6月19日 2
病室に戻ってきた寺崎の気配に気付いたのか、荷物をしまっていた紺野は、振り返って明るい笑顔を見せた。
「着替えを持ってきていただいて助かりました。ありがとうございました」
そう言って荷物の仕分けを続けようとした紺野の肩を、寺崎は無言でつかんだ。いぶかしげに振り返りかけた紺野を、無理やり体ごと自分の方に向ける。そうして、じっとその目を見つめた。
「……寺崎さん?」
「紺野、おまえ……薬、飲め」
紺野は驚いたようにその目を見張った。
「どこにあるんだ? その薬。俺が飲ませてやる」
言うなり、引き出しを片っ端から開け始めた寺崎を、紺野は慌てて止めようとした。
「どうしたんですか? やめてください、寺崎さん……」
ベッドサイドの引き出しに入っていた薬を見つけると、寺崎はそれを取り出して表書きを斜め読みし、袋の口を開ける。
「一回二錠、一日二回か……」
「やめてください、僕はそれは……」
紺野には一切構わず、寺崎は錠剤を二錠取り出した。それを握りしめると、おもむろに紺野の方に向き直る。
「寺……」
思わず一歩後じさった紺野の腕をつかみ、有無を言わせず自分の方に引き寄せる。凄い力だった。抗えようもなく引き寄せられた紺野は、それでも必死に顔を背け、堅く口を閉じた。
「口、開けろ! 紺野!」
火を吐くように怒鳴りつける寺崎。だが、紺野は目も口も堅く閉ざし、首を大きく横に振る。寺崎は業を煮やしたのか、紺野の前髪をわしづかみにして顔を無理やり上向かせた。
「飲め! 紺野!」
それでも紺野は、堅く閉じたその口を開けようとしなかった。
その時、自分の頬に何か冷たいものが当たった気がして、違和感を覚えた紺野は閉じていた目を開き……大きくその目を見開いた。
寺崎の目から、涙があふれていた。
止めどなくあふれ出したその滴が自分の頬にぽたぽたとしたたり落ちるのを感じながら、紺野は凍りついたように寺崎の顔を見つめた。
「飲んでくれ、紺野……頼む」
寺崎はそう言うと、紺野の前髪から手を離した。足がなえたかのように床に座り込み、左手でうつむいた顔を覆う。そうして、肩を震わせながら声もなく泣いている。
紺野はその場に立ち尽くしたまま、そんな寺崎を半ばぼうぜんと見下ろしていた。
「寺崎さん……」
「紺野、おまえ……もっと自己中になれよ」
寺崎は嗚咽に声を詰まらせながら、絞り出すように言葉を継いだ。
「あんなに痛えんだから、自分のことだけ考えてりゃいいんだよ。後のことは、神代総代に任せてさ。自分の痛みを軽くすることだけ考えてろよ」
紺野は何とも言えない表情でそんな寺崎を見下ろしていたが、やがて静かに頭を振った。
「そういうわけにはいきません。自分が起こしたことの責任は、自分でとらなければ……」
そう言うと、鈍く光るリノリウムの床を見つめる。
「僕は、それを飲んで起こりうる事態の責任を取る自信が、ない。僕は十六年前、あれだけの人を傷つけ、殺してしまった。もうこれ以上、誰も傷つけたくないんです。たとえそれが、偽善だと言われようとも……」
「じゃあ、俺はどうしたらいい?」
紺野ははっと顔を上げ、寺崎を見た。
「つらいんだよ! 側にいても、俺は何もしてやれねえ。ただ痛がるおまえを、おろおろ見ていることしかできねえなんて、……つらすぎんだよ!」
「寺崎さん……」
「おまえが薬を飲んでくれれば、俺は少し安心できる。おまえと違って、俺は自己中なんだ。俺を安心させてくれ。頼む! これを飲んでくれ」
紺野は黙り込むと、寺崎が差し出している薬をじっと見つめていたが、ややあって、静かに口を開いた。
「あなたは、十分すぎるくらい僕にしてくれています」
寺崎は悲しげに鼻で笑うと、頭を振る。
「たかが洗濯や買い物くらい、俺じゃなくたって……」
「そうじゃありません」
寺崎の言葉を遮ると、紺野は顔を上げた。
「あなたが僕に会いに来て、明るく笑って、頭をぐしゃぐしゃなでてくれて……」
寺崎はゆるゆると顔を上げ、紺野を見た。目の前にたたずむ紺野の、そのやつれた頬には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「優しい言葉をかけてくれて、冗談を言って笑わせてくれて、たまに怒って……」
「紺野……」
「僕は、そのひとつひとつが本当に嬉しいんです。自分は一人じゃないって、そう思えることが……嬉しいんです」
言葉もなく自分を見つめている寺崎に、紺野は恥ずかしそうに笑ってみせた。
「寺崎さん、僕が女だったら惚れてたかもって言ってましたけど、僕のほうこそ女だったらきっと、寺崎さんに惚れてましたよ」
「……何言ってんだか。バカ」
寺崎はうつむくと、少し笑ったようだった。紺野もほっとしたように笑うと、寺崎に歩み寄る。
ゆるゆると顔を上げた寺崎の眼前に、紺野は右手を差し出した。
「一錠、ください」
寺崎は瞬ぎもせず紺野を見つめた。
「一錠なら、大丈夫かも知れない。いきなり二錠は恐ろしくてとてもできませんが、試しに一錠飲むだけなら……」
「……いいのか?」
紺野はうなずくと、心なしか悲しげな表情で、笑った。
「これ以上、寺崎さんを心配させられませんから」
寺崎は手のひらで温かくなった薬を一錠、そっと紺野に渡した。紺野はそれを受け取ると、しばらくの間じっとそれを見つめていたが、やがて吹っ切るように目をつむり、口に放り込んだ。
息を詰めてそれを見守る寺崎の目の前で、紺野は確かにそれを飲み込むと、肩をすくめて笑った。
「これで、いいですか」
寺崎はうなずくと、そのまましばらく下を向いて黙っていたが、ややあってポツリと口を開いた。
「すまねえな、紺野」
紺野は寺崎を優しい目で見つめながら、小さく首を振る。
「俺は弱えな。自分を安心させるために、おまえに無理させちまって……でも、マジで耐えらんなかったんだ。ゴメンな、紺野……」
紺野はうつむいている寺崎の側に膝をついて座ると、その顔をのぞき込むようにして頭を下げた。
「僕の方こそ、すみません」
「紺野……」
「こんなに心配をかけてしまって。本当に情けないですね。早く元気になるようにがんばりますから、許してください」
再び喉の奥が強ばってくるのを感じながら、寺崎はやにわに紺野の肩を抱き寄せた。
「マジで約束だからな! がんばれよ、紺野!」
「……はい」
そうして二人はしばらくの間、抱き合ったまま、泣いた。
☆☆☆
学習進度を伝えながら、寺崎は横目で時計を見た。
寺崎が見舞いに来てから、二時間ほどになる。その間、頭痛の兆候はない。さきほどの薬が効果を発揮しているのかもしれないと、寺崎は内心嬉しかった。
「ありがとうございました。助かりました」
にっこり笑って軽く頭を下げてから、紺野は枕元の時計を見やり、心配そうに表情を曇らせた。
「そろそろ帰って家のことをしないと、みどりさん大変なんじゃありませんか?」
「え? んなことねえよ。おふくろだってほんとはこっちに来たいんだけど、なにぶん総代から止められちまってるからな。その分、家のことは自分がやるから気にしないで行ってこいって言ってた。大丈夫だよ」
「そうですか」
うなずきながらも、何やらそわそわしている紺野の様子を寺崎がいぶかしく思った時、ノックの音がして沙羅が入ってきた。
「回診の時間なの。お邪魔してよろしいかしら」
「あ、もちろんっす。どうぞ」
沙羅はバイタルサインをひととおりチェックすると、丸椅子に座り、問診を始めた。体調や食事量などの一般的な質問の後、頭痛についての問診に移る。
「今日は朝から、何回あった?」
「五回です」
紺野は自分で記録していたメモを見ながら答える。
「痛みの程度は?」
「強いです」
「昨日より?」
無言でうなずいた紺野を、ベッド脇にたたずむ寺崎は何とも言えない表情で見つめた。
「継続時間は分かる?」
「三分くらいだと思います。恐らく……」
「痛む部位は? 相変わらずおでこの上辺り?」
「このところ後ろの方にも波及しているような気がします」
「そう……」
沙羅は小さくため息をつくと、紺野の目を見る。
「で、例の薬は? 飲んだ?」
その問いに紺野が小さくうなずいたので、沙羅は驚いたように目を見張った。
「本当?」
「はい。一錠ですが……」
振り返った沙羅に、寺崎も無言でうなずいてみせる。沙羅は感心したようにうなずきながら、慌ててメモをとった。
「それを飲んだのは、何時頃?」
「三時半、くらいでしょうか」
「二時間前……」
腕時計を見ながら、沙羅はつぶやいた。いくぶん緊張したような面持ちで、意識を集中するように目を閉じる。
「一応、総代に送信しておいたわ。何が起きても対応できるように」
沙羅が問診の結果をカルテにまとめ始めると、紺野は寺崎の方を振り返って、笑顔を作った。
「今日はありがとうございました。そろそろ食事になってしまうと思うので、ここまでにしていただいてもいいですか?」
「あ、ああ、……そうか?」
なんだか紺野が自分を帰したがっているような気がして、寺崎はひっかかった。
――もしかして、疲れたのかな。
寺崎は紺野の顔を注意深く見つめる。心持ち、青ざめているようにも思える。あれだけの痛みと毎日格闘しているのだ。頭にばかり気を取られがちだが、腹にだって大きな傷を抱えている。無理をさせると、また熱を出すかも知れない。
寺崎は手早く荷物をまとめると、立ちあがった。
「じゃ、紺野。今度は土曜に来るから。それまでがんばれよ」
紺野はにっこり笑って、うなずいた。
「ありがとうございました。みどりさんにも、よろしくお伝えください」
寺崎は片手を上げてにっと笑うと、病室を出て行った。
横開きの扉が静かに閉まると、紺野は小さく息をつく。
沙羅はカルテから顔を上げ、そんな紺野を複雑な表情で見つめた。
「……巻き込みたくないのよね」
紺野は答えなかった。ただ、間もなく来るであろうあの痛みがいったい何を引き起こすのか、恐怖にも似た思いを抱きつつ、それを静かに待ち構えていた。
☆☆☆
寺崎はエレベーターを降りると、受付でバッジを返して病院のエントランスを抜けた。
自動ドアをぬけて外に出る。見上げた夕空には雨こそ降っていなかったが、重苦しい雲が立ちこめて月も見えない。出口の見えない現状を象徴しているような気がして、寺崎は鼻でため息をついた。
その時だった。
寺崎の頭上で、高く鋭い破壊音が響き渡ったのだ。
はっとして上方を振り仰いだ寺崎の目に、はるか上空から降りそそいでくるガラス片のきらめきが映り込む。
――危ねえ!
反射的に寺崎は、五メートルほど飛び退った。直後、先ほど寺崎が立っていた地面に、落下してきたガラス片が銃弾のごとく次々に突き刺さる。
「何だ? これ……」
寺崎は上階を見上げた。八階辺りだろうか? 病室の窓ガラスが吹き飛んだらしく、枠だけになっている。あの辺は確か、循環器科の病棟……。
寺崎は、はっとその目を見開いた。
――紺野!
寺崎は踵を返すと、猛然と走り出した。