6月22日 2
コロラド高原は、午後一時。抜けるような青空の下、荒涼とした一面の岩山に乾いた風が吹き渡る。情け容赦もなく吹き付ける風に、沙羅は目を細めて吹き散らされたサラサラの髪をかき上げた。
沙羅は吹き飛ばされないように注意しながら持ってきた毛布を原野に敷き、そこに亨也のパーカーを広げた。亨也が腕に抱いた紺野をその上にそっと寝かせると、沙羅がそのパーカーを着せかける。いかに初夏とはいえ、寝間着のままでは、標高千メートルにある高原の風はあまりに寒いからだ。強風に吹き散らされた紺野の髪が、閉じた目の上をなで回しているが、固く閉ざされたその目は開けられる気配もない。既に向こうを出る時、麻酔薬をかがせておいたのだ。
その間に亨也は、カバンから薬の入った瓶を取り出し、注意深く注射器に薬を注入する。準備ができると、亨也は腕時計に目をやった。
「今、日本時間で五時くらいだな」
しばらく考えていたが、やがて小さくうなずいた。
「早めにやっておいた方がいいだろう。間隔が縮まる可能性もある。この薬は二,三時間は効果が高い。……注射しておこう」
亨也は消毒薬をガーゼに浸し、紺野の腕を拭くと、注射器の針を刺した。ゆっくりと、薬を注入する。
「この薬、あの錠剤の何倍の効能なんですか?」
沙羅がその様子を見守りながら、緊張したような面持ちで問いかける。
「先日彼が飲んだ薬で考えると、……そうだな、三倍くらいだ」
「三倍……」
沙羅はつぶやいた。それが強いのか弱いのか、はたまたちょうどいいのか、沙羅にもよく分からなかった。沙羅の困惑が伝わったのか、亨也は苦笑めいた笑みを浮かべた。
「効能としては少々弱い。紺野という男の性格を考えると。ただ、あまり大量に使うと、中枢神経抑制作用が過剰に増強されて、呼吸が止まる恐れがある。抗けいれん剤も入れているしね」
そっと針を抜くと、沙羅が渡した脱脂綿で紺野の腕を押さえる。
「三倍が、ギリギリのラインなんだ。一度に使う最大量としては。そのさじ加減が、果たしてどういう結果を招くかは微妙だけどね」
亨也はそう言うと、穏やかな表情で眠る紺野の顔を見つめた。
「注射だから、すぐに効き始める。ひょっとしたら、発作が早まるかもしれない」
沙羅は手早く周囲の薬品類をカバンにしまうと、立ちあがった。亨也はその間も眠っている紺野の顔を見つめて続けていたが、やがてゆっくりと立ちあがった。
「じゃあ、行くか」
沙羅は黙ってうなずいた。
「ここは遊休地のど真ん中だ。私は、一キロメートルほど彼から離れたところでシールドを展開する。中心付近から離れるわけにはいかないんだ。反対側までシールドが届かなくなってしまうから……」
亨也は言葉を切ると、改めて沙羅を見つめる。
「本当に、私と一緒に来るのか?」
沙羅は、真っすぐに亨也を見つめ返しながら、みじんのためらいもなくうなずく。
「君の能力なら、遊休地の外からでも操作は大丈夫だ。今からでも遅くない。君は外に……」
「そのお話は、もうすんだはずです」
沙羅は亨也の言葉をさえぎると、艶やかに笑った。
「私は総代と一緒に行きます。……行かせてください」
亨也は複雑な表情で沙羅を見つめていたが、やがて観念したように小さく息をつくと、うなずいた。
「……分かった」
姫を誘う王子のごとく、亨也は優しく沙羅の手を取る。誘われた姫さながらに、沙羅はほほ笑みながらその手を預ける。
二人の姿は、荒野を渡る風にふき消されたかのように消失した。
☆☆☆
荒涼とした荒れ野が、眼前にどこまでも広がっている。寺崎は砂ぼこりをはらんで吹き付ける風に目を細めた。
「ここは、どこなんだ?」
【アリゾナノ、神代財団ガ所有スル遊休地ラシイ。ワレワレハソノ、一番南ノ端ニイル】
送信してから、微かに赤く発光する。
【今、神代総代ノ能力発動ヲ感知シタ。ヤツラハ、中心カラ一キロメートル程離レタ所ニイル】
それからしばらく、じっと意識を集中するように黙りこむ。
【……アイツハ、ド真ン中ニイル】
寺崎はごくりととつばを飲み込んだ。
「じゃあ、準備OKってところか」
【ソノヨウダナ】
「どうする?」
【取リ敢エズ、今ハ待ツシカナイ。下ロシテクレテモ構ワナイ】
「そっか」
下ろそうと腰を屈めかけた途端、強い風が吹き付けてきた。寺崎は気候的なことを何一つ考えていなかったため、Tシャツにジーンズ姿で少々肌寒い。見ると、優子も薄いシフォンワンピースにカーディガン一枚である。寺崎は考えこむように動きを止めてから、優子を抱えたままで腰を下ろした。
【ドウシタ?】
「寒くねえか? おまえ」
優子の答えはなかったが、寺崎は恥ずかしそうに笑ってこう言った。
「俺、こっちの気候なんか全然頭になくってさ、こんな格好できちまったから、ちょっと寒くて。おまえのこと、このまま抱えててもいいか? おまえも体温下がっちまうし」
優子本体の表情は変わらず、大きな目をくるくるさせているだけだったが、何となく寺崎は彼女が苦笑したような気がした。
【……構ワナイ】
「悪いな」
寺崎はちょっと頭を下げると、遠くに目を凝らした。いくら目のいい寺崎でも紺野の姿など見えるはずもなく、ただ砂ぼこりの舞い跳ぶ荒涼とした大地がどこまでも広がっているばかりだった。
「そういえばさ、出流ちゃんからは完全に撤退したのかよ」
【アア】
優子がうなずく気配がした。
【記憶モ、完全ニ抜イテオイタ。アノ子ハ、アタシノコトハ何モ覚エテイナイ】
寺崎は何だか、寂しげな雰囲気を感じたような気がした。
「おまえ、それでよかったのか?」
【エ?】
優子は寸刻黙り込んだが、やがてこう返してきた。
【当然ダ。覚エテイテモラッテハ困ル】
「そりゃ、そうかもしれねえけど」
寺崎は心なしか優しいまなざしを、くるくると視線を泳がせている優子に向ける。だが優子はその視線には答えず、ただあらぬ方向を見つめているだけだった。
そんな優子に向かって寺崎は、ふと思い出したようにこんなことを口にした。
「……俺、十六年前のあの事件は、紺野の意識を通して見せてもらった」
優子は相変わらずくるくると視線を泳がせている。寺崎は言葉を続けた。
「おまえ、あのあと、どうやって今まで生きてきたんだ? そんな体で、たいへんだったんじゃねえか?」
優子はしばらくの間、何の反応も返さなかったが、やがてぽつりとこんな送信をしてきた。
【コンナ体ニナッタノハ、アノ事件ノ三週間後ダッタ】
寺崎はじっと優子を見つめた。
【高熱ガ一週間続イテ、脳ガ痙攣ヲ起コシタ。恐ラク脳内デ、神代ノ特性ガ魁然ノ特性ヲ凌駕シタンダロウ。ソレカラハズットコノ状態ダ】
寺崎は優子がふっとため息をついたような気がした。
【マア、コノ日本トイウ国ハ、取リ敢エズアタシノヨウナ体デモ、生カシテオイテモラエルダケマシカモナ。ソノ代ワリ、楽シミナンテ何モ無カッタケドナ】
「おまえ、もったいねえよな」
【……何ガ?】
寺崎はちょっと肩をすくめて笑った。
「頭いいんだもん、おまえ。数学とかすらすら答えてたの、出流ちゃんじゃなくておまえだろ。あんな短い期間で、よく理解できるよな」
そう言うと、砂ぼこりの舞う岩山のはるか向こうをじっと見つめる。
「そんなところも、紺野に似たんだろうな……あ、でも、おまえの母親もきっと頭良かったぞ。だって、総代もすげえ頭いいもん。よく考えたら、おまえってすげえ両親なんだな」
母親という言葉が寺崎から出た時、優子の感情が揺れたような気がして、寺崎は優子を見つめ直した。相変わらずくるくると忙しく視線を泳がせているその目が、心なしか悲しい色を帯びているような気が、寺崎はした。
「……紺野さ、言ってたんだ。裕子は自分にとって、全てだったって」
反応はなかったが、優子の意識は寺崎の言葉にじっと聞き入っているようだった。
「こんなことになったのは、全部自分のせいだって。裕子は、何も悪くねえって……。でも俺は違うと思った」
【何ガダ?】
「俺は男だから、紺野の気持ちの方が分かるんだ。裕子はあいつにとって、本当に全てだった。だからこそああいう行動に出たんだ。あいつはそこんところすげえ反省してたけど、俺は無理ないと思った」
【……勝手ダナ】
寺崎は苦笑すると、うなずいた。
「確かに、勝手かもしれねえな。けど、俺としては裕子の方が許せなかった。だって、裕子は結果が分かっていながら紺野を誘ったんだぜ。しかも紺野には愛情もなく、ただ、組織への復讐のためだけに。そりゃ、紺野は死ななかったけど、あいつはそのせいで、ずっと死ぬよりつらい目にあい続けてきた。それに、生み出されたおまえだって、決して幸せと言える人生じゃなかった。そんな結果になるって分かっていながら、あんな行動に出るなんて……」
【ヤメロ!】
激しい送信が、寺崎のこめかみを貫いた。さすがの寺崎も、えぐられるような鋭い頭痛に、一瞬意識が遠ざかる。
寺崎は、自分が抱えている優子に視線を落とした。優子は表情こそ変わりがなかったが、激しい感情の揺れで、体の周囲がほのかに赤く輝いていた。
【アノ人ハ死ンダンダ。死ンダ人間ノコトヲ、悪ク言ウノハヤメロ】
その送信に、寺崎ははっとした。裕子を結果的に殺したのは、今目の前にいる、こいつ……。
「悪かったよ」
寺崎は素直に頭を下げた。
「確かにそうだな。死んだ人間のことをあれこれ言うもんじゃない。すまなかった」
優子は答えなかった。だが、赤い輝きは放出から収束に転じ、少しずつ薄らいでいるようだった。
寺崎は気を取り直すように質問の方向を変えた。
「そういえば、おまえ、なんて名前なんだ?」
優子はしばらく答えなかったが、やがてぽつりとこう送信してきた。
【……ユウコ】
「へえ」
寺崎は目を丸くした。
「母親と同じなんだ。誰がつけたんだ?」
【自分デ】
返す言葉を失って黙り込んだ寺崎に、優子はひとり言のような送信を送る。
【マダ動ケタトキ、何度モソウ言ッテタラシイ。イツノ間ニカ、勝手ニソウナッテイタ】
寺崎はしばらくの間、何とも言えない表情で優子を見つめていたが、やがてため息とともにつぶやいた。
「おまえも……つらかったんだな」
砂ぼこりをはらんだ風に髪を吹き散らされながら、優子はそれ以上何も言わなかった。