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輪廻  作者: 代田さん
第四章 転落
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6月21日 1

 6月21日(金)


 昨夜は激しい発作が三度ほどあった。紺野は疲れ切ってぐったりと寝入っていたが、亨也の電話の声で目が覚めた。


「はい、申し訳ありません。明日の準備もありますし、今日は出勤は難しいと思います。はい、そうですね。よろしくお願いします。……はい、分かりました。では、失礼します」


 電話を切った亨也は、紺野が目覚めたのに気づいてほほ笑みかけた。


「おや、起こしてしまいましたか? すみません」


「神代さん……お仕事、お休みされるんですか?」


 亨也はうなずくと、ベッドサイドの椅子に腰掛ける。


「いろいろとやらなければいけないことがあって」


 言いながら紺野の額に手を当てると、顔色を注意深く診て、心配そうな表情を浮かべた。


「昨夜は、きつかったでしょう」


 紺野は疲れたような表情ではあったが、ほほ笑んだ。


「さすがに、少々……でも、大丈夫です。それより神代さんも、それに付き合ってくださって……寝ていないんじゃないですか?」


「やらなければならないことがあったんで、ちょうど良かったですよ」


 亨也はそう言って笑うと、紺野に優しいまなざしを向ける。


「あと一日、頑張ってください。予定では、今日中にあちらの準備が整います。そうすれば、明日朝一であちらにとんで、始められますから。それまでの辛抱です」


「いろいろと、ありがとうございます」


 紺野は頭を下げると上体を起こし、よろよろとベッドを降りた。


「朝食は……」


「ああ。準備しましたよ」


 亨也はそう言うと恥ずかしそうに笑った。


「ただのご飯とみそ汁、焼き魚ですけど。料理上手の紺野さんに食べさせるのは、厳しいかな」


 紺野はとんでもないとでも言いたげにかぶりを振ると、恐縮しきって頭を下げる。


「すみません、何から何まで……」


「何言ってるんですか、当たり前ですよ」


「片付けはしますから」


「やめてください、全く」


 亨也は苦笑すると、さり気なく紺野を支えながらダイニングに向かった。   



☆☆☆



 九時頃、玄関チャイムが鳴って沙羅が現れた。


「総代、お仕事休まれたんですね」


 扉を開けて出てきた亨也の姿を見て、改めて驚いたように沙羅は言った。


「ひょっとして、このお仕事を始められてから、初めてじゃないですか?」


「そうかもしれないね、健康優良児だったから」


 亨也はそう言って笑うと、外出の準備を始めた。


「どこか、行かれるんですか?」


「いろいろと、やらなければいけないことがあって。留守を頼んでいいかな。何かあれば、すぐに駆けつけるから」


「もちろんです。行ってらっしゃいませ」


 亨也はうなずくと、そっと紺野のベッドルームをのぞいた。紺野は静かに眠っているように見えた。


「八時半頃、かなり強い発作があった。しばらく寝かせてやってほしい」


「分かりました」


 亨也は軽く頭を下げると、そっと玄関の戸を閉めた。



☆☆☆ 



 寺崎は暗い表情でじっと黒板を見つめていた。斜め後ろから出流の視線を感じるが、そんなことはもうどうでも良かった。

 紺野が死の危険と隣り合わせる。神代総代がそのために死ぬ覚悟でいる。自分はそれに立ち会うこともできず、待っているしかない。


「……畜生!」


 呟くと、その顔を両手で覆う。血がにじむほどきつく唇をかみ、目をつむる。いったいどうして、誰かが死ななければならないのか。寺崎には受け入れがたかった。

 亨也が兄弟だと知った時の、紺野の涙を思い出す。その亨也が死の危険と隣り合わせると知れば、紺野は自死しようとするに違いない。やっと出会えた兄弟だというのに、どうして別れなければならないのか。どうしても納得がいかなかった。

 出流はそんな寺崎の背中をじっと見つめていた。

 眼鏡の数学教師は黒板に数式を書き連ねると、生徒の方に向き直った。


「じゃあ、この解法を答えてもらいます。相当に難解ですから、得意な人にお願いしましょう。……村上さん」


 出流は、その目を寺崎から無表情に黒板に向けた。黙って黒板に歩み寄ると、すらすらと数式を書き連ねていく。


「さすがです、村上さん」


 感心しきったような教師の言葉にも、出流は無反応だった。すたすたと自分の席に戻って着席すると、机に突っ伏して動かない寺崎に目を向ける。

 黒川は、そんな出流をじっと見つめていた。

  


☆☆☆



「出流ちゃん、どうしたんだよ!」


 中休みの校庭上空には、今にも雨滴が滴り落ちそうな曇天が広がっている。

 人気のないビオトープに出流を呼び出した黒川は、湿った空気を揺るがすような大声で、我慢しきれなくなったように叫んだ。


「誘っても全然答えてくれないし、話しかけても何か上の空で。今日だって、また放課後会えないんだろ。いったいどうしたんだよ!」


 出流は何も言わず、無表情に黒川を見つめている。


「ひょっとして、寺崎のこと気になってるのか?」


 出流は少しだけ眉根を寄せ、けげんそうな表情をした。


「ここんとこ、寺崎のことばっかり見てるだろ」


「……そう?」


「そうだよ。まさかもう心変わりしたってわけじゃないよね?」


 出流はその凛としたまなざしで、まっすぐに黒川を見つめたまま何も答えない。


「あの映画館で僕のことを誘っておいて、どういうつもりなんだよ!」


「男って、どうしてああなの?」


 出流は唐突にこう言うと、心持ち首をかしげて黒川を見た。


「ちょっと女に誘われると、我慢できなくなって最後までいっちゃうのよね。ああいう時、どうして考えられないんだろう。このままこんなことをしていいのかどうか、こんなことをしたらどんな結果が待っているのかって……」


 そして、鋭利な刃物のような目線で黒川を見据えながら、低い声でこう言う。


「あの時、あたしは中出しして大丈夫って言ったけど、ああ言われなくても、あなた我慢できなかったでしょ」


 黒川は目を見開いて言葉を飲み込んだ。


「もしあたしが妊娠の可能性のある日だったら、どうする気だったの? そのまま出して、もし妊娠して子どもができたら、どう責任を取るつもりだったの?」


「責任って……」


「どうしてそういうことをする前に、そこまで考えないの? 生まれてくる子どもには何の責任もないのに。ただ新しい世界にわくわくしながら、希望に満ちて出てくるだけなのに。その子をしっかり受け止めてやれる覚悟もかい性もないくせに、軽々しくそんなことをするもんじゃないんだよ!」


 出流が叫ぶと同時に強い風が吹き渡った。ビオトープの池がさざ波を立てて揺れる。


「……それを、確かめたかっただけ」


 出流はそう言うと、遠い目をした。


「それ以外、深い思いはないわ」


 黒川は両手を堅く握りしめて黙っていたが、やがて震える声を絞り出した。


「僕は、本気だった」


 黒川を冷然と見やった出流は、その目を少しだけ見開いた。

 黒川の頬を、涙が幾筋も伝っていたのだ。

 涙は顎の先から滴り落ち、足元の草原に小さな音をたてた。


「確かにその後のことを考えていたとは言えない。場の雰囲気に流されたっていえば、その通りだと思う。君のことを傷つけるかどうか、そんなことにも思い至らなかった。それはその通りだ」


 黒川はそう言うと、涙にぬれた顔を上げ、出流をまっすぐに見つめた。


「でも、本気だったんだ! 君のことが本当に好きだと思ったから……。軽々しくあんなことをしたのは謝るよ。でも、本当に好きなんだ!」


「好きだからって、何をしてもいいの?」


 出流は冷ややかに黒川を見下ろしながら、淡々と言葉を継ぐ。


「その後に起こりうることを考えるべきなのよ。だって生まれてくる子どもは、生まれる先を選べない。その子の人生を一生支えていく覚悟がなければ、セックスなんてするべきじゃないのよ」


 それから黒川を真っすぐに見つめ、バッサリと切り捨てた。


「あなたはその程度の人間だった。だからもうこれ以上、あなたに用はないの」


 息をのんで立ちすくむ黒川を残し、出流はきびすを返した。ビオトープを抜け、こんな曇天にもかかわらず楽しげに談笑する生徒たちの間を抜けて、振り返りもせず歩いていく。

 そんな制服姿の生徒たちとは異質な男が一人、昇降口脇に立っていた。黒いTシャツにジーンズ姿の、すらりとしたモデルのような風貌の、男。

 出流はその男を刺すような目つきで一瞥すると、足を止めた。


「あなたの言っていることも、一理ありますけどね」


 男はそう言うと、ジーンズのポケットに手を突っ込んでゆっくりと出流の方に歩み寄ってきた。茶色い髪が、湿った風にさらさらと揺れている。


「でも、男ってそういう生き物なんですよ」


「それで片付けられたら、こっちはたまんないのよ」


「それも当然ですね」


 男……神代亨也はそう言うと、周囲を見回した。


「少し、お時間をいただけませんか」


「何の話?」


 出流はその両眼に鋭い敵意をみなぎらせた。


「場合によっては、実力行使も辞さないわよ」


「紺野さんのことです」


 出流の動きが、一瞬止まった。


「明日のこと、知っているんでしょう。あなたに聞いておきたいことがいくつかあって。十分程度でいいんです」


 出流は警戒心をあらわにしながら亨也をにらみ付けていたが、やがて小さく息をついた。


「……言っとくけど、変なことをしようとしたら容赦しないから。この学校ごと、この辺の人間全部吹っ飛ばすから。そのつもりでね」


「穏やかじゃありませんね」


 亨也は苦笑すると歩き始めた。出流も黙ってその後に続く。


「もとよりそんなつもりはありませんよ。明日が控えているのに、そんなことをしている場合じゃない」


 亨也と出流は、連れ立って校門の外に出て行った。

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