6月22日 6
紺野は吹き荒ぶ風に向かって、うつむき加減で立ち尽くしていた。
『恐れないで、解放して』
頭の中に、先刻の沙羅の言葉がよみがえる。
紺野は堅く目をつむり、両手の拳を堅く握りしめた。呼吸を止め、唇を血の出るほどきつくかみしめると、思い切って意識を解放する。
体全体から大量の白い気がほとばしり出ると同時に、拍動と連動するようにぞっとするほど高いエネルギーを帯びた衝撃波が、全方位に拡散する。
そのあまりにも高すぎるエネルギー量に、放出をためらった紺野が、とっさに解放した意識を引き戻そうとした、刹那。
頭部が粉砕されたかと思うほどの激痛が、紺野を襲った。痛覚として認識することがかなわないほどのその激烈な感覚に、生まれて初めて紺野は声を上げた。
「あ……!」
呼吸が止まり、視界がぼやけ、寸刻意識がとんでがくりと膝をつく。数分間続いたわけではないので意識を失うことこそなかったものの、あり得ない痛みだった。地面に付いた両手にパタパタと滴り落ちる涙を見て、初めて自分の目から涙が流れ落ちていたことに気づく。
紺野はしばらく、地面に両手をつき、四つんばいのような姿勢をとったままで動かなかった。荒い呼吸で肩を揺らしながら、地面についた手のひらを土くれごと、きつく握りしめる。
――こんな力を、出していいんだろうか。
沙羅と亨也の様子をトレースしようと試みるが、なぜかそれはできなかった。彼の力は、今は解放することにしか反応しなくなっているようだ。恐らく解放しきれなければ、コントロールを失ってしまうだろう。直感的に、紺野はそう確信した。
だが、彼は再び意識を集中することができなかった。
――怖い。
おそるおそる、周囲を見渡す。アリゾナにある遊休地と言っていた。どういった風景の場所だったのかは分からないが、ここまで何もない、荒涼とした風景ではなかったはずだ。先ほど放出した衝撃波は、触れたものを一瞬で分解するほどのエネルギーを持っていた。今まであんなものを出し続けていたなんて、考えただけで背筋が凍るような気がした。
『もう、限界なの』
そう言って疲れた表情で笑った、沙羅。あんなぼろぼろの姿になったのは、恐らく自分の力にさらされ続けたために違いない。移動さえできないほど憔悴しきったあの姿に、紺野は胸が張り裂けるような思いがしていた。
紺野は震える手で、自分の肩を抱いた。
その時、ふと、自分が見慣れないパーカーを羽織っていることに気づいた。恐らく、亨也のものだろう。気候を考えて、自分に着せかけてくれたに違いない。大きいので、手が半分、隠れてしまっている。
『あなたが幸せになることを、総代は何よりも願ってる』
沙羅の言葉とともに、脳裏に浮かぶ亨也の笑顔。彼は今、自分のために死ぬ気でシールドを張り続けてくれている。何よりも大切な、この世でただ一人の兄弟である、彼が。
その時。紺野はある事実に気づいて、はっと息をのんだ。
あの時、確かに沙羅はこう言ったのだ。
『総代は死ぬ気よ。あなたが神代家を継ぐ人間だから、自分はどのみち死ぬからって言って……』
――僕が、神代家を継ぐ、人間?
紺野は、顔から音を立てて血の気が引くのを感じた。
以前、何物かに拉致されて殺されかけた時、放送のような声は確かこう言っていた。総代の地位にあたる者にもし双子が産まれた場合、総代でない方の者は即座に命を絶たれる掟だ、と……。
――じゃあ、神代さんは。
背筋を駆け上がる悪寒に、紺野は息をのんで身をすくませた。肩を抱えたその手が、端から見てもはっきり分かるほど、わなわなと震え出す。
彼の脳裏に、亨也の言葉が次々と思い出されてくる。
『私はこれ以上、あなたにつらい思いをしてほしくない。これまで散々つらい目に遭ってきたのだから。せめてこれからは、できるだけ楽をしてほしい。そのための手だてを講じることが、自分にできるあなたへの償いであり、兄弟である証だと……私はそう思っているんです』
涙を流してそう訴えた、あの横顔。
『ただのご飯とみそ汁、焼き魚ですけど。料理上手の紺野さんに食べさせるのは、厳しいかな』
そう言って恥ずかしそうに笑っていた、あの笑顔。
『私に、こんな弟がいたなんて。頭がよくて、足も速くて、本当に優しくて……。あなたは私の、自慢の弟ですよ』
兄弟だと初めて知った、あの時。亨也は自分のことを、弟だと言っていた。自分も、そう思っていた。願わくは、そうあってほしかった。そうすればあの人の立場も、これほどまで揺らがずにすんだのだから。
――嫌だ。
紺野の目から、涙があふれた。あとからあとから、止めどなく流れ落ちる。
――もう嫌だ、こんなことは。
紺野は頭を抱えて嗚咽した。どうして、自分のために誰かが死ななければならないのか。自分が存在するために、どうしてここまで大きな犠牲をはらわなければならないのか……!
――なんで自分なんか、存在したんだろう。
自分が生まれなければ、亨也も、沙羅も、そしてあいつも、こんなに苦しまずにすんだのだ。何より、あの警官や、倒壊で命を失った三百八十四人の人々、そして紺野美咲も、むげにその命を落とすことはなかったのだ。
――消えたい。
頭を抱えていた手をおろし、じっと見つめてみる。細く長いその指に、血が通っているのが分かる。どうして自分には、こんな血が通っているんだろう。他人を傷つけずにはいられないような、恐ろしい血が。
――死ぬんだ。
紺野はゆるゆると顔を上げた。そうしてしばらくの間、涙にぬれた目でぼうぜんと前方を見ていたが、やがてその目を、ゆっくりと閉じた。
☆☆☆
亨也は、必死でシールドを張りながら、為す術もない自分の無力さをひしひしと感じていた。
今の自分は、シールドを張るので精いっぱいだ。せいぜい、時折様子をトレースする程度の余力しかない。もし今、彼に送信で語りかけでもしようものなら、シールドは弾け、アメリカ大陸は一瞬で消滅してしまうに違いない。それほどまでに、ギリギリの状態だった。転移で彼のそばに行くことはおろか、沙羅を抱いて歩いて彼の側に行くことすらかなわない。運を天に任せ、ただ黙って紺野を見守る以外、今の享也には成す術がなかった。
――生きて! 紺野さん!
亨也は堅く目をつむり、心の中で叫んだ。自身の無力さを、紺野にわびながら。
☆☆☆
【エネルギーヲ、自分ニ向ケル気ダ】
寺崎は顔から血の気が引くのを感じた。さっきからすでに全速力で走っているが、まだ紺野の姿は見えない。
「あと、何キロだ⁉」
走りながら寺崎が叫ぶと、腕の中の優子はすぐに答える。
【アト、一キロメートルダ】
「くっそぉ、……間に合うか⁉」
砂ぼこりを切り裂いて荒れ野を走り抜ける寺崎のはるか前方に、白い塊のようなものが見え始める。紺野の周囲に集積する、白いエネルギー波の塊が。
――やめろ、紺野!
吹き付けてくる風に堅く目をつむり、歯を食いしばる。結局自分は、紺野の心の奥底にある悲しみをいやすことなどできなかった。それほどまでに、彼の傷は深かったのだ。そんなこと、分かりきっていたはずだったのに……!
寺崎は出せる限りのスピードで足を運ぶ。だが、白い気は時折その表面に稲妻のような光を走らせつつ、渦を巻いてその密度を増し続ける。
そして白い渦の中心に、ようやく米粒大の人影が見えた時。
人影の周囲をゆっくりと周回していた白い気が、ぴたりとその動きを止めた。
次の瞬間、周囲に渦巻いていた全ての気が、中心に向かって一気に集積する。
目のくらむような閃光が薄暗い荒野を昼よりも明るく照らし出し、雷鳴のような大音響と地響きがあたり一帯を揺るがす。
「紺野ぉ!」
寺崎の叫びは、その大音響にかき消された。巻き上がる土煙の中を、寺崎はそれでもその人影の方へ、ただ一心に足を運び続けた。