6月22日 1
6月22日(土)
乳白色の朝もやに輪郭を溶かされてぼんやりと霞んだ街が、ようやくうっすらと湿った明るさを取り戻し始める。
午前四時。人通りもなくひっそりと静まりかえったその街を、亨也はゆっくりと歩いていた。街を愛おしそうに眺めやりながら、一歩一歩、かみしめるように。
街角のポストで立ち止まると、亨也は手にしていた二通の封書を投函した。
踵を返して歩き去るその後ろ姿は、白いもやに溶けるようにかすみ、やがて遠ざかる足音ともに消えていった。
☆☆☆
寺崎は気配を消すと、自室の扉を開けてそっと廊下を通った。使い慣れたスニーカーを履くと、音をたてないように玄関の戸を開けて、外に出る。
見上げた薄暗い空からは雨こそ降っていなかったが、むっとする湿気と朝もやで、街はぼんやりと霞んでみえる。
人気のない街を、寺崎は走り出した。風のように、音もなく。
☆☆☆
エレベーターを降り、自分の部屋の前まで来ると、沙羅が玄関先にたたずんでいるのが見えた。
「紺野さんは?」
「先ほど発作がありました。四時三分です。継続時間は六分三十秒でした。今は、眠っています」
「……そうか」
亨也は靴を脱いで部屋に入ると、そっと寝室をのぞく。紺野は眠っていた。
「すまなかったね。そろそろ発作だとは思っていたんだが……」
「大丈夫です。でも、どうされたんですか?」
亨也は恥ずかしそうに笑った。
「今回のことを魁然側にも報告しておこうと思ってね。手紙を出してきたんだ。事後報告にしたいから時間差をつけたかったのと、メールだとどうにも無機質な気がしてね。あえてアナログな方法をとってみたんだ」
そう言って、ちらっと時計に目線を走らせる。
「朝一の集配にのせれば、遅くとも明日朝までには必ず届くから」
沙羅はくすっと笑って亨也を見つめた。
「ほんと、総代ってそういうとこきっちりされてますよね」
「そう?」
亨也は恥ずかしそうに笑ったが、すぐに真剣な表情に戻ると再び時計に目を向ける。
「紺野さんの次の発作は、約二時間後……午前六時前後。その時に合わせよう」
「わかりました。」
亨也は、用意していたカバンに注射器や消毒薬の瓶を詰め始めた。沙羅も立ち上がり、身支度を調え始める。
「現地の現在時刻は、分かる?」
「時差が十六時間ですから、現在、ちょうど前日の十二時です」
亨也は無言でうなずくと、再び準備にかかっていたが、突然はっとしたようにその手を止めた。
「どうなさいました?」
「一瞬、あの子どもの気を感じた」
沙羅は驚いたように目を見開いた。亨也はじっと意識を研ぎ澄ますが、気の気配は既に消えている。
「いったい何でしょう?」
「……さあね」
亨也はふっと笑ったようだった。だがそれ以上は何も言わず、再び黙々と作業に専念していた。
☆☆☆
つどいの家の前も、人通りはなく静かだった。
寺崎は息を弾ませながら、五階を見上げた。窓はどれもしっかりと施錠され、一枚たりとも開いてはいない。
だが、その時だった。一番端の窓がすっと音もなく開いたのだ。同時に意識をかすめる、赤い気の気配。
寺崎はぐっと身をかがめ、足に力を込めた。次の瞬間、思い切りジャンプして、その窓枠に音もなく跳び乗る。
靴を脱いでそっと中に入った寺崎の背後で、窓は音もなく締まった。
寺崎は部屋の中をぐるりと見回す。
六畳ほどのその部屋は、天井に無機質で巨大な医療器具らしきものが備え付けられていると同時に、女の子の部屋らしく人形や可愛らしいカーテンに飾られていて、そのアンバランスさが何とも不思議な雰囲気を醸し出していた。
部屋に設えられているベッド。その隣には、大きな銀色の車輪がついた空のバギー。ベッドには誰かが横たわっている。寺崎はそこにゆっくりと歩み寄ると、横たわっている人物の顔をのぞき込んだ。
そこにいたのは、色の白い茶色い髪の少女だった。長いまつ毛に彩られた大きな目をくるくるさせながら、薄いカーディガンを羽織り、淡い色合いのシフォンワンピースを身にまとっている。色白の肌に、それはとても良く似合っているように思えた。
【コレガ……アタシダヨ】
どこか投げやりな感じの送信が、寺崎の頭に響く。
【笑イタケリャ、笑ウガイイサ】
寺崎は、まじろぎもせず優子を眺めながら、感心したようにため息をついた。
「……驚いた」
【何ガ】
その問いに、寺崎ははにかんだような笑みを浮かべた。
「おまえ、結構かわいいな」
優子は驚いたように押し黙った。
「しかもおまえ、紺野にそっくりじゃねえか……マジで驚いた。俺、あいつが子持ちって実感がなんとなくわかなかったんだけど、おまえの顔見ると、それもうなずけるな」
寺崎は顔を優子に近づけると、小さく笑って頭を下げた。
「今日は、よろしくな」
優子はその目をくるくるさせているだけだったが、寺崎は彼女がうなずいたような気がした。
「……で、どうすればいい?」
【アタシヲ抱エテクレ】
寺崎はうなずくと、手にしていた靴を履き、優子の体の下に手を差し込んで、そっと抱き上げた。足はなえて細く、体は綿のように軽かった。
【事ガ済ムマデ、ソノママ抱エテイテクレレバイイ】
「でもさ、おまえ、その気になれば動けんじゃねえの?」
優子はいぶかしげに黙り込む。
「ほら、あん時……おまえ、クマの着ぐるみ着て、紺野の病院に来たじゃねえか」
優子は思い出したのか、ああ、とうなずいたような気配がした。
【アレヲヤルト、多分アリゾナマデトベナイ。アレダケデ、カナリ消耗スルカラ】
じっと考え込むような気配の後、ぽつりとこう送信してきた。
【今回ハ、ナルベク能力ハ温存シテオキタイ。何ガ起キルカ分カラナイカラ】
そう言って、苦笑するような気配。
【ソノバギーデ行ッテモイイガ、デコボコ道ジャ、マルデ役ニ立タナイカラ。カエッテ能力ヲ使ッテシマウ】
「なるほど。いろいろたいへんなんだな」
寺崎は納得したようにうなずくと、顔をあげた。
「じゃあ、行くか。おまえ、場所とかわかってんの?」
【コノ間、神代総代トカイウヤツカラ情報ハ得テイル】
そう言うと、ほのかな赤い輝きをまとい始める。
【サッキ、アイツノ発作ノ気配ヲ感ジタ。多分、次ノ発作ニ合ワセテクルダロウ】
「てことは、今から約二時間後か。行ってた方がいいかもな。……おまえは、大丈夫か?」
【サッキ、薬ヲ胃ニ転送シタカラ、シバラクハ大丈夫ダ】
「おまえ、実は一人で何でもできたりしてな」
【マアナ】
優子は苦笑まじりの送信をよこした。
【タダ、アンマリ能力ヲ使イスギルト、アタシノ脳ハ活動ヲ休止スル。ダカラ、ソウナル前ニカタヲツケタイ】
「……カタをつける?」
優子はそれには答えず、少し間をおいてこう送信してきた。
【ジャア、行クゾ。八千キロメートル以上アルカラ、何回カニ分ケテトブ】
「分かった」
優子と寺崎の体が、赤い輝きに包まれた、次の瞬間。二人の姿はその場からこつ然と消えた。