6月22日 7
紺野は、泣いていた。
五歳だったあの時。風に舞った似顔絵を取り返そうと、生まれて初めて転移した彼を待っていたのは、周囲の冷たい視線と、絶対的な孤立だった。
――どうして、みんな行っちゃうの?
昨日まで優しく相手をしてくれた、お兄ちゃんお姉ちゃんたち。遊びに誘ってくれた、友だちたち。まるで自分の子どものように抱き留めてくれた、温かい保母の手。それらが、ゆっくりと遠ざかっていく。時折、冷たい視線を彼に向けながら。
――待って。
立ちあがって追いかけようとする紺野の足首を、誰かの手がつかんだ。
はっとして振り向くと、あの警官が倒れ伏した上半身を起こし、血だらけの顔を悲しげにゆがめて、紺野をじっと見つめているではないか。彼の大きな左手は、紺野の右足をしっかりととらえている。
息をのんだ紺野の足を、警官が自分の方に引き寄せる。バランスを崩した紺野は床に倒れ込み、そのままずるずると引きずられていった。
『死ね』
警官の抑揚のない声が、紺野の頭に響く。はっとする間もなく、左足にも、何者かの手がかけられる。恐る恐る目を向けると、血を流しながら自分を恨めしそうに見つめる数え切れないほどの人々の姿が目に入った。
紺野は、もう抵抗しなかった。そのままずるずると、黒く冷たい地べたを引きずられていった。その間にも横合いから何本もの手が伸び、紺野の足や背中、腕や髪をつかんで、真っ暗な世界の方へ有無を言わせず引きずりこんでいく。
真っ暗な世界の入り口には時折稲妻が閃き、内部にうごめく黒い影には凝縮されたエネルギーが充満している。あの中に入れば、一瞬で分子結合が解け、自分の存在は無に帰すだろう。紺野はもはや、一切抵抗しなかった。早くそこに行き着きたいような気さえしていた。
その時だった。
引きずられ、力なく頭上に投げ出されていた紺野の手首を、誰かの手がしっかりと掴んだのだ。
誰のものか分からない、あたたかく、柔らかな手。紺野がはっとして顔を上げた時、その手は紺野の体を力強く引き上げ、抱き上げていた。彼をつかんでいた何本もの手は、いつの間にか霧のようにどこかに消え失せている。
そのまま何も言わず、その手の持ち主はきつく紺野を抱きしめた。ほのかに漂う甘く、優しい香り。紺野はその胸の温かみに、絶対的な安心感を生まれて初めて覚えた。
――誰?
五歳児の姿の紺野は、恐る恐る顔を上げ、その顔を見ようと目を開いた。
☆☆☆
そこは先ほど同様、アリゾナの荒野だった。相変わらず暗雲がたれ込め、風が吹き荒び、稲妻が閃く。
紺野は自分が誰かに抱きかかえられていることに気がついた。一瞬、沙羅かと思ったが、どうも違うようだ。女性は女性だが、白髪交じりのその髪からは、もっと年を取っている印象をうける。
「やっと……会えました」
その女性は、消え入りそうな声でささやいた。聞いたことのない声だったが、なぜだか紺野は、懐かしいような、不思議な気持ちになった。
紺野は恐る恐る女性の顔に目を向けた。
紺野より幾分背の低いその女性は、うつむき加減で目を伏せていたが、紺野の目線に気づくと、ゆっくりとその顔を上げた。
老齢に入りかけてはいるが、通った鼻筋と凛としたまなざしが印象的な、美しい女性だ。一つにまとめた白髪交じりの髪は少々乱れていたが、若かりし頃はかなりの美貌だっただろうと思われた。
女性はその大きな目に涙をためてじっと紺野を見上げていたが、やがて震える手をのばし、戸惑ったように立ちつくす紺野の髪を、そっと撫でた。愛おしそうに、優しく、ゆっくりと。その手が頬に移動する。彼女の手はいくぶん冷たかったが、紺野は不思議と嫌な感じはしなかった。
「本当に、つらかったでしょう」
震える声が発せられると同時に、女性の両眼から、せきを切ったように涙があふれた。
「三十三年間、よくたった一人で、ここまで頑張ってきましたね。今まで何もしてやれなくて……本当に、申し訳ありませんでした」
「あの……」
戸惑ったように口を開きかけた紺野に、女性は弱々しくほほ笑んで見せた。
「本当にそっくりですね。亨也に」
その言葉に、紺野ははっと目を見開いた。
「あなたは、……」
言いかけた言葉を飲み込んだ紺野を、女性は悲しい目でじっと見つめていたが、やがて視線を足元に落とすと、かすれた声を絞り出した。
「私は、神代京子……あなたの、母親です」
京子をぼうぜんと見つめながら、紺野は立ち尽くしていた。何も言えなかった。何も考えられなかった。ただ彼女を見つめているほかはなかった。
京子はそんな紺野に、つぶやくように語りかけた。
「私は三十三年前、……あなたを捨てました」
京子の目からあふれた涙が、頬を伝い、顎を伝い、音を立てて足元に滴り落ちる。
「神代の総代に双子が生まれれば、どちらかは必ず殺されてしまう。私には、それがどうしても耐えられなかった。でも、その後、一人で生きていかなければならないあなたのことを、その時私は何ひとつ考えていなかった。無責任に遺棄してしまって、本当に申し訳ありませんでした。謝ってすむことではないとわかっていますが……」
京子は震える口元を手で覆うと、肩を揺らして嗚咽した。紺野は黙ったまま、そんな京子を見つめることしかできなかった。
「神代の子は本来、小さいうちにその力を解放しなければなりません。そうしなければ、やがてそのゆがみが現れ、その人間は力に飲み込まれてしまう。それをするのは、その親の役目です。でも私は、あなたにそれを行わなかった」
嗚咽に言葉を奪われながら途切れ途切れにこう言うと、京子はようやくその顔を上げた。涙にぬれた目で、まっすぐに紺野を見つめる。
「だから今、その役割をさせてください。親としての役目を、私に……」
紺野は、泣きぬれた京子の顔を黙って見つめていたが、やがて目線を落とすと、小さく首を横に振った。
「もう、いいんです」
京子はうつむく紺野の、風に吹き散らされる茶色い髪をじっと見つめた。
「僕は、生きる資格のない人間です。僕が生きていると、それだけでたくさんの人に迷惑をかける。そればかりか、たくさんの人が死んでしまった。もうこれ以上、生きていたくないんです。あなたは、生かしてくれようと思って僕を捨てたのでしょうが……」
紺野は目線を上げないまま、京子に向かって頭を下げた。
「すみません。僕はその気持ちに、応えることができない」
京子は目線を落とすと、しばらくの間何も言わなかったが、やがて静かに口を開いた。
「私は、あなたに何もしてこなかった。だから今さら、あなたに何を言っても空疎に聞こえてしまうかもしれない。……でも、私はそれでも、あなたの母親なんです」
毅然と顔を上げ、真っすぐに紺野を見つめる。
「だから、……言わせてください」
次の瞬間、京子の右手が空を切った。
紺野がはっとする間もなく、京子の右手は紺野の頬を思い切りひっぱたいていた。乾いた音が、荒涼とした平原に響き渡る。紺野は勢いで、少しよろけたようだった。顔を横に向けたまま、ぼうぜんと斜め下を見つめている。
「しっかりしなさい、順也!」
紺野ははっとした。人からその名前で呼ばれたのは、本当に久しぶりだったのだ。
京子は涙でうるんだその目を見開き、まるでにらみつけるように紺野を見据えていた。
「人が生きるのに、資格なんて必要ありません。意味も、必要ありません。その人がこの世に生を受けたのは、まさに生きるためなんです。与えられた命を、精いっぱい生きるためなんです。それ以外の何物でもない」
京子は厳しい表情でそう言うと、少し言葉を切る。
「私だって同じです。亨也だってそう。今回彼は、総代ではないという結果がでたけれど、私はそれで彼が死ぬべきだとはこれっぽっちも思わない。彼は医者として、今まで多くの人々を助けてきた。これからだって、きっと人々の役に立つでしょう。存在する価値も、意味もある。……ただ、それは彼自身が自分の努力で身に付けてきたもの。生まれた瞬間は、誰しも皆同じです。生きる意味や、自分の価値がほしいのなら、生きていく中で、自分が、自分の力で見つけるしかないんです。それが見つけられないから性急に死ぬだなんて、情けない。しっかりしなさい!」
紺野は、ぼうぜんと斜め下を見つめながらその言葉を聞いていた。人から叱責されたのは、生まれて初めてだった。元来大人しい性格だった上に、彼は今まで他人と関わらないように生きてきたわけで、ある意味当然かもしれない。
紺野は、ゆるゆると京子に目を向ける。彼女の表情は険しく、笑顔はない。だが、なぜかその目には、優しい光が宿っているように彼には思えた。
「あなたは、もう一人じゃないでしょう」
京子はそう言うと、いくぶん語調を和らげた。
「あなたを助けるために、亨也も、そして沙羅さんも、できる限りのことをしようとしている。東京には、あなたの帰りを待っている人が何人もいる。あなたの生きる意味が、そこにあるんじゃありませんか?」
紺野の脳裏に、先日の光景が過ぎる。涙を流しながら自分を抱きしめてくれたみどり、そしてその傍らにたたずんでいた寺崎の姿と、自分に向かって語りかけてくれた、あの言葉が。
『おまえも帰りてえんだもんな。生きてえんだもんな。……そのために、努力するんだもんな』
「あなたが死んで、亡くなった人たちが生き返るんですか? そんなこと、あるわけがない。それどころか、あなたが死ねば、悲しむ人が何人もでてきてしまうんですよ。あなたが死んでも、何の解決にもなりません」
京子は言葉を切ると、慈愛に満ちた温かいまなざしを紺野に注ぐ。
「あなたは、生きるべきなんです。生きて、自分にできることを見つけなさい。あなたにしかできないことが、きっとあるはずです。そうして誰かの役に立つことで初めて、亡くなった人たちに報いることができる。あなたの生きる意味も、きっと見つかるはずです」
紺野はその言葉を聞きながら、嗚咽していた。何も言えなかった。ただ、涙が止まらなかった。
京子は言葉を切ると、肩を震わせてうつむく紺野をしばらくの間じっと見つめていたが、やがてつぶやくように、こんなことを口にした。
「私はあなたが生まれ変わった時のいきさつを聞いて、本当に驚きました」
紺野は京子が何を言おうとしているのか分からず、涙にぬれた顔を上げてじっと彼女を見つめた。
「あなたを産んでくれた、紺野美咲さん。彼女は何の心当たりもなく、突然妊娠したそうですね」
紺野ははっとしたように呼吸を止め、堅く両手を握りしめる。だが京子は、淡々と言葉を続けた。
「一番驚いたのは、本人でしょう。身に覚えのない子どもを身ごもったのですから……。でも、そんなことを言っても周囲は信じてくれるはずもない。孤立して、悩んで、想像を絶するような苦しみだったと思います」
つぶやくようにそう言うと、京子はしばらくの間言葉を切ったが、やがてその顔を上げると、まっすぐに紺野を見つめて、こう言った。
「でも、彼女はあなたを堕ろさなかった」
紺野は瞬ぎもせず京子を見つめた。紺野は今まで考えたこともなかったが、言われてみれば確かにそうだった。
京子は静かに言葉を継いだ。
「彼女の気持ち、私は何となく分かるんです。全く心当たりのない、得体の知れない子ども……それでも自分のお腹の中で動いて、確かに生きているんです。最初は戸惑ったかもしれませんが、きっと彼女は覚悟を決めていたんだと思います。この子を産んで、共に生きようと。だからこそ彼女は、あなたに素晴らしい名前をつけてくれていたんでしょう」
京子の両眼から、せきを切ったように涙があふれた。
「私は美咲さんに、本当に感謝しています。よくぞこの子を産んでくださったと。だからこそ、私はあなたに死んでほしくない。美咲さんのためにも、何があっても生きてほしいんです」
紺野は下を向いて、肩を震わせていた。前髪に隠された目の辺りから、次々に涙の滴がこぼれ落ちていく。
「あなたが階段から落ちて意識のない時、みどりさんは私にこう言いました。あの子はきっと大丈夫、あの子はもっと幸せにならなきゃいけない、そのために、あの子は生まれ変わったんだと……」
京子は途切れ途切れに言葉を継ぎながら、止めどなく涙を流し続けていた。
「私はそれを聞いた時、本当に嬉しかった。赤の他人であるみどりさん、しかも彼女は、あの事件で最愛の夫と子どもを失っている、被害者です。その彼女が、そこまであなたのことを思っていてくれる、そのことが本当にありがくて、……嬉しかったんです」
紺野は言葉もなく涙をこぼしながら、ただ何度も何度もうなずいていた。
京子は震える手を差し伸べると、おずおずと紺野の背中にその手をまわし、うつむいて涙する紺野を、そっと抱きしめた。
温かいぬくもりと優しい香りに包まれながら、紺野は嗚咽していた。今まで抑えていた感情が一気に吹き出して、消えていくような気がした。自分は生きていていいんだ、存在していていいんだと、生まれて初めて心から思えた瞬間だった。
「恐れずに、解放してごらんなさい」
紺野を抱きしめながら、京子は優しくささやきかける。
「あなたのことを、たくさんの人が支えてくれている。そのことを思えば、怖くなんかなくなるでしょう。絶対に大丈夫です。あなたはきっと、やりきれる」
京子の胸に抱かれながら、紺野は小さく、でもはっきりとうなずいたようだった。
紺野は怖ず怖ずと涙にぬれた顔を上げて京子を見た。その人は、三十三年目にして初めて会うことのできた、紛れもない自分の母親だった。
紺野は遠慮がちに、小さな声で呼びかける。
「……お母さん」
紺野を見つめる京子の目から涙があふれ、あとからあとからその頬を伝い落ちた。
「順也……本当に、大きくなりましたね。会えて、よかったです」
二人はもう一度、かたく抱き合った。
☆☆☆
――そうだ、思い出した。
涙を流しながら、亨也は何度もうなずいた。
あの時。底知れぬ恐怖にとらわれ、力を解放しきれずに自分に力を向けかけた時。その力を全身で受け止め、自分を守ってくれた人がいた。その人は優しく自分を抱きしめながら、あの時、確かにこう言ったのだ。
『恐れずに、解放してごらんなさい。あなたならきっとできる』
それは確かに神代京子……その人だったのだ。
亨也は今まで、京子とは距離を保ってきた。神代家の総帥として君臨し、時として家族の情愛すら無視しながら、一族の長としてその責任を全うしてきた京子。彼女は亨也に対しても完璧を求め、厳格に接してきた。受容的で優しい母と言うよりは、拒絶的で厳しい父と言った印象が強かった。
そんな彼女に、亨也は母というより、一族の長として対してきた。それはある意味、受け入れられない自分を守ろうとする防御反応だったのかもしれない。京子自身、亨也とは意識的に距離を置いていた気がする。今考えるとそれは、あの時捨ててしまったもう一人の子どものことが、常に頭にあったせいかもしれない。母はいつも、自分の向こうにいる誰かを見ているような気がしていた。だから亨也は、あの家を出たかった。早く自立して、母親を見返したかった。というより、振り向いてほしかったのかもしれない。自分という人間を、認めてほしかったのかもしれない。
だから今、亨也は初めて母親に認められた気がしていた。
『総代ではないという結果がでたけれど、私はそれで彼が死ぬべきだとはこれっぽっちも思わない。彼は医者として、今まで多くの人々を助けてきた。これからだって、きっと人々の役に立つでしょう。存在する価値も、意味もある』
母親が自分のことを、これほどまでに肯定的に捉えているなどと、亨也は考えたこともなかった。嬉しかった。自分ががむしゃらにやってきたことが、初めて認められたような気がしていた。
――でも、あの時。
亨也の胸を、暗い予感がよぎる。
――あの後、母はしばらく家には帰ってこなかった。出張先で、体調を崩したとあの時は言われ、自分はそれを疑いもしなかった。
だが、もしかしたら、あの時彼女は、入院していたのではないだろうか。亨也が自分に向けたあの力を受け止め、何らかの傷を負っていたのではないだろうか。
――母さん!
背筋を駆け上がる悪寒に慄然としつつ、亨也は抱き合う二人に意識を集中した。シールドが一瞬、おろそかになるのではないかと思うほどだった。