6月20日 2
出流はエントランスを抜けて、まっすぐエレベーターホールに向かった。
面会者受付は通らなかった。エレベーターに乗り込み、六階を押す。
六階の脳外科病棟に入り、ひとつひとつ病室を見て回る。捜している人物の姿がないことが分かると、今度はエレベーターで八階の循環器科病棟に向かった。
エレベーターの扉が開くと、出流は病棟に入り、先刻同様ひとつひとつ見てまわる。やがて一番奥の部屋の前で立ち止まると、じっとその扉を見つめた。
白く細い指先を扉にかけ、そっと横に滑らせる。
開いた扉の内側を一目見て、出流は大きくその目を見開いた。部屋はがらんどうで、窓が一枚もない。壁ははがれ落ち、天井からはむき出しの配線が垂れ下がり、風が吹き抜ける無残な姿をさらしていた。
「ここに紺野はいねえよ」
突然、背後で声がした。
はっとして振り向くと、寺崎が入り口脇の壁により掛かり、腕を組んで立っていた。
「昨日、部屋がこんなことになっちまったからな。今日は神代総代のマンションにいる。外泊って形でな。俺も、そのことはさっき知ったんだ」
眼光鋭く出流を見据えながら、寺崎は片頬を少しだけ引き上げて笑顔のような表情を作ってみせた。
「それにしても驚いたな。いずるちゃんとこんなところで会うなんて。どうしたんだ? 紺野の見舞いなら、俺に声かけてくれればよかったのに」
カミソリのようなまなざしを寺崎に向けながら、出流も口元に薄い笑みを浮かべてみせる。
「だって、あなたと話してると、黒川くんを怒らせちゃうから」
「……それだけ?」
寺崎は口元の笑みをおさめると、射貫くようなまなざしで出流を見た。出流は、冷たく光る湖面のような無表情でその視線を受け止める。
「とどめでも刺しに来たんじゃねえの?」
「どういう意味?」
寺崎は小さく息をつくと、壁にもたれていた体を起こして出流に正面から相対した。
「おまえ、いずるちゃんじゃねえだろ」
出流はその目に侮蔑の色をにじませながら、フンと片頬をゆがめて嗤う。
「何を言い出すのかと思ったら。どこから見てもあたしでしょ」
「その右手だよ」
出流はどこか挑戦的に右手を目の前にかざしながら、つぶやく。
「……この手?」
「赤い気を感じる」
出流はわずかに口の端を上げて、かざした指の隙間から寺崎を見ていた。
「おまえ、あの子どもだろ」
出流の反応はなかった。
右手を下ろして、無表情に、ただ黙って寺崎を見ている。
寺崎は一歩、出流に詰め寄った。
「あの時、紺野の腹かっさばいて階段から落としやがったのも、おまえだろ」
出流の右頬が引きつるように上げられた。
「何の証拠があるの?」
そう言うと、顔の下半分でくすくす笑う。寺崎は鋭く眼を細め、眉根を寄せた。
「あいつ自身、事故当時のことは何ひとつ覚えていない。あんたがいくら叫んでも、そんなたわごと、誰も信じちゃくれないでしょ」
そう言うと、自分より二十センチ以上背の高い寺崎を上目遣いに見上げて、左右非対称に口の端を上げる。
「ね、そうでしょ、……下っ端さん」
寺崎はその語り口に覚えがあった。手のひらに爪をたてながら、固く拳を握りしめる。
「おまえさ……どうして紺野を狙うんだ?」
出流……正しくは、その体を借りている優子は、とがったまなざしを寺崎の額に突きたてながら黙っている。
「あいつはおまえのこと、心配してたんだぜ」
優子の頬が、ぴくりと震えた。
「体育祭でおまえが大暴れしたあと、しばらく何の音沙汰もなかっただろ。そん時あいつ、襲撃がないって喜ぶのかと思ったら、おまえの体に何かあったんじゃないかって、……心配してたんだぜ」
寺崎は視線を落とすと、疲れたような笑みを口の端に浮かべた。
「俺は正直、あり得ねえと思った。だって、あんだけひどい目にあわされた相手だぜ? おまえのせいで、あいつの人生は滅茶苦茶になったのに。そんなこと、あいつは何ひとつ気にしちゃいない。ただ、おまえに申し訳ないって、それしか思っちゃいねえんだ」
ひとり言のようにつぶやくと顔を上げ、出流の姿をした優子を正面から見つめる。
「おまえだって、それは分かっただろ? この間、あいつの意識世界にはまりこんで……」
「黙れ!」
突然、優子が叫んだ。
口をつぐんだ寺崎を血走った目でにらみながら、かすれた声を絞り出す。
「おまえに何が分かる」
優子の声は、微かに震えているようだった。
「あたしに言わせてもらえば、あいつのせいで、あたしの人生は滅茶苦茶になった。裕子に手を出してはらませ、生まれたあたしは間違った血の影響でこんな体になった。あいつがあんなことさえしなければ、あたしは生まれなくてすんだんだ!」
口の端を震わせながら、出流はゆがんだ笑みを浮かべた。
「そう、生まれたくなかった。こんな生活、誰が望むもんか。親からは見捨てられ、体は動かず、しゃべることもできず……」
寺崎はその言葉を聞きながら、いつか川の向こう岸に見た車椅子を思い出していた。
「普通のやつらがしていることは何ひとつできず、恋愛もできず、勉強もできず、将来の展望もない。何の希望もないまま、ただ今を生きるだけの人生なんて……」
「確かにそうだな」
あっさりと肯定した寺崎を、優子は驚いたように見た。
「そんな人生、確かに誰も望まない。おまえもある意味、被害者なんだな」
警戒をにじませながら黙り込んでいる優子に、寺崎は優しい、それでいてどこか悲しげなまなざしを向ける。
「ただ、親に見捨てられてはいねえよ」
優子ははっと目を見開いた。
「あいつは、おまえのことを見捨てちゃいねえ。おまえと一緒にいたいって、そう言ってた」
寺崎はいったん言葉を切り、出流の姿をしたそいつを真剣な表情で見つめる。そのまっすぐなまなざしにたじろいだかのように、優子はわずかに目線をそらした。
「あいつの話を聞いてやってくれ。あいつは、おまえのことを誰よりも思ってる。おまえに対してしてしまったことを、きっと謝りたいと思ってるんだ」
硬い表情で黙っていた優子はその言葉を聞いた途端、口の端を引きつり上げた。
「……だから、遅いっていうのよ」
「それは……」
「第一、あいつ死ぬんでしょ」
はっと息をのんだ寺崎の目に、出流の姿をしたそいつの皮肉っぽい笑みが映り込む。
「頭を打った影響か何だか知らないけど、能力の抑制がきかなくなってる。昨夜の騒ぎは、それが原因なんでしょ」
出流の姿をしたそいつは、ぐるりと部屋の中を見回した。
「この部屋から感じる、ゆがんだ残留思念……。抑制がきかなくなってることがよく分かる。こうなっては、もう死ぬしかないわね」
「それは、力を完全に解放すれば防げることだって、神代総代は……」
「あいつに、それができると思う?」
さえぎられた言葉を継ぐことができずに、寺崎は黙り込んだ。
「あの男はどんなに場の設定をしたところで、自分の力を解放しきれない。中途半端に解放すれば収拾がつかなくなって、最終的にはその力を自分に向けるしかなくなる。多分あいつが自死して、終わりでしょうね」
寺崎は自分の手が細かく震えているのを感じた。冷たい汗が一筋、背中を流れ落ちていく。
「だいたい、神代総代とやらも、あいつの力の最大値がどのくらいなのか、予測できているのかどうか」
「おまえは、分かってるのか?」
出流の姿をしたそいつは、フンと鼻で笑った。
「あたしは、自分の力を知ってるからね。おそらく地球上でそれを行えば、大陸の一つくらいは消し飛ぶでしょうね」
バカにしたような顔で言葉を継ぐ出流を、寺崎は瞬ぎもせず見つめていた。
「この地球上に、あいつの力を解放させられる場所なんて設定不能なのよ。同じくらいの力で同時に抑えつければ別だろうけどね」
「じゃあ、神代総代がそれを……」
出流の姿をしたそいつは、はっきりと頭を振る。
「それは無理でしょう」
そして微かに口の端を上げた。
「だって、あいつは……」
言いかけて、そいつはすっと口を閉じた。ちらりと目線を上げて寺崎を見、つぶやくようにこう言う。
「……今週の、土曜なのね」
寺崎ははっとして目を見開いた。いつの間にのぞかれたのだろう? 記憶を読まれたのだ。
「ありがとう。それが知りたかっただけ」
出流の姿をしたそいつは、そう言って入口の扉に細い指をかけた。何か言いかけた寺崎を、氷のようなまなざしで一瞥する。
「取りあえず、私の邪魔はしないでね。邪魔をすれば、この女も、おまえたちも、あの学校ごと全て吹っ飛ばすから」
言い捨てると扉を開け、悠然と歩き去った。
横開きの扉が反動でゆっくりと閉まり、緩い風の吹き抜けるがらんどうの病室に取り残された寺崎は、壁にもたれかかり、腹の底から息をついた。体中から吹き出した汗が、風に当てられて冷やされていく。足も、手も、まるで自分の物ではないように震え出すのを感じる。たった今知らされた恐ろしい予測の衝撃に、寺崎は歩き出すことすらできずに、しばらくはその場から動けなかった。




