を見下ろした。
【チョットダケ、楽シカッタ】
「優子、……死ぬな」
震える唇から、かすれた声が漏れる。まばたきとともに頬を伝い落ちた涙に驚いたのだろう、優子は遠慮がちな送信をよこした。
【……アタシノタメニ、泣イテクレルノカ?】
「何言ってんだ、バカ」
寺崎は慌てたように顔を優子とは逆の方にそむけ、右腕でやり過ぎなくらい目のあたりをこすっている。優子はしばらくの間、そんな寺崎をじっと見つめているような雰囲気だったが、やがてつぶやくような送信をよこした。
【オマエラニ、モット早ク会ッテイレバ良カッタナ。イヤ、会ッテハイタカ。チャント話シヲシテ、分カリアッテイレバ良カッタナ】
優子本体は目を閉じたままだったが、彼女の意識は、遠くを見つめているような、そんな雰囲気だった。
【ソウシタラ、何カガモウチョット変ワッテイタカモシレナイ】
優子が寂しそうに笑ったような気がした。
【温泉旅行ニモ、行カレタカモナ】
「行こう!」
寺崎は必死で叫んでいた。
「おまえも行くって決めただろ! おまえのおかげで、紺野は無事に百パーセントの解放を成功させられたんだ。おまえが一緒に行かなくてどうすんだよ!」
【デモ、アタアシノセイデ、コイツハ死ニカケタ】
寺崎は、あとに続けようとした言葉を飲み込んだ。
【ダカラアタシハ、ソノ後始末ヲシタダケダ。自分ノセイダカラ、仕方ガナイ】
静かな送信のあと、寺崎をじっと見つめるような気配がした。
【コノ男ノコトヲ、ヨロシク頼ム】
「優子……」
【コイツニ、伝エテホシイ】
寺崎は表情を改めると、左腕に抱えた優子の送信に全ての意識を集中した。
【アタシノ分モ、生キロッテ。生キテ、色ンナコトヲヤッテミロッテ】
優子は少し間を開けてから、こう続ける。
【アト、能力ヲ使ウノニ、臆病ニナリ過ギルナッテ。セッカク、他ノ奴ニハ無イ能力ガアルンダ。少シクライ使ッタッテ、罰ハアタラナイ】
「その通りだな。そのせいで、いろいろとたいへんな目に遭ってきたんだ。その分、得することもなけりゃ、やってられないよな」
深々とうなずくと、寺崎はじっと優子を見つめた。
「……必ず、伝えるよ」
【アリガトウ】
優子の送信は、もうほとんど感じ取れないくらい微かなものだった。だが、寺崎の頭には確かにこう届いた。
【オマエラニ会エテ……良カッタ】
それが、優子の最期の送信だった。
少しずつ温かみを失っていく優子の、その羽のように軽く頼りない体を抱きしめながら、寺崎は声を殺して泣いた。まるで眠っているように穏やかな表情を浮かべている優子の、少しひんやりとした体に頬を寄せ、歯を食いしばり、肩を震わせて、そのあまりにも孤独な一生に思いをはせながら。
☆☆☆
吹き抜ける風に頬をくすぐられ、沙羅はうっすらと目を開けた。
よく晴れた真っ青な空に浮かぶ小さな雲が、ゆっくりと流れていく。
――ここは?
沙羅はよろよろと体を起こすと、あたりを見回した。確か自分は、紺野の自死を食い止めて解放を成功させるため、彼の側に意識を飛ばしたはず。どうやら死にはしなかったようだが、この清々しい晴天は一体何を意味しているのだろう。眉根を寄せつつ右前方に目を向けた沙羅は、息をのんだ。
沙羅の座り込んでいるところから十メートルほど先、草木一本ない平原に、誰かがうつぶせで倒れている。顔を少しだけ右に向け、じっとして動かない。茶色いサラサラの髪が風に吹き散らされ、顔の半面を覆っている。その体の周囲に広がる、赤黒いシミのようなもの……あれは。
「総代!」
沙羅は弾かれたように立ちあがると、その人物の側に駆けよった。
「総代、しっかりしてください、総代!」
傷のない方の肩をたたき、必死で意識を確認するも、亨也の答えはない。
沙羅は指先がわなわなと震え出すのを感じながら、倒れ伏す亨也の状態を確認する。弱々しいが呼吸はしている。だが、かなり血圧が下がっている。意識状態の悪さからして、出血性ショックを起こしている可能性が高い。見れば、頭の先から足の先まで、体中にできた裂傷が、浅いものから深いものまで、全身に無数に見られる。中でも、肩や脇腹の傷からはかなりの出血が見られ、着衣はもちろん、周囲の地面までも赤黒く染め上げている。しかも、まだ止まっていない様子だ。
沙羅は能力で治療しようと意識を集中した。だが、つい先ほど限界まで力を使い果たした沙羅に、ケガの治療ができるほどの能力を出せるわけもない。沙羅は震えながら自分のぼろぼろのトレンチコートを力任せに引き裂くと、傷口周辺を縛り上げて止血する。肩も、腹も、足も、腕も。体中がボロボロで、ひどいありさまだった。
――死なないで、総代!
必死で止血しながら、沙羅は涙が止まらなかった。こんなひどい状態なのに、その程度の処置しかできない無力な自分が、情けなかった。涙をこぼしながら、それでもようやく大体の傷を縛り終えた、その時だった。
「……はい、そうです。ええ、お忙しいところ申し訳ありません」
誰かが電話で話しているような声に気がついた。声の主は徐々に近づいてきているようで、その声は段々はっきりと聞き取れるようになってくる。ゆるゆると振り向くと、大きなカバンを提げ、きちんとネクタイを締めた品のいい初老の男性が、携帯電話片手に何やら話しながらこちらに早足で歩いてくるのが見えた。
「そうです。終わりました。お願いしていたとおり、連れ帰っていただけますか。はい。詳しいことは、また後でお話しさせていただきます。とにかく今は、一刻を争いますので……はい。では」
男は沙羅の側まで来て立ち止まると、そう言って電話を切った。沈痛な面持ちで亨也の傍らにかがみ込むと、持っていたバッグから医療器具を取り出し、手際よく応急処置を始める。
沙羅はその男性に、見覚えがあった。
「あなたは……」
男性は亨也の処置をしながらチラッと目線を上げると、小さく頭を下げた。
「今、神代の者を呼びました。間もなくこちらに向かって転移してきます。そうしたら、日本に戻ってすぐ治療しましょう」
手際よく処置をしつつ穏やかな声音でそう語る男を、沙羅はまじまじと見つめた。
「アメリカで治療をすると、組織にかぎつけられてしまう。いろいろとやっかいなことになるので」
「あなたはもしかして、総代の……」
男は処置の手を止めて沙羅に目を向けると、悲しげな表情でほほ笑んだ。
「ええ。亨也の父……神代、順平です」
沙羅は言いかけた言葉を飲み込み、瞬ぎもせず順平を見つめた。
順平は再び処置を始めながら、静かに言葉を継ぐ。
「今回のことは、京子から聞きました。あの子が……順也が最大値を見極める、その大事な場面に親である自分たちが関わらないのはおかしいと、そう意見が一致しましてね」
悲しみに満ちた目を手元に向けながら、再び処置の手を止める。
「……京子は、親としてのつとめを果たしたんですね」
寸時目をつむり、何かに耐えるようにじっとうつむく。
「次は、私の番だ」
つぶやくと、その顔を沙羅に向けて、深々と頭を下げた。
「沙羅さんにも、今回は本当にお世話になりました。何とお礼を申し上げればよいか……」
沙羅は慌てて首を振ると、つらそうにその長いまつ毛を伏せる。
「とんでもない。私なんて結局、最後は総代の足を引っ張ってしまって……。総代がここまでひどいケガをしたのは、たぶん私のせいなんです」
「そんなことはありません」
順平は決然と首を振り、きっぱりと言い切った。
「全て、われわれの責任なんです」
それきり、順平はもう何も言わなかった。
その傍らに立ちつくし、ボロボロのトレンチコートの裾を緩い風になびかせながら、沙羅は黙々と処置を続ける順平の寂しげな背中を言葉もなく見つめていた。