4月15日 2
男は革靴を履いたままで部屋に上がり込んだ。無言だった。眼鏡をかけた背の高いその男は、生徒会書記の滝川だった。
「あなたは……」
戸惑う紺野を一瞥もせず、滝川は台所の調理台に置かれていたハサミを掴んだ。土足で家に侵入した上、無言でハサミを手にする滝川の所業に、さすがの紺野も異常を感じたのだろう、よろよろと上体を起こしかける。その胸を間髪を入れずに蹴り飛ばすと、滝川は掛け布団をはぎ取った。両手で握ったハサミを高々と振り上げ、無表情に、みじんの躊躇いもなく、それを一気に振り下ろす。
ハサミは紺野の右足の太ももに深々と突き刺さった。
「……!」
息をのみ、声にならない叫びをあげる紺野に構わず、滝川は両手で握ったハサミを膝に向かって力いっぱい引き下ろす。切れ味がよくないのだろう、筋繊維を無理やり断裂する鈍い音が、薄暗い部屋に不気味に響く。
ハサミは紺野の太ももを二十センチメートルほど切り裂き、膝に達してようやく抜き去られた。血しぶきが黄ばんだ壁に音を立てて飛び散り、滝川の眼鏡にも点々と血の跡がつく。
滝川は血塗れたハサミを投げ捨てて立ち上がると、無表情に紺野を見下ろした。
紺野はエビのように丸まって目を固くつむり、奥歯を噛みしめながら、焼かれるような右足の激痛に耐えていた。端目にもはっきりわかるほど震える手で太ももの傷を抑えようとするも、指の隙間からあふれる血で見る間にズボンが赤く染まり、薄汚れた布団も鮮やかな赤に染まっていく。
滝川は期待外れだと言わんばかりに小さく舌打ちすると、紺野の肩を蹴りつけて体勢を変えさせた。紺野がされるがままに仰向けにされると、やおら右足を振り上げ、その胸に革靴を叩き込む。二度、三度。繰り返すうち、鈍い音がした。肋骨が折れたらしい。革靴が叩き込まれるたび、紺野の口から血飛沫が飛び散った。
紺野がぐったりとして動かなくなると、滝川は蹴るのを止めた。意識を確かめるつもりか、前髪をつかんで横向きの顔を強引に上向かせる。紺野は苦痛に顔を歪め、かすかに呻いた。
滝川は拍子抜けしたように肩をすくめて前髪を放すと、ちらりと台所のガスコンロに目線を送った。刹那、つまみがかちりと音をたてて横向きになり、青い火柱が上がる。それはまるで生き物のように壁を舐め、みるみるうちに天井まで到達し、台所は猛火に包まれた。
「人違いだったようだ。悪いが、死んでくれ」
抑揚なく言い捨てると、滝川の姿はその場から忽然と消えた。
閉じられていた紺野の目が、何かを感じ取ったかのように薄く開く。だが、すぐに力尽きたようにその目は閉じられた。逃げるどころか、目を開けている気力すら残っていないらしい。その間にも血まみれで仰臥する紺野の周囲を、みるみるうちに猛火が覆い尽くしていった。
☆☆☆
玲璃は池沿いの散策路を歩きながら、生きかえるような心地で深呼吸した。
庭園の美しい緑と、さわやかな初夏の風、なにより大勢の観衆の目から逃れられた安堵感で、気分がだいぶもち直したようだ。
「ありがとうございます、神代さん」
玲璃が頭を下げると、数歩先を歩いていた亨也は振り返って笑顔を見せた。
「亨也でいいですよ。気分は良くなりましたか?」
「はい、おかげさまで」
亨也は数メートル先にある、池の畔のベンチを示した。
「ちょっと座りましょうか」
亨也にうながされて玲璃が腰を下ろすと、その隣に亨也も腰を下ろした。
あいにくの薄曇りだったが、池の水面は新緑を映して輝き、ときおり、鳥のさえずりも聞こえてくる。ここが都心の一等地とは思えないほど、のどかで穏やかな風景だ。
心が安らぐその風景にぼんやり見とれていると、隣に座る亨也が、深呼吸でもするかのように手を高く挙げて大きく伸びをした。
「うーん……ああ、疲れた。年ですね」
肩を上げ下げしているその様子に、隙のないナイスガイの意外な一面を見た気がして、玲璃はクスッと笑ってしまった。その笑いの意図するところを読んだのか、亨也もいくぶん恥ずかしそうな笑みを浮かべてみせる。
「昨日は緊急手術が入ってしまって、あんまり寝てないんです。すみません、オヤジくさくて」
「あ、いえ、そんな。オヤジだなんて……」
思っていたことをズバリ言い当てられてしまって焦った玲璃は、あわてて別の話題をふった。
「あ、あの、神……いえ、亨也さんって、お医者様なんですか?」
「一応ですけど」
「手術って仰ってましたけど、何の診療科なんですか」
「外科です」
自然なやりとりが生まれたことで、玲璃はいくぶんホッとして表情を緩めた。
「すごいですね。お医者様になるのもとても難しいそうですし、人の命を預かるお仕事をされているなんて、尊敬します」
亨也は小さく首を振った。
「大したことはないですよ。確かにちょっと忙しいですが、私はこの仕事、好きですし」
そう言って、享也が笑みを浮かべかけた、次の瞬間。
突然、亨也の表情が凍った。
先ほどまでの柔和な雰囲気が一転、刃のような鋭い緊張を全身にみなぎらせ、意識をなにかに集中するかのようにじっと遠くを見つめている。
何が起きていのか分からない玲璃は、戸惑いながらそんな亨也をだまって見つめるほかはなかった。
☆☆☆
サイクリングロードを歩いていた寺崎は、はっと息を呑んで歩みを止めた。能力発動を感知したのだ。
寺崎は魁然家の末端の一派である。魁然家の血族は常人離れした運動能力が最大の特徴なのだが、他にも能力がある。他者の能力発動を感知する力と、発動された能力による影響を受けにくい特性である。また、一部の人間は弱い伝達能力を持つこともある。寺崎も混血ながら、能力発動を感知することができる。彼は今、すぐ近くで転移能力の発動による空間のゆがみを感知したのだ。
――こんなところに、能力者かよ!?
ふと前方を見ると、空の一角がやけに赤い。黒煙が上がっているのも見える。紺野のアパートの方角だ。ただならぬことが起きている気配を察し、寺崎は川沿いの道を全速力で走り出した。
☆☆☆
「火事だ! 火事だぞ!」
「誰か、一一九番してくれ!」
アパートのご近所に住む人々が叫びながら、猛火に包まれ火の粉が飛び散るアパートの周りを走り回っている。中には自分の家の消化器を持ってきてかけつける者もいたが、焼け石に水。古い木造アパートの壁を舐め尽くすように伝う炎は、瞬く間に燃え広がっていく。
その時。突然、赤黒い空に怒号が響き渡った。
「離してくれ、離せ!」
声の主は、先日寺崎に話しかけてきた老婆だった。髪を振り乱して叫びながら、引き留める近所の人の手を振りほどこうと暴れている。
「じいさんの位牌、取ってこないと! 燃えてしまう!」
老婆は半狂乱になって叫んでいたが、ついに引き留める人の手を振りほどいて階段をよたよたと上り始めた。後ろから、ステテコ姿の近所のオヤジが必死で叫ぶ。
「やめろ、ばあさん! 死んじまうぞ!」
老婆は返事をせずに二階にたどり着くと、まだ火の手が届いていない自分の部屋の扉を開けようとノブに手をかけたが、感じた鋭い熱さに慌ててその手をひっこめた。ドアノブは既に炎の熱で焼けるように熱くなっている。老婆はそれでもひるまず着ていた服を手に巻き付けてノブを回すと、口を上着で覆って自分の部屋に入った。
部屋の中も、それほど火はまわっていなかった。しかし、黒煙が充満し始めている。老婆は両手を畳につくと、四つん這いになって部屋の奥に向かった。いちばん奥の部屋に入ると、小さな仏壇の扉を開ける。三年前に亡くなった夫の位牌は、火事の最中にあることが信じられないほどいつもどおりの様子でそこにあった。黒光りする滑らかな表面は、徐々にまわり始めた炎を映して冷たい光を放っている。
「じいさん、よかった……」
半泣きの老婆が位牌を胸にかき抱いた、次の瞬間。
まるで力尽きたかのように玄関前の天井が焼け落ちた。
轟音とともに火柱が上がり、あっという間に退路が絶たれる。老婆はぼうぜんと燃え上がる玄関を見つめて機能停止した。
瞬く間に彼女の周囲にも火がまわり始める。鼻孔が焼けただれるような熱気と、呼吸を遮る濃厚な煙。壁、天井、畳……すさまじい勢いで炎が広がっていく。
胸に位牌を抱いて為す術もなくうずくまる老婆を、炎と煙が、まるで生き物のように渦を巻きながら呑み込んでいった。
☆☆☆
紺野の周囲も、すでに火の海だった。
黒煙と炎の渦巻く部屋の真ん中で、紺野は血に染まった布団の上に横たわり、目を閉じていた。
紺野は熱さも痛みももう感じなかった。姿勢が低いので辛うじて呼吸できる状態ではあったが、肋骨が折れて肺が傷ついたのか呼吸困難に陥っており、多量の出血もあいまって、すでに意識が遠のきかけていた。
畳に燃え移った炎が徐々に迫り、布団にも燃え移り始めている。だが、そんな状況だというのに、なぜか紺野の表情は穏やかだった。迫り来る炎の洗礼を、まるで待ちこがれているかのように見えた。
紺野の意識に、隣室でうずくまる老婆の気配と微かな念仏の声が届いたのは、その時だった。
紺野は重いまぶたをこじ開けた。
起き上がろうというのか、震える腕を支えに上半身を起こしかける。だが、彼の腕にはもう体重を支えられるだけの力は残っていなかったようだ。体勢を変えたことで脳の血流も低下し、意識が途切れた紺野は血まみれの布団に頽れる。腱が断裂しているのだろう、右足は全く動かない。次第に弱くなる、念仏を唱える老婆の声。
紺野が再度、薄く目を開いた、次の瞬間。
動くはずもないその体が、布団の上から忽然と「消えた」。
刹那。紺野の真上の天井が雪崩を打って焼け落ち、血だらけの布団は猛火に包まれ、一瞬で見えなくなった。
☆☆☆
念仏を唱えながら、老婆はもう諦めていた。渦巻く熱風に呼吸すらおぼつかない。床に丸まって位牌を胸に抱きながら、ここで死ぬと確信していた。
――死ぬ前に、孫の浩孝に会いたかった。
その時だった。
ふと、老婆は自分の背中に誰かの体温と体の重みを感じた。同時に、鼻孔を焼かれるような熱風も、背中を炙られる熱さも痛みも、ふっと和らぐ。
――何だ?
老婆の肩を、誰かの手が包むようにそっと抱え込む。若い男の気配を、老婆は感じた。
――浩孝、か?
刹那。老婆はまるで地下鉄の駅に列車が入線する時の音のような、強烈な耳鳴りに襲われた。思わず耳をふさいだ老婆のこめかみを、今度はキリをねじ込まれたような鋭い痛みが突き刺さる。思わず呼吸を止め、目を堅く瞑る。
ふと川風を感じた気がして、老婆はゆっくりと閉じていた目を開いた。
視界に映り込んだのは、夕闇に覆われはじめた曇天の下に広がる、ゆったりとした河の流れ。川にかかっているのは、見覚えのある赤い鉄橋だ。橋の上を、銀色の電車が軽快な音を響かせながら通過していく。
それは確かに、老婆が見慣れた河川敷の風景だった。
老婆はしばらくの間、狐にでもつままれたような表情で、ぼうぜんと口を開けてその風景を眺めていた。
先ほど感じたあの耳鳴りと頭痛はウソのように消えていた。路地の向こうから、消防車のサイレンの音と人の騒ぐ声が微かに聞こえてくる。
老婆は位牌を抱いたまま、よろよろと立ちあがった。