6月22日 11
いつの間にか、雲は晴れていた。
荒涼とした大地に、爽やかな風が吹き渡る。
光の洪水に飲み込まれたあと、一瞬で風に吹き散らされるように雲は晴れた。稲妻も、突風も、熱波も、全てがうそのようにおさまり、目の前のシールドの壁もこつ然と消え、ただ穏やかな風が、ぼうぜんと立ちつくす寺崎の頬を優しくなでていた。
「終わった……んですか?」
寺崎の問いに、答えはなかった。
はっとして振り返った寺崎の目に、地べたにうつぶせで倒れ伏す亨也の姿が映り込む。閉ざされた目に、頼りなく繰り返される不規則で弱々しい呼吸。力なく投げ出された四肢の周囲には、着衣に染みこみきれなくなった出血が赤黒く広がっている。
「神代総代!」
ぞっとして思わず大声で呼びかけた寺崎の頭に、微かな送信が届いた。
【……大丈夫。ちょっと動けそうにはないんですが】
ほっとして力が一気に抜けた寺崎は、その場にへたり込みそうになった。
【あの二人が、心配です。私はもう、トレースすらできそうにないので。……寺崎さん】
「はい」
【申し訳ありませんが、様子を、見てきていただけませんか。私はこのまま、ここにおいて行って構わないので……】
寺崎は躊躇した。亨也の隣には、沙羅もぐったりと横たわったままだ。彼女は呼吸もしっかりしていて命に別条がないことは寺崎にも分かったが、亨也は出血もひどく、疲労も激しい。こんな状態の二人をここへそのまま置いていくのは、あまりにも不安だった。
だが亨也は、そんな寺崎の不安を振り払うように、やけに明るく送信してみせる。
【大丈夫ですって。一緒に箱根に行くんでしょう。早く確かめてこないと、行けなくなってしまいますよ】
「総代……」
寺崎は言いかけた言葉を飲み込むと、後ろ髪を引かれる思いで立ちあがった。
「すぐ、戻ってきますから! 待っていてくださいね!」
そう言って踵を返すと、荒涼とした遊休地の中心に向かって、全速力で走り出した。
☆☆☆
草木はおろか、山も、水も、何一つない荒涼とした大地。半球状に削り取られた半径数キロ四方の巨大なクレーターの中心に、二人はいた。
優子は、最初と同じ姿勢で横たわっていた。その大きな目を無表情にくるくる泳がせながら、じっと青い空を見上げている。
――終わった。
優子は頭の中でつぶやいた。本当にギリギリだった。あともう少しで、自分の脳も休止状態に陥るところだった。今は彼女も、微弱な送信以外の力を使うことはできそうになかった。もし無理をすれば、呼吸をつかさどる脳の機能まで停止してしまうかもしれない。
だが、彼女は紺野のことが気になった。隣に倒れているようだが、さっきから動く気配がない。呼吸をしてはいるようだが、弱々しく不規則で、今にも止まりそうな気がする。顔を動かすことはできないので、優子は少しだけ無理をして意識を飛ばし、上空から紺野の様子を俯瞰した。
意識を飛ばして程なく、優子の隣にうつぶせで倒れている紺野が見えてくる。彼は優子の左手を自分の左手で握ったまま、動かない。大きく裂けた肩や脇腹から流れ出した血が、羽織っていた厚手のパーカーにまで染み出して、周囲の砂にも、染みこんだ血の赤黒い跡が広がっている。優子はぞっと背筋に寒気が走った。
と、微弱な送信が、優子の意識に届いた。
【とどめを、さすまでも、ないかもしれないね……】
その、あまりにも弱々しい途切れ途切れの送信に、優子は息をのんだ。
【多分、もうすぐ、……死ぬ、から】
【何ヲ言ッテイル⁉】
気がつくと、優子は必死で呼びかけていた。
【オマエ、アタシト一緒ニイルッテ言ッタロ? ズット、一緒ダッテ……アレハ、ウソダッタノカ?】
【ウソの、つもりは、なかった。……けど、結果的に、ウソに、なって、しまったかも、しれないね……ごめん】
閉じられた紺野の目の際から流れ落ちた涙が、荒れ地の乾いた砂にポトリと落ちる。
【最期に会えて、本当に、嬉しかった。ありがとう。本当に、……ありがとう】
【ヤメロ! フザケルナ!】
紺野の送信をさえぎるように、優子は叫んだ。
【死ヌナ! 死ナナイデクレ!】
驚いたような紺野の気配が伝わってきたが、優子の意識は、泣き叫ぶように送信し続けた。
【オマエガ死ンダラ、アタシハマタ、一人ニナッテシマウ! モウ一人ハ沢山ナンダ! アタシヲ置イテ行カナイデクレ!】
【優子、ごめん。本当に、……ごめん】
閉じたままの紺野の目から、幾筋も涙が伝い落ちる。
【僕も……おまえを、一人には、したくない。でも……死んでも、一緒にいる。僕は死んでも、ずっと、おまえと一緒に、いるから……】
【ソンナコト、アルモンカ!】
優子は半狂乱だった。
【死ンデモ一緒ナンテ、詭弁ダ! 死ンダラ、ソレデ終ワリダ! アタシハマタ、一人ボッチナンダ!】
優しく、ゆっくりとした紺野の送信は、まるで小さな子どもに言い聞かせるような雰囲気を帯びていた。
【大丈夫。僕がいなくても、寺崎さんや、神代さんがいるから……。彼らのこと、知ってるよね】
その、先ほどよりさらに弱々しく微弱な送信に、優子の意識は息を詰めて黙り込んだ。
【本当に……、いい人たちだから。きっと、……おまえの、生活を、サポートしてくれる。だから……心配、しないで。おまえは……もう、……一人じゃ、……ない、から……】
紺野はそれきり、もう何も言わなかった。意識が途切れたようだった。
優子はその様子を俯瞰しながら、ぼうぜんとしていた。
紺野を傷つけた、四カ所の傷。どれも致命傷ではなかった。だが、長時間にわたって出血し続け、さらに百パーセントの力の解放で体力も精神力も使い切ったことで、紺野の命の火はあとわずかで消え去ろうとしていた。
――死んでしまう。
胸を押しつぶされるような不安感と、居ても立っても居られないような焦燥感。混乱しながら、優子は思い出していた。亨也や寺崎が言っていた言葉を。
『私は、彼に死んでほしくないんです。彼にはもっと生きてほしい』
『あんな優しい男に、俺、今まで会ったことがなかった。……だから俺、あいつが大好きなんだ』
同時に、優子の頭に、紺野の優しいまなざしがよみがえる。
『長い間一人にして、本当に、ごめん。これからはもう、一人にしないから。ずっと、側にいるから……』
優子の意識体は、静かにその目を閉じた。
やがて本体の中に意識体が戻ると、閉じられていた優子本体の目が大きく見開かれる。
いつものように無表情にその目をくるくると動かしている優子の体から、じわじわと赤い輝きが染み出し始める。
その赤い輝きは倒れている紺野と優子の周辺を覆い尽くし、やがてゆっくりと渦巻きながら、荒野に倒れ伏す二人の姿をすっぽりと包み込んでいった。