6月21日 3
沙羅は台所で昼食の準備をしていた。
紺野は昨日よりさらに衰弱している様子で、とても台所仕事などさせられる状態ではなかった。もちろん、本人はいつものようにやらせてほしいと言ってきたのだが、今日はさすがに沙羅がそれを断ったのだ。
流しに向かって洗い物をしていた沙羅は、突き刺すような気の放出を感知し、はっとした。
――発作だ!
急いで手を拭くと寝室に駆けつけ、扉を開ける。
その途端、放出された白い気が矢のように頭上をかすめ、はっと姿勢を低くてそれを避けると、固唾をのんで様子を見守る。
渦を巻くように沈殿する白い気の表面を時折、稲妻のひらめきのような光が駆け抜ける。その中心で、紺野はうずくまるように体を丸め、体を震わせて耐えていた。
沙羅は腕時計で継続時間を確認しながら、沈痛な面持ちで紺野を見つめる。今はただ、発作の影響で舌をかむなどの二次的な被害が起こらないようにじっと見守るほかはない。何ともつらい時間である。
紺野は堅く閉じた目の際から涙を流し、震えながらじっと歯を食いしばって耐えている。
沙羅は、この男が痛みに声を上げたりのたうち回ったりする様子を見たことがない。最初のうちは見上げたものだと感心していたが、最近、その理由が何となく分かるような気がしてきていた。
彼は今まで、頼れるものが何もなかった。甘えたり、自分をさらけ出したりする相手もいなかった。彼にとって自身は最低の人間であり、周りの者は全て彼より上位にある。だから彼は誰に対しても敬語を使い、へりくだった態度を崩さなかった。すなわち、痛みや苦しみを訴えられる相手もない。だから彼は、絶対に声を上げて他人に助けを求める態度を見せなかった。それほどまでに、彼は孤独だったのだ。
やがて、潮が引くように白い気の放出が収まっていく。
沙羅は時計に目をやった。今回は、約五分。このところ、継続時間が長くなってきているようだ。苦しみが長引く分、紺野の体力的、精神的な消耗も激しくなってきている。
――本当に、今日がギリギリね。
沙羅はベッドサイドに歩み寄り、頭を抱えた姿勢のままでぐったりしている紺野を上向きに寝かせ直した。そのやつれた頬には、涙の後がくっきりと残っている。
乱れた髪を整え、涙をそっと拭ってやると、沙羅は亨也によく似たその顔を見つめ、深いため息をついた。
☆☆☆
玄関チャイムの音に、みどりは皿を拭く手を止め、慌てて玄関に出て行った。
「はい」
扉を開けて、みどりは目を見開いた。玄関ポーチに立っていたのは、神代亨也だったのだ。
「まあ、神代先生、……」
戸惑った様子のみどりに、亨也は申し訳なさそうな笑みを浮かべて頭を下げた。
「突然すみません。みどりさんに、お話ししておかなければならないことがありまして。事前にご連絡する余裕がなくて申し訳ありません。少し、お時間をいただけないでしょうか」
「ええ、もちろん構いません。でも、お話って……」
言いかけて、みどりははっと目線を上げた。その視線に答えるように、亨也はうなずき返す。
「紺野さんのことです」
みどりは急いで亨也を居間に通すと、お茶の用意をしようと台所へ行きかけた。
「あ、本当にお構いなく。少々入り組んだ話になりそうですから。時間もかかりますし」
するとみどりはにっこり笑ってこう言った。
「でしたら、なおさら飲みたくなりません? すぐにできますから」
☆☆☆
昼食の時間になったが、寺崎は相変わらず机に突っ伏して動かなかった。食欲など当然のことながらない。弁当を取り出す気にもならず、寺崎はこの日何度目かの大きなため息をついた。
と、机の脇に誰かが立った。
気配を感じて寺崎はちらりとそちらに目をやったが、それが誰だか分かると、またすぐに顔を伏せた。
出流はそんな寺崎を冷然と見下ろした。
「随分しょぼくれてんじゃない」
「あんたはどっち? いずるちゃん? それとも……」
「あたしはあたしよ」
その途端、ふっと意識をかすめる、赤い気。寺崎はまた小さく息をついた。
「何か用? 俺を殺すの?」
投げやりにそう言うと、鋭い目でちらっと彼女の方を見る。出流は口の端を上げて笑った。
「別に。何をそんなに落ち込んでるのかと思っただけ」
寺崎は顔を腕に埋めると、ため息とともに言い捨てる。
「……ほっといてくれよ」
出流はそんな寺崎をしばらくじっと見つめていたが、その頬に意地の悪い笑みを浮かべ、突然こんなことを問いかけた。
「あんた、行きたいんだ」
寺崎は眉をぴくっと動かして一瞬顔を上げかけたが、またすぐに突っ伏すと、吐き捨てるように答える。
「それがどうしたんだよ。おまえには関係ないだろ」
「神代総代とやらに、止められたの?」
寺崎はそれには答えず、横目で出流をにらみ付ける。出流は相変わらずその顔に、小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。寺崎は、のろのろと上体を起こすと、深いため息をついた。
「……見届けたいんだ」
吐き出す息とともにこう言うと、じっと前方を見据える。
「神代総代は死ぬ覚悟だ。紺野もヘタしたら死んじまう。それなのに俺だけ安穏とこんなところで何も知らずにいるなんて、……耐えらんねえんだよ!」
寺崎は目を堅くつむって下を向いた。机上で握りしめられた両手が、微かに震えている。
出流はそんな寺崎を冷ややかに見下ろしていたが、おもむろに口を開いた。
「連れていってやろうか」
寺崎は耳を疑った。思わず勢いよく顔を上げ、目の前にたたずむ出流をまじまじと見つめる。
出流は表情を変えないまま、淡々と続けた。
「あんたを、アリゾナまで転送してやろうか」
寺崎はしばらくの間、何も言えなかった。相手が相手だけに即座に信じられないことは確かだ。普段の彼なら、何か裏があると考えたに違いない。だが、寺崎はこの時ばかりは小さい声でこう聞いた。
「……マジで?」
出流は無表情にうなずく。
「ただし条件がある。あたしを一緒に連れて行け」
「いずるちゃんを?」
すると出流は小さく頭を振った。
「アリゾナまで転移するのは、この子の体を使ったんじゃ無理だ。あたし本体が行く。でも、あたしは自分一人では動けない。おまえがあたしを抱えて連れて行くというんなら、おまえも一緒にアリゾナに行かせてやる」
それから、その頬になぜだか自嘲的な笑みを浮かべると、こんなことをつぶやいた。
「この子には恩がある。おかげで、高校生活ってやつも多少は体験できたしね。危ないところには行かせられない」
改めて寺崎に向き直ると、その凛としたまなざしで真っすぐに見つめる。
「どうする?」
寺崎はそんな彼女を疑わしそうな目でじっと見つめ返した。
「ほっといても、紺野は死ぬかもしれない状況にある。そんなところに行っておまえは何をする気だ? 紺野にとどめでも刺す気なのか?」
出流は首を横に振ると目線を落とし、つぶやくようにこう言った。
「顔を、見せる」
寺崎は大きくその目を見開き、出流の姿をした優子を瞬ぎもせず見つめた。
「あいつはあの時、死ぬ前にあたしの顔が見たいと言った。もしこのままあいつが死ぬんだとしたら、顔くらいは見せてやろうと思った。……それだけだ」
寺崎は黙ってそんな出流を見つめていたが、やがて大きくうなずいた。
「分かった」
出流に正面から向き直って居住まいを正すと、深々と頭を下げる。
「よろしく、頼む」
出流は無表情にうなずいたが、ややあって、ぽつりとこう付け加えた。
「このことは、神代総代とやらには、言うな」
寺崎は出流の表情をじっとうかがい見た。
「あたしやあんたが来てるなんて知ったら、きっとシールドどころじゃなくなるだろうからね」
そう言って苦笑まじりの笑みを浮かべる出流の表情からは、その奥に隠された真意を読み取ることは難しかった。寺崎は期待と不安が複雑に入りまじった表情を浮かべながら、乾ききった喉の奥に、無理やり唾液を送り込んだ。
☆☆☆
亨也は言葉を切ると、みどりを見つめた。
全てを話した。包み隠さず、全てを。今回のアリゾナ行きが非常にギリギリの状況であるということも、紺野が神代総代を継ぐべき人間だった可能性が高いということも。
みどりは亨也の話を、終始黙って聞いていた。じっと手元を見つめながら、視線すら動かさず、静かに。そして話が終わった今も何も言わず、コーヒーから立ち上る湯気を見つめながら、瞬きすらためらうかのように動きを止めている。
亨也はそんなみどりを黙って見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「今から、紺野さんに少しだけでも会っていかれませんか」
みどりはゆっくりとその顔を上げ、亨也を見つめた。
「私も最善は尽くします。彼を死なせる気は毛頭ない。ただ、万が一ということが絶対にないとはいえない。彼を元気づける意味でも、会っていかれるといいと思います。ただ、発作の間のわずかな時間になってしまいますが。彼もかなり消耗が激しい。疲労も極限に達していると思うので」
みどりは何も言わず亨也の言葉を聞いていたが、やがて深々とうなずいた。
うつむいたみどりの額にかかる白髪交じりの髪が、体の震えを伝えてふるふると揺れている。喉が痙攣するように震えたかと思うと、やがてぽつりと小さな滴が零れ落ちた。
「……神代先生」
「はい」
「先生も……」
みどりは涙にぬれた顔を上げると、真剣な表情で享也を見つめた。
「先生も絶対に、死なないでくださいね。みんなが無事で帰ってきて、また以前のように……」
そこまで言うと、みどりは肩を震わせて嗚咽した。亨也も何とも言えない表情でみどりを見つめていたが、やがてその頬に悲しげなほほ笑みを浮かべた。
「紺野さんは、絶対に帰します。そうしたら、また以前のようにここで暮らさせてあげてください。彼自身も、きっとそれを望んでいる」
「先生もです!」
突然、みどりがこらえきれなくなったように叫んだ。
「あなたに何かあったら、紺野さんがどれだけ悲しむか。今回のことで、誰一人死んではいけないんです。誰一人、欠けてはいけないんです!」
みどりは叫ぶようにそう言うと、顔を両手で覆い、震えながら泣き崩れた。
亨也は何とも言えない表情を浮かべながら、そんなみどりを言葉もなく見つめていた。