6月19日 3
「紺野!」
大声で叫びながら病室の扉を開け放った寺崎は、一歩部屋に足を踏み入れた途端、そこに展開していた惨状を目の当たりにし、言葉を失った。
部屋には原型を留めている物は何もなかった。ベッドはもちろん、椅子も、机も、カーテンも。手洗い場も、鏡も、窓まで何もかも、まるで内部で爆弾でもさく裂したかのように、そっくりなくなっている。天井からはむき出しの配線が垂れ下がり、時折小さな火花を散らしていた。病室の扉や隣室、病室前の廊下には何事もなかっただけに、寺崎の受けた衝撃は凄まじかった。
その空っぽの部屋の真ん中に、紺野は窓の方を向いて立っていた。寺崎が入ってきたことにも気づかない様子で、ただぼうぜんと吹き飛んだ窓の外を見つめている。
廊下よりには、神代亨也の姿があった。亨也は、ぐったりした沙羅の肩を抱いて座り込み、じっと紺野を見つめている。沙羅は気を失っているらしかった。
「何があったんですか」
ぼうぜんと問いかけた寺崎を、亨也は横目で見上げた。
「申し訳ない。これほどまでとは思わなかった」
「神代総代……」
「彼が飲んだのは、確か一錠でしたよね」
寺崎はうなずくと、紺野の後ろ姿に目を向ける。相変わらず、窓の外を見つめているだけで動かない。
「一錠でさえこの状態だと、あの薬は、やめた方がいいですね」
「これ、まさか……、」
「紺野さんの能力発動です」
寺崎は大きく目を見開いて息をのむ。紺野は相変わらず微動だにしていない。
「初っぱなの衝撃波、その一撃でこうなりました。私も、外部に影響が出ないようシールドするのが精いっぱいで、……こんなありさまです。申し訳ない」
つぶやくようにそう言うと、腕の中の沙羅に目を落とす。
「沙羅くんも防御はしたんでしょうが、なにぶん至近距離にいたので影響をまともに受けた。でも、命に別条はないので心配はありません」
寺崎はその言葉に、はっとしたように目を見開いた。
「紺野、おまえ……俺に早く帰れ帰れって言ってたのは、まさか」
その言葉に、紺野はようやくゆるゆると振り返った。
「こうなることが分かっていて、おまえ……」
「分かっては……いませんでした」
紺野はつぶやくように答えると、自嘲気味に笑う。
「でも、何が起こるか分からなかったので、……よかったです。神代さんでさえ、こんなことになってしまって……寺崎さんだけでも、無事で」
そう言うと、左手で顔を覆った。前髪を抜けるほどきつくつかんで、目を固く閉じる。
「本当に、すみません。部屋は壊すし、ケガはさせるし、迷惑ばかりかけてしまって……」
「何言ってんだよ、紺野」
寺崎は紺野の側に駆けよると、その肩に手を置いた。
「あの薬を飲めって無理を言ったのは俺だ。こうなったのは、俺の責任だ」
「いいえ。あの薬を飲むと最終的に決めたのは僕です。自分のことは、自分が一番よく分かっているはず……なのに、僕は自分が分からない」
うつむき加減の顔をおおう左手が、はっきり分かるほど震えている。
「ほんとうに、化け物ですよね。信じられない。こんな危険な人間は、本当に死んだ方がいいのかもしれない」
寺崎は言葉を失って紺野を見つめた。紺野の顔をおおっている指の間から、ぽろぽろと涙の滴が零れ落ちていく。
「生きたいだなんて生意気なことを言って、そんな資格もないくせに……。化け物には、生きる資格も意味もない。僕は一刻も早く死ぬべきなんです!」
「落ち着け、紺野」
ショックから来る、一時的な錯乱とでも言うべきか。寺崎の言葉も聞かず、紺野は頭を抱えて叫び続けた。
「あいつがああなったのだって、僕が化け物の遺伝子を持っていたからだ。全ては、僕のせいなんです! 僕が、存在しているから……」
「紺野!」
突然、寺崎が大声で叫んだ。
有無を言わせず襟首をつかみ上げられ、半分足が宙に浮いた状態になった紺野は、はっとわれに返ったように寺崎を見た。
「……落ち着け、紺野」
寺崎は紺野を優しく見つめながら、静かに言葉を継いだ。
「おまえが死んだら、俺は嫌だ。……承知しねえ」
それから、少し苦笑めいた笑みを浮かべた。
「第一、こんな化け物がいるかよ。変に優しくて、人に気ばっかり遣って、家事が得意で、……もしいたとしても、怖くもなんともねえ」
寺崎はそっと紺野の襟首を離すと、笑った。
「おまえは、化け物なんかじゃねえよ」
「寺崎さん……」
「おまえは俺の家に下宿してる、料理上手で早起きの、ちょっと変わった高校生、紺野秀明だ。それ以外の何者でもねえ」
紺野は何とも言えない表情で寺崎を見つめた。
と、今まで黙って二人の様子を見ていた亨也が、おもむろに口を開いた。
「死んだりしたら、私も承知しませんよ」
紺野はゆるゆると振り返って亨也に目を向ける。
「あなたは今回、何ひとつ責任を感じる必要はありません。あなたの力を計り損ねて強すぎる薬を処方した私の責任です。それどころか、私はあなたに大変な精神的負担を強いてしまった。本当に、申し訳ありませんでした」
そう言って頭を下げてから、いたずらっぽい表情で問いかける。
「第一、もしあなたが化け物だったら、私も化け物ってことになってしまう。私は、化け物なんですか?」
紺野は驚いたように目を見張ると慌てて頭を振る。
「それなら、あなたも化け物じゃないですよね。私とあなたは似たようなものですから」
紺野はそれ以上何も言えず、目線を落として黙り込んだ。
亨也は小さく息をつくと何ともやるせない表情を浮かべ、うつむいている紺野を見つめた。
「それにしても、今までずいぶん抑えていたんですね。わずか一錠でこのありさまですから……。本当に、大変だったでしょう」
寺崎も身を切られるような思いで、うつむく紺野の茶色い髪を見ていた。
「一刻も早く、場を整える必要がありますね」
「場?」
いぶかしげに繰り返した寺崎に、亨也はうなずいてみせる。
「紺野さんが力を完全に解放できる場です。そうして一度、自分の能力の最高値を知ることができれば、恐らくこの頭痛はなくなっていくはずです」
寺崎は大きくその目を見開いて、亨也の口から紡ぎ出される言葉に全神経を集中する。
「今、神代財団がアリゾナに所有している遊休地を、この目的で使用するために準備しています。ただ、遊休地とはいっても、完全に敷地内から人を立ち退かせ、破壊されて困る物は移動させてからでないと、安心して力を発散させることはできませんから。今、その移動にちょっと手間取っているらしくて。でも、事情を伝えて、今週末には使用ができる状態にします。そうでないと、あなたの体は多分、……もたないでしょう。こんなに強いエネルギーを毎回毎回抑えているとなると。脳がどうのこうのという以前の問題です」
「神代総代、いつ、それをするんですか?」
「今週の土曜日にできるようにします。それ以上、待っていられない。それまでに何とか状況が整うよう、私も努力します」
「今週の土曜……」
寺崎はつぶやくと、うなだれて立ちつくしている紺野の方に勢いよく振り返り、興奮気味に言葉をかけた。
「そっか、よかったな、紺野! 土曜まで何とかがんばれば、おまえ、頭痛が治るかもしんねえぞ!」
だが、紺野は先ほど同様、うなだれたままで黙っている。
「なんだよ紺野、嬉しくねえの?」
寺崎は訳が分からないとでも言いたげに首をかしげた。
紺野はしばらくの間、足元を見つめながら何も言わなかったが、やがて重い口を開いた。
「……できるんでしょうか」
「え?」
寺崎が聞き返すと、紺野はゆっくりと顔を上げ、亨也を見た。
「完全な解放なんて、可能なんでしょうか。僕は今まで、一度も自分の力を出し切ったことがない。どのくらいの影響が出るのか、予想が全くつきません。それに対する恐怖心もある。果たして、出し切れるのかどうか……」
「大丈夫ですよ」
紺野の不安を和らげるように、亨也は明るく言い切ってみせた。
「神代には、長年培ってきた解放時のノウハウがありますから心配はいりません。確かに、子どもに対して行うのとは訳が違うとは思いますが、基本は一緒ですから。あなたの場合、薬がかなり奏効するということも分かりましたから、いざとなったら薬の力も借ります。私も付き添いますし」
「俺も行くよ、紺野!」
勢い込んでこう言った寺崎に対し、亨也は申し訳なさそうな表情を浮かべると、首を振った。
「寺崎さんは、今回はご遠慮いただけますか」
寺崎は心底驚いたように目を丸くする。
「え⁉ どうしてすか?」
「今回は、私だけ付き添います。この部屋の状況を見ていただいて分かるとおり、紺野さんの潜在的能力はかなりのものです。異能のない人間がその場に行くことは避けた方がいい。私ももしもの時、あなたを守りきる自信がない」
寺崎はぼうぜんと亨也を見つめていたが、やがてゆるゆると紺野に目線を移した。紺野は相変わらずうつむいたまま、じっと足元を見つめているだけだ。
と、亨也の腕に抱かれていた沙羅が、小さくうめいた。
紺野ははっとしたように顔を上げる。
目を開けた沙羅は、しばらくはぼうぜんと天井のあたりを見つめていたが、自分が亨也の腕に抱かれていることに気づくと、息をのんで真っ赤になり、慌てて体を起こした。
「あ、す、すみませんでした、総代……」
「大丈夫?」
心配そうに自分をのぞき込む亨也の視線を受け止めきれず、沙羅は赤くなってうつむいた。
「ご心配をおかけしたみたいで、すみません。とっさにシールドは張ったんですが、シールドごとはじき飛ばされたみたいで……でも、大丈夫です」
と、沙羅のそばに紺野が歩み寄ってきた。沈痛なおももちで長いまつ毛を伏せると、深々と頭を下げる。
「申し訳ありませんでした、神代さん……」
「これで、チャラね」
「え?」
思いがけない返しに戸惑ったような表情を浮かべている紺野に、沙羅は明るく笑いかけた。
「私、あなたに借りがあったから。これでチャラってことで、いいわよね」
紺野はとんでもないとでも言いたげな表情だったが、沙羅は半ば強引に言い切ると、その場から立ちあがろうとする。
刹那。沙羅は息をのんだ。
「……!」
右足に全く力が入らず、バランスを崩して倒れかけた沙羅の体を、亨也が素早く抱きかかえる。
「右足が、折れてるね」
亨也の一言に、紺野の顔から音を立てて血の気が引いた。
沙羅を座らせると、亨也は彼女の右足の太ももにそっと手を添える。
「失礼するよ。たぶん、すぐに治るから」
沙羅は言葉もなくうなずくと、すぐ目の前にある亨也の横顔をドキドキしながら見つめた。こんなに間近で亨也の顔を見るのは初めてだったのだ。その端正な横顔を、思わずうっとりと眺めやる。
対照的に紺野は、沙羅にケガをさせてしまったことがよほどショックだったのだろう。真っ青な顔で立ちすくんでいる。
亨也はそんな紺野にちらっと目を向けた。
「さて、問題は今夜ですね」
「……え?」
首をかしげる紺野に、亨也は困ったようなほほ笑みを投げた。
「循環器科で空いている個室はここ一室きりなんです。他の病棟の個室も今のところ満杯で空きがない。まさか大部屋に行かせるわけにもいきませんし」
その言葉に、寺崎がぱっと顔を輝かせた。
「総代、そんなら紺野は、うちに帰ってくれば……」
「それは無理でしょう」
亨也は申し訳なさそうにその言葉をさえぎった。
「紺野さんはいつ頭痛が起きるか分からない状況ですから。あなたの家でそんなことになったら、あなた方だけではなく、アパートに住んでらっしゃる皆さんが危険にさらされてしまう」
寺崎は返す言葉もなく黙り込んだ。確かに亨也の言うとおりだ。もしそんなことになれば、また紺野につらい思いをさせてしまうのだ。
すると紺野は、小さい声でこう言った。
「僕は……倉庫でもどこでもいいです。どこか人気のないところへ入れていただいて、お手数ですがシールドをかけていただければ、あとは何とかなりますから……」
亨也は沙羅の足を治療しながら、苦笑した。
「患者を倉庫なんかに押し込めたりしたら、それこそ病院の信用に関わりますよ」
「でも……」
「うちに来ますか?」
寺崎も紺野も、そして沙羅も、目を丸くして亨也を見つめた。
「私がそばにいれば、ある程度能力発動にも対応できますし、その都度シールドもかけ直せます。少々狭苦しくて申し訳ないのですが」
紺野は黙って考えていたが、やがて小さくうなずいた。
「よろしくお願いします」
寺崎はそんな紺野を、何とも言えない表情で見つめていた。