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輪廻  作者: 代田さん
第五章 解放
185/203

6月22日 8

 紺野は温かいぬくもりを感じながら、母の背中に回した手にそっと力を込めた。

 その時、何かぬるっとした感触を覚えたような気がして、紺野はふっと目を開けた。

 おずおずと、母の背中に回した手に目をやり、……紺野は大きく息をのんで凍り付いた。

 手のひらが、真っ赤に染まっていたのだ。血だ。指先からしたたり落ちるほどの量だった。紺野は目を見開き、震えながらその手を見つめた。


「お母さん……」


 京子は閉じていた目を薄く開くと、微かに笑ったようだった。

 慌てて目を向けた京子の背中は、一面がぼろぼろに焼けただれ、肉が削げ落ち、肩甲骨が露出し、全体から血が流れ出していた。彼女の足元にはいつの間にか、大きな血だまりができている。


「シールドが……解けてしまいましたね」


 そうつぶやいて苦笑した京子を、紺野は震えながら、瞬ぎもせず見つめた。


「これは、もしかして……」


 あの時。紺野が力を自分に向けた瞬間。京子は自分の体を盾にして、紺野をかばった。彼女の能力をもってしても、紺野の力を完璧に遮断シールドすることはできなかった。だから彼女は、身を挺して紺野を守るしかなかったのだ。


「私にできることは、このくらいしかないですから」


 京子は肩で息をしながら、自嘲気味につぶやく。紺野はぼうぜんと、そんな京子を見つめるしかなかった。


「これで、……いいんです」


 京子の体が、がくりと崩れ落ちる。紺野は慌てて膝をつき、その体を抱きかかえるようにして支えた。


「お母さん……どうして」


「これが、母親の役目なんです」


 紺野の腕の中で、京子はほほ笑んだ。


「何があっても、自分の子どもを守る。どこの母親でも、当たり前にやっていることです。私は今まで、それを全くやってこなかった。このくらいのことをしなければ、母親だなんて恥ずかしくて言えません」


 そう言うと目線を上げ、紺野にその優しいまなざしを向ける。紺野は唇を震わせながら、そんな京子を見つめ返した。


「あなたを産んでくれた美咲さんも、きっと同じ気持ちだったと思いますよ」


 言葉もなく自分を見つめている紺野に、京子は震える手を差し伸べ、その柔らかい髪を優しくなでた。


「母親は、子どもに生きてほしいんです」


 何を言おうとしたのか、紺野の唇が開きかけて震える。だが、紡ぎ出されるはずの言葉は嗚咽にかき消され、代わりにその両眼から涙があふれた。そんな紺野を見つめる京子の目にも、涙が光っている。


「自分なんかどうだっていいんです。その子が、生きて、幸せになってくれれば……。それ以上ほしいものなんて、何もない」


 京子は目を閉じた。長いまつ毛に押し出された涙が、白い頬を流れ落ちる。


「だから……生きてください。身を挺して亡くなった、美咲さんのためにも、東京で待っている、みどりさんのためにも……。あなたが生きることで、私も本当に救われる。もしここで、あなたが死んでしまったら、いったい私は何のためにこんなことをしたのか、わからなくなってしまいます」


 京子はゆっくりと目を開いて、紺野を見つめた。愛おしそうに、優しいまなざしで。


「お料理が、上手なんですってね」


 紺野は止めどなく涙を流しながら、何も言えずに京子の視線を受け止める。


「唯一の心残りは、あなたのお料理が食べられなかったこと、かしら……」


「食べてください! 何でも作ります。和食でも、中華でも。だから、……死なないでください」


 絞り出すようにそう言って泣き崩れる紺野の髪を、京子は何度も何度も、優しくなでていた。


「私は、あなたに会えて、本当に幸せです」


 京子は再び目を閉じて、かみしめるようにつぶやいた。


「あの時……あなたを東京駅に捨てた時、私は一度死にました。自分の半身を、捨ててしまった気がしました。母親としての、優しさ、温かさ、そういうものを、あの時全部……。だから私は、それからほとんど笑わなくなった。ただ組織のために、一族をまとめる長としての自分しか、残っていなかったから……」


 そう言うと目を開き、なんとも切なげな表情を浮かべる。


「あの子、……亨也にも、本当にすまないことをしました。いくら謝っても、もう取り戻すことはできないけれど……」


 京子は、ゆっくりと紺野にその温かなまなざしを向けた。


「あなたに会えたことで、私はようやく一人の人間に戻れました。亨也と順也の、母としての自分に。本当に、ありがとう。生きていてくれて、……本当に、ありがとう」


「お母……」


 紺野はそれ以上、何を言うこともできなかった。ただ京子を見つめたまま、止めどなく涙を流し続けていた。


「さあ、もう泣くのはやめて」


 京子は髪をなでていた手を、紺野の頬にそっと添えた。親指でゆっくりと、その涙を拭う。


「あなたには、まだやることが残っています。自分の力を見極めるという、大事な仕事が。泣いている場合ではありませんよ」


 そう言うと、優しい表情でほほ笑んでみせる。


「あなたは、もう大丈夫。自分の足で、これからの人生をしっかり歩いていくことができる。自信を持って進みなさい。何か迷った時は、私や、美咲さんのことを思い出して。そうすればきっと、おのずと進むべき道が見えてくるはずです」


 紺野の頬に添えられていた京子の手が、まるで砂かなにかでできているかのように、静かに崩れ、風にさらわれ始めた。はっとして紺野はその手を握ったが、紺野の手から逃れるように、静かに崩れ去っていく。意識の喪失とともに張っていた物理的シールドも解け、紺野の力の放出にダイレクトにさらされた京子の体は、分子結合がほどけ、静かに無に帰り始めていた。


【さようなら、順也……】


 微かな送信テレパシーが、紺野の頭に届く。


「お母さん!」


 紺野の叫びに、京子は微かに笑ったようだった。だが、それが最期だった。

 京子の体は、吹き付ける風に崩れ、流され、跡形もなく消えていった。



☆☆☆  


 

 優子を抱えて荒野に立ちつくしたまま、寺崎は動けなかった。

 彼は思い出していた。あの夜、みどりが言っていた、あの言葉を。


『親にとって子どもは、何物にも代え難い宝なの』


 初めて紺野が神代総帥の子だと知った時、寺崎は彼女がどうしても許せなかった。たとえどんな理由があろうとも、紺野を無責任に遺棄し、放置した罪は重い。その思いは、みどりの言葉を聞いた後も変わらなかった。

 だが寺崎は、優子のトレースを通じて全てを知ってしまった。紺野に対して抱いていた、神代総帥の思いを。そして、紺野に対する深い愛情を。

 神代総帥が紺野に対して言った言葉。あれは、寺崎にはとても言えない言葉だった。紺野の壮絶な過去を思うと、現実に対して逃避的になったり、弱気になったりすることも、寺崎には至極当然のように思えていたからだ。現実、自分が同じ立場にあったとしたら、同じか、もしくはもっとひどいことになっていても何ら不思議はない。だからそれに対して、苦言を呈する気にはなれなかったのだ。

 だが、神代総帥は違った。母として、親として、紺野の将来を思い、時には叱責しっせきし、時には教え、時には導きながら、彼を見事に立ち直らせた。しかもその体に、死ぬほどの傷を負いながら。

 そうして神代総帥は死んだ。紺野を守って、母親として。


――とてもじゃねえけど、かなわねえな。


 寺崎はうつむいて自嘲気味に笑った。引き上げられた口の端が微かに震え、涙が一滴、その頬を伝い落ちる。

 その間、裕子は何も言わなかった。じっと黙ったまま、一部始終を淡々とトレースしていた。

 だがその時、優子は突然、ぽつりとこう送信してきた。


【……来ルゾ】


 寺崎ははっとして顔を上げた。紺野の周囲が、再び目映く輝き始めている。

 寺崎は瞬ぎもせず、白く輝く紺野を見つめた。



☆☆☆



――始まる。


 涙にぬれた顔を上げ、亨也は沙羅を抱え直した。

 感傷に浸っている余裕などない。京子は母として、見事にその責務を全うした。今度は自分が兄弟として、その責務を果たす番だ。紺野の力を抑えきり、解放を成功させる責務を。

 亨也は深く息を吸い込んだ。紺野の解放は八十八%で止まったままだ。この状態なら、何とかシールドを保ちながら、自分の体も守っていられる。だが、ここからが本番だ。計算では、紺野の力は五パーセントほど亨也の力を上回る。その五パーセントを、命を賭けてカバーしなければならない。でなければ、沙羅の苦労も、京子の死も、全てが無に帰してしまうのだ。

 亨也の体が、目映く輝き始める。亨也の命を賭けたエネルギー波が、遊休地全体を静かに覆い尽くしていった。



☆☆☆  



 紺野は動かなかった。両膝を付き、背中を丸め、うつむいたままでいる。

 頬を止めどなく流れ落ちる涙だけが、ぱたぱたとその膝にしたたり落ちていく。

 紺野の手には、先ほどまで握っていた京子の手の温もりが、まだ微かに残っている。握りしめた拳をそっと開くと、細かい砂のような彼女の残骸が、キラキラ輝きながら風に散っていく。

 紺野は再びその手を握りしめると、目を堅くつむる。彼女は死んだのだ。自分のために。


――また、殺した?


 唇を血が出るほど強くかみしめる。しかもそれは他でもない、ようやく会うことのできた自分の母親なのだ。どうして自分だけ、のうのうと生きているのか。今すぐに死ぬべきじゃないのか……そんな暗い思いに、心がとらわれ始めた時だった。

 紺野の頭の中に、先ほどの京子の言葉が鮮明によみがえった。


『母親は、子どもに生きてほしいんです』


 紺野は目を見開くと、じっと目の前に広がる荒れ地を見つめた。


『あなたが生きることで、私も本当に救われる。もしここで、あなたが死んでしまったら、一体私は何のためにこんなことをしたのか、わからなくなってしまいます』


 膝の上で堅く握りしめられた両手が、微かに震えている。


『生きてください。身を挺して亡くなった、美咲さんのためにも、東京で待っている、みどりさんのためにも……』


 生まれ変わった自分を堕ろさず、産んでくれた美咲。まるで本当の息子のように、自分を愛してくれたみどり。そして、自分を産み、今回、身を挺して自分を守ってくれた、京子……。


――僕には、三人も母親がいる。


 紺野の全身を、何とも言えない温かい思いが満たした。

 今まで自分は、孤独だと思っていた。肉親と呼べるものはなく、他人に対しても心を開かず、身の回りのことも人に頼らず、一人で生きてきたつもりだった。

 だが実際は、自分はたくさんの人に支えられていたのだ。寺崎たちと出会ってからはもちろん、出会う前も、他の誰かに支えられ、生かされながら存在してきた。そのことに、今初めて思い至ることができたのだ。


『あなたには、まだやることが残っています。自分の力を見極めるという、大事な仕事が。泣いている場合ではありませんよ』


 紺野はゆっくりと顔を上げた。

 その時だった。遊休地全てを取り囲むように、亨也の気が張り巡らされた気配を紺野は感じた。気の波動を通じて、亨也の思いがダイレクトに伝わってくる。


【解放してください、紺野さん。思い切って、全てを……】


 紺野の頭に、沙羅の言葉がよみがえる。


『恐れないで、解放して。絶対、総代は抑えてくれるから……』


――神代さん。


 紺野の脳裏をよぎる、亨也の笑顔。この世でただ一人の、自分の兄弟。


――僕は、一人じゃない。


 紺野の頬を涙が伝う。だが、それは悲しみの涙ではなかった。その証拠に、彼はほほ笑んでいた。何とも言えない、優しい、穏やかな表情で。


――もう、怖くない。


 紺野は深く息を吸い込んだ。その傍らには、いつの間にか京子が立っている。その隣には、亨也。寺崎と、みどりの姿もある。亡くなった美咲も。沙羅もいる。玲璃の姿もある。彼らは紺野の側に寄り添い、その手を取り、肩を寄せ、温かい目で彼を見守っている。


――ありがとう。


 紺野が息を吐き出した瞬間。彼の体は目もくらむような目映い光に覆い尽くされた。

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