6月21日 2
亨也と出流は、川沿いのサイクリングロードに出た。
出流は穏やかなその風景に目を細めながら、ぽつりとつぶやいた。
「いつも、この風景を見てた」
亨也はちらっと斜め後ろに立つ出流に目を向ける。
「毎日毎日……出かけられても、ここがせいぜいなのよ。電車に乗るのも一年に一回か二回。楽しみなんて、何もありゃしない」
享也は、遠いまなざしでつぶやく出流をじっと見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「昨日、あの部屋を見て、何か分かりましたか?」
出流は腕組みをすると、バカにしたように鼻で笑う。
「別に。ただあたしは、あの男を殺しにいっただけだし」
それから、嫌味たらしく口の端を上げて亨也を見やる。
「でもまあ、あたしが手をくださなくても勝手に死んでくれそうだってことは分かったかも」
「彼は死なせませんよ」
亨也は静かにそう言うと、曇天の下をゆったりと流れる川面に目を向ける。
「何とかギリギリでいけそうだってことが分かりましたから」
出流はわずかに眉を上げて亨也を見つめた。
「……あんた、死ぬつもり?」
亨也はその問いには答えず、ちょっと笑って肩をすくめてみせる。
「あなただって正直なところ、彼に死んでほしくないんでしょう」
「は? ……何言ってんの?」
いかにも不快そうに顔をゆがめた出流を、亨也は穏やかな、どこか優しい目で見つめた。
「私は、今まで何回も彼の治療をしてきましたが、毎回、何か違和感を覚えていましてね。ごく最近までそれが何なのか分からなかったんですが、この間、ようやく分かったんですよ。違和感の原因が」
出流は黙って亨也をにらんでいる。亨也はそんな彼女の視線を受け止めながら、静かにこう言った。
「あなたは、絶対に彼にとどめを刺さない」
出流は、ぴくりとその形のよい眉を上げた。
「あの時、彼は腹を裂かれていた。あの傷はナイフなどは使わず、手でじかに裂いたものでしょう。そのまま心臓でも何でも内臓をつかんで引きずり出せば、彼はすぐに死んだ。それなのに、あなたはなぜかそうはせず、そのまま彼を階段から突き落とした」
亨也はひと呼吸置くと、出流の顔をじっと見つめる。
「……なぜなんですか?」
出流は顔の下半分を引きつらせるようにゆがめると、鬼気迫る形相で亨也をにらんだ。
「くだらないこと言ってると、殺すよ、あんた」
だが亨也は、そんな彼女をどこか優しいまなざしで見つめている。
「あなたは、本当は彼に死んでほしくない……そうなんでしょう?」
「黙れ!」
瞬く間に出流の眼前に集積した赤い気が、亨也に向けて放たれる。だが、亨也は眉一つ動かさず、同等のエネルギーを持つ銀色の気で包み込み、それを消滅させた。
「私も、彼に死んでほしくない」
出流……正しくは、その姿を借りた優子は口をつぐみ、静かに言葉を継ぐ亨也を見据えた。
「明日、私は自分にできる精一杯のことをするつもりです。ですが、計算上でもギリギリですから、ひとつ間違えれば、彼はエネルギーの収拾がつかなくなって自死せざるを得ない状況に追い込まれてしまう」
「ひとつ間違えればじゃなくて、百パーセントそうなるでしょ」
出流は肩をすくめると、あきれたような表情をした。
「何たって、あいつの最大エネルギーはあたしと同等かそれ以上。あいつがその気になれば、大陸の一つや二つ、簡単に消し飛ぶんだから」
そして、片側だけ口の端を引き上げて笑う。
「だから化け物だっていうのよ。そんな力、人間が持つべきものじゃない。……そう思わない?」
「確かにそうですね。特に彼のような人間には、本当に不必要だ」
亨也はうなずいてみせてから、穏やかな笑みをその頬に浮かべた。
「ただ、彼は化け物じゃない。優しくて、人に気ばかり使って、料理上手で……寺崎さんも言ってましたけど、あんな化け物いませんよ。確かに」
そして、そのまなざしを、ゆっくりと出流に向ける。
「だから私は、彼に死んでほしくないんです。彼にはもっと生きてほしい。別に、彼が本当の総代だからとか、血がつながっているからとか、そんなことはあまり関係がない。あの男だから生きてほしい。ただそれだけなんです」
出流はそんな亨也を斜からじっと見上げていたが、肩をすくめて目線を外すと、いくぶん面倒くさそうに問いかけた。
「で、あたしに話って何なわけ?」
亨也は居住まいを正すと、正面から出流を見つめた。
「彼を、助けてほしい」
出流はあっけにとられたように動きを止めた。
「あなたの力なら、彼の力を抑えられる。協力していただきたい」
「……何を言い出すかと思ったら」
それから、我慢しきれなくなったように吹き出すと、けらけらと笑い始める。
「何であたしがあの男を助けなきゃならないわけ? あんた、頭がおかしくなったんじゃないの?」
ようやく笑いを収めると、出流の姿をした優子は、とがったまなざしを亨也に突き立てながら、口の端を左右非対称に引きつらせた。
「あたしはあの男が憎い。あの男のせいで、あたしはこんな体で生きなければならないんだから。その恨みを晴らす絶好のチャンスだっていうのに、何でそんなヤツを助けなきゃならないわけ?」
亨也は小さく息をつくと、遠い目をした。
「多分、そう言うだろうとは思ってました」
そう言うと、うつむいて力なく笑う。
「藁にもすがりたい心境なんですよ、私は。彼を助けるためなら、なりふりなんか構っていられない。自分の力に限界がある以上、誰かに助けを借りなければ、彼を助けることができないんです……悔しいですが」
「だからって、あたしに言うのは筋違いも甚だしいでしょ」
そう言って苦笑した出流を、亨也はじっと見つめた。
「……私はそうは思わない」
出流の姿をした優子は、眉根を寄せて亨也を見た。享也はそんな優子の視線を、静かな面持ちで受け止める。
「だって、あなたは彼の子どもだから。あなたの中にも、あの優しい男の血が流れている。私はその可能性に賭けたかった」
哀れむような、愛おしむような、複雑な優しさを秘めた享也のまなざし。優子はそのまなざしから、なぜだか目をそらすことができない。
「実際、あなたが他人を殺したのは一度だけだ」
鼓膜を突き刺したその一言に、優子は思わず呼吸を止めた。
「もちろん、間接的にあの大惨事を引き起こしたのは確かです。ただ、直接普通の人間に手をくだして殺したのは、結果的には出生直後のあの一度きり。あなたが手を出すのはいつも紺野さんか、玲璃さん、……異能を持つ自分の血族だけだ。普通の人間に手を出すのは、必ずそばに紺野さんがいて、人間を守ってくれる状況の時だけです」
「そんなこと、言い切れないでしょ」
優子はようやく享也から目線をそらすと、口の端を上げた。
「あたしはいつでも人間を殺せる。人間なんて、あたしにとってはクズだし。何なら、今、この河原にいるやつらを全員殺ったって構わない。……やってみせようか?」
亨也は静かに頭を振った。
「そんなことはしなくて結構です。気に障ったのなら謝りますが。そんなことをしている暇に、先ほどの件を考えてください」
それから、真剣なまなざしで優子を見つめる。
「時間がないんです。彼はもうこれ以上、あの頭痛に耐えることは難しい。彼の精神力をもってしても、痛みに耐えかねて自死するのは時間の問題でしょう」
「……いい気味よ」
つぶやくようにそう言うと、優子は黙り込んだ。
亨也はそんな優子をじっと見つめていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「私は、彼がどうして再生したのか、ずっと調べていました」
足元に目を落としていた優子は、目線をちらっと上げて享也を見た。
「だって不思議な話ですから。彼自身は死のうと思っていたわけですから、墜落する自分の体から女性の体に体細胞を転移させるなんていうことを、もとよりするわけがない。でも彼は紺野美咲という女性の体に宿り、再生を果たした。誰か他の能力者がそこに関与していると考えた方が、自然です」
亨也は、出流……もとい、優子を、まっすぐに見つめた。
「あなたが、やったんじゃありませんか?」
優子は、その目を大きく見開いた。
「やろうと思ったかどうかは別として、あなたは自分の父親をあのまま殺すに忍びなかった。だから、無意識に彼の体細胞を転移させた。今、彼にギリギリでとどめを刺さないのと同じように。私は、そう思っているんです」
優子は無言だった。足元に目線を落とし、じっとして動かない。ただ、握りしめられた両の手が、微かに震えているように見える。亨也は、そんな優子を心なしか悲しげな目で見つめていた。
「だから私は、一見むちゃなこの話をあなたにしようと思った。そして、それは無駄ではなかったと、……そう信じています」
一言の言葉を発することもなく、じっと足元を見つめて動かない優子に、亨也は小さく頭を下げた。
「授業中、お時間をとらせてすみませんでした。私の話はこれだけです。ありがとうございました」
そう言って踵を返し、川沿いのサイクリングロードを、高校とは逆方向に歩き始める。
亨也の姿が視界から消えても、出流の姿をした優子は動こうとはしなかった。固く両手を握りしたまま、いつまでも曇天のサイクリングロードに立ちつくしていた。