6月17日 1
6月17日(月)
自分の席に座った出流は、メモ帳を出してペンを握ると、ちらっと前方に目を向けた。
窓際で、数人の男子生徒が話をしている。その中で寺崎はひときわ背が高く、精悍な印象だ。出流はその横顔を見ながら、昨日のことを思い出していた。
あの河原で魁然玲璃とキスしていた、寺崎。あの二人が普通の友だち以上の関係だということは、ずいぶん前から分かっていた気がする。だが、その証拠をまざまざと見せつけられ、出流は食事ものどを通らないほど落ち込んでいた。
と、出流の握っていたペンが動いた。出流はぼんやりとその文字に目を向ける。
『元気だして』
「ありがと、優ちゃん」
出流は力なく笑うと、絞り出すような深いため息をつく。
「あたしも元気出したいんだけど、……無理みたい」
出流の右手は何を言ったらいいかわからないらしく、しばらくは戸惑っているように動かなかったが、やがてゆっくりとこんなことを書いた。
『いずるちゃんは、あんな女よりきれいだよ』
出流は寂しげにほほ笑んで頭を振った。
「ありがと。でも分かってるから。あたしじゃ、太刀打ちできないって」
出流の大きな目に見る見るうちにたまった涙が、ぽとりとメモ帳にこぼれ落ちる。
「諦めるしか、ないんだよね……」
すると出流の右手は、慌てたようにこう書き殴った。
『自信持って。彼だけが男じゃないし』
「そうは言ってもね……」
しばらくの間、右手は迷うように動きを止めたあと、元気なくうつむいた出流に向けてこんな文字を書いた。
『もっと、目立とう』
出流はきょとんとして、その文字を見つめた。
『存在感、出そう。協力するから』
「どうやって……」
言いかけた時、出流は自分の机の脇に誰かが立ったのに気がついて、慌ててメモ帳を閉じた。顔を上げると、誰だっただろう? あまり話したことのない男子が立っている。眼鏡をかけた、涼しい目元の男だ。
「あ、あの、村上さん」
「えっと、……?」
「黒川です」
眼鏡の男はそう言ってちょっと笑った。確か、同じクラスの美化委員だ。出流はようやく思い出せたので、ほっとして笑顔になった。
「そうだった、黒川くんだ。……何ですか?」
黒川はちょっと赤くなると、いくぶん声を潜める。
「ちょっと、話があるんです。昼、一緒に食べませんか?」
突然の申し出に、出流は戸惑ったように右手に注意を向ける。右手が小さくOKマークを作ったので、出流は慌てて黒川に顔を向け、うなずいて見せた。
☆☆☆
「抑制の反動、ですか」
紺野は、遠い目をしながらぽつりと言った。
亨也はうなずくと、そんな紺野の横顔を何とも言えない表情で見つめる。
ややあって紺野は小さく息をつくと、黙り込んでいる亨也の方に顔を向けた。
「どうしたらいいんでしょうか」
亨也は、手元の検査結果に目を移した。
「昨日の検査で、現在投与している薬……これは脳に傷を受けた場合に起こりやすくなる、てんかんなどの発作を未然に防ぐために投与しているものですが、この薬がどうやら頭痛に関係しているらしいことが分かったんです」
紺野は黙って、亨也の話にじっと耳を傾けている。
「簡単に言うとこうです。この薬には、脳の興奮を落ち着かせる作用があります。だから多少ぼうっとしたり、眠気が出たり、普段より反応が鈍かったりする様子がみられるんですが、この作用が、今まで紺野さんの能力を抑制していた脳の働きも緩めている。その結果、今まで抑えられていたはずの能力が暴走し、表層に出ようと自分自身を攻撃した結果、あのような頭痛を引き起こしている。本当に単純に言っていますが、こんな感じなんです」
「それなら、その薬をやめればいいんでしょうか」
亨也はゆっくりと頭を振った。
「そういうわけにはいきません。この薬は、脳波の状態を見ながら最低でも半年は飲み続けなければならない。私の能力でも発作は止められません。発作が起きれば、脳に何らかの障害が起こります。脳の修復をすることは私にもできませんから、最悪の場合、死に至ります」
「では、どうすれば……」
「一度、能力を完全に解放し、最大値を見極めるしかないと思います」
「完全な解放?」
心なしか不安そうな声音でそう繰り返した紺野に、亨也はゆっくりとうなずき返す。
「沙羅くんからも聞いたと思いますが、われわれ神代の能力保持者は幼少期に一度、自分の力を完全に解放し、その最大値を見極める訓練を行います。あなたはそれをしていない。そのゆがみが、頭痛の最大の要因なんです」
亨也はひと呼吸置いてから、さらに続けた。
「あなたは自分の能力の最大値を把握し、適切にコントロールする必要がある。それができるようになれば、能力が行き場を失って暴走することもなく、自分自身を攻撃する事もなくなるでしょう」
亨也は言葉を切って、紺野を見た。紺野は幾分青ざめた顔で、しばらくの間何も言わなかったが、ややあって、心なしか震える声を絞り出した。
「そんなこと、可能なんでしょうか……」
亨也は、きっぱりとうなずいた。
「それは、私たちが何とかします」
そう言うと、不安そうに自分を見つめる紺野に、優しくほほ笑みかける。
「あなたはなにも心配しなくていい。私たちが、責任を持ってその場を整えます。ただ、そのためには少し時間が必要なんです。できる限り急ぐので、それまでの間、何とか持ちこたえてください」
そこまで言うと、亨也はつらそうに目を伏せる。
「この頭痛に関しては、痛みをなくすことは難しい。麻酔でもかけて意識を失えば別ですが、そんな状態でずっといるわけにもいきません。本当に、申し訳ないのですが……」
「しかたがありません。神代さんのせいではないですから。でも、場を整えると言っても、どうやって……」
「心配しないでください」
亨也は紺野の言葉をさえぎると、にっこり笑って見せた。
「それを考えるのが、われわれの役目なんです。われわれも、あなたに何か返すことができるんですから、嬉しいんです」
戸惑ったような表情を浮かべている紺野を優しく見つめながら、亨也は静かに言葉を継ぐ。
「沙羅くんから聞きました。あなたがやっと、普通に生きたいと思えるようになったと」
紺野はハッとしたように目を見開いた。
「それを聞いて、私も本当に嬉しかった。だから、全力でそのサポートをします。させてください」
紺野はしばらくは黙っていたが、やがてためらいがちに口を開いた。
「昨日の話、聞いていたんですか」
「沙羅くんは、能力発動を感じて駆けつけたんですが、入るに入れなかったそうですよ。立ち聞きのようになってしまって、申し訳ないと言っていましたが。許してやってください」
「別にそれは構わないんです。ただ、……」
紺野は言いよどんで、いったん言葉を切った。
「あのあと、よくよく考えてみると、矛盾している事に気がついて」
「矛盾?」
紺野は遠慮がちにうなずいた。
「あの時は、確かにそう思っていたんです。生きたいと。皆さんと、一緒にいたいと。でもその一方で、僕は死んでも構わないと思っていることに気がついた。あいつがそれを望むなら、いつ死んでも構わないと」
紺野は亨也を見ると、困ったように笑った。
「おかしいですよね。ずっと生きていたいと思っていながら、死んでも構わないだなんて。それに気がついて、いったい自分はどうしたんだろうと訳が分からなくなりました。やっぱり薬の影響で、頭がぼうっとしているんでしょうか」
亨也は首を横に振り、何とも言えない表情を浮かべた。
「それが普通ですよ」
「え?」
驚いたように顔を上げた紺野の目に、自分を見つめる亨也の優しいまなざしが映り込む。
「人間なんて矛盾だらけです。何の矛盾もなく、いつも理路整然としている人間なんていないですよ。矛盾して、迷って、戸惑って……、それでも少しずつ前へ進んでいくのが人間なんです」
そう言うと、自分を見つめている紺野にほほ笑んで見せる。
「あなたは本当に優しくて、他人のことばかり気にかけていた。私は正直、それが心配でした。でも今回初めて、生きたいという自分の意志が見られたことで、なんというか、すごくほっとしてるんです。それが少々矛盾したものであっても、仕方がないと思います。気にしなくていいですよ」
紺野は亨也の顔を黙って見つめていた。
「そんなことは気にせずに、生きたいと思い続けてください。とても大切な気持ちですから。大事にしてください。あとのことは、われわれに任せて」
「神代さん……」
紺野は亨也の顔から目が離せなかった。彼の言葉が耳に入るたび、ふっと気持ちが軽くなるのを感じた。背負っていた荷物が、少しずつ取り除かれていくような……。他人の語る言葉でそんなことを感じられたのは、生まれて初めてだった。
黙り込んだ紺野を優しく見つめながら、亨也はおもむろにポケットから白い袋を取り出した。
「気休めと言われればそれまでなんですが、どうしても頭痛が耐えられない時は、これを飲んでください」
紺野はその袋を受け取ると、しげしげとそれを眺めやる。
「これは?」
「ターミナルケアで使用される痛み止め、言ってみれば麻薬です。これを飲めば、幾分痛みが緩和されると思います。ただこの薬は、現在投与している薬と相乗作用があり、多量に飲むと呼吸抑制などが起きる可能性がある。服用は、一日二回が限度です」
こう言うと、亨也は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「これを飲んでも、おそらくあの頭痛は完全にはなくならないでしょう。あなたが能力発動を無意識に抑えようとする限り。ですから、できるだけ早く根本的な治療に入れる体勢を整えます。これはその間の、つなぎです」
紺野は手にした袋をじっと見つめていたが、やがて小さな声でこう聞いた。
「これを飲むと、頭痛の時の能力発動はどうなるんでしょう」
しばらく間が空いたが、ややあって亨也は重い口を開いた。
「疑似解放のような形になるので、それまでより発散の程度が大きくなる可能性はあります。この頭痛は能力発動の抑制行動そのものに端を発しているので。それをなくさない限り、痛みの軽減はありえません」
そう言うと顔を上げ、とりなすように笑って見せる。
「安心してください。私もそれに合わせてシールドのレベルを上げておきます。頻繁に部屋の様子も見ます。なにより、今は沙羅くんが専属でついているわけですから、変化には敏感に対応できると思います。あなたは何も心配することはないですよ」
紺野は黙って薬の袋を見つめていたが、やがて静かにそれを亨也に差し出した。
「大丈夫です」
「……紺野さん?」
「ただでさえお忙しい中、ご迷惑をおかけしているのに……。これ以上、皆さんの手を煩わせるようなまねはできません」
紺野は顔を上げると、穏やかに笑った。
「心配していただいて、本当にありがとうございます。でも、僕は大丈夫ですから」
亨也は困惑したように紺野を見下ろしている。紺野はそんな享也の視線から逃れるようにうつむくと、言葉を継いだ。
「いくらシールドをかけていただいたとしても、僕は自分の力が把握できていない分、何が起こるか予測できないことが、……怖いんです。もし先日のように、誰かにケガをさせてしまうような事態になったらと思うと……」
紺野はそこまで言って、はっとしたように顔を上げ、ベッドから体を起こした。
「そういえば、あの時ケガをされた看護師さんは、どうなりましたか?」
亨也はうなずくと、安心させるようにほほ笑んで見せる。
「あのあと、私の方で治療をさせていただきましたから心配ありません。まだ包帯はとれていませんが、恐らく傷あとはほとんど残らないでしょう。仕事にも、もう復帰していますよ」
「そうですか……」
紺野は心底ほっとしたように息をつき、再びベッドに寄りかかると、頭を下げた。
「ありがとうございました。いつもすみません」
そう言うと、手にした薬の袋を再度差し出す。
「とにかく、これは結構です。せっかくお気遣いいただいたのに、申し訳ありませんが……」
亨也が眉根を寄せ、口を開きかけた、その時だった。
紺野が差しだしていた薬の袋が、ぽとりとその手からこぼれ落ちた。
――来る!
亨也ははっとしてシールドを強化する。
紺野は体全体から白い気をほとばしらせながら、無言で頭を抱えて丸まった。激痛に歯を食いしばり、呼吸を止めて、固く閉じられた目の際からは、涙が流れ落ちる。
胸が締め付けられるような気がして、いてもたってもいられなくなった亨也は、うずくまる紺野を抱え込むと、思わずこう送信していた。
【紺野さん、抑えないで! 発散してください! 私が抑えるから、……お願いです!】
だが、紺野は言葉もなく震えながら頭を抱えているだけだけだ。亨也は見ていられず、奥歯をかみしめて目を固くつむった。
やがて白い気の発散は潮が引くように収まり、窓ガラスを震わせていた空震がおさまり、病室は再び生暖かい静寂に包まれる。
再び目を開いた亨也は、腕の中の紺野がぐったりしていることに気がついた。
「紺野さん? どうしました⁉」
ぞっとして、思わず大きな声で呼びかける。と、紺野はその目を薄く開いた。どうやら、痛みで気を失っていたらしい。紺野はぼんやりと中空を眺めていたが、はっとしたように目を見開くと、慌てて体を起こして頭を下げた。
「あ……すみません。大丈夫です」
額から流れ落ちる汗を拭いながら恥ずかしそうに笑ってみせる紺野を、亨也はまじろぎもせず見つめていた。
紺野は床に落ちてしまった薬の袋を取ろうとベッドを降りた。だが、紺野がその袋を手にする寸前、横合いから差し出された享也の手が袋を拾い上げ、紺野のベッドサイドの引き出しにしまい込んだ。
「とにかく、持っていてください」
戸惑ったように亨也の顔を見やった紺野は、はっとしたように目を見開いた。
顔をそむけるようにしている亨也の目から、涙のしずくが零れ落ちるのが見えたのだ。
「使うも使わないも、あなたの自由です。ただ、私としては使ってほしい。その結果、引き起こされるであろう事態の収拾は私が責任を持ってします。信用していただきたい」
紺野は信じられなかった。いつも自信に満ちて、落ち着いていて、頼りになるこの男が、他ならぬ自分のために涙を流しているのだ。あまりのことに、紺野は何を言うこともできず、その横顔をぼうぜんと見つめるしかなかった。
「私はこれ以上、あなたにつらい思いをしてほしくない。これまで散々つらい目に遭ってきたのだから。せめてこれからは、できるだけ楽をしてほしい。そのための手だてを講じることが、自分にできるあなたへの償いであり、兄弟である証だと……私はそう思っているんです」
「神代さん……」
「本当につらい時は、きっと使ってください。私のことを信用して……お願いします」
紺野はなにかに耐えるようにうつむいた。
そうしてしばらくは黙っていたが、ややあって、小さくうなずいた。
「分かりました。もしもの時のために、いただいておきます」
その言葉にほっとしたように紺野を見た亨也は、うつむいている紺野の顔から、ポツポツと涙のしずくがしたたり落ちているの見て、目を見開いた。
少しだけ顔を上げた紺野は、泣き笑いのような表情を浮かべていた。
「僕は今、本当に幸せです」
「紺野さん……」
「皆さんにこんなにまで思っていただいて、本当に信じられないくらいです。ほんの数カ月前までは想像もつかなかった。僕のために涙を流してくれる人が、こんなに……」
嗚咽に言葉を奪われると、うつむいてその肩を震わせる。やがて涙にぬれた顔を上げると、紺野は絞り出すように言葉を発した。
「僕は、本当に生きたい」
「紺野さん……」
「生きて、皆さんと一緒にいたい。生きていたい。本当に、そう思います」
亨也も何とも言えない表情でほほ笑むと、深々とうなずいた。
「生きてください。私も、あなたと一緒にいたい。もっと長く、深く……。そのお手伝いをさせてください。精一杯、サポートしますから」
「よろしく……お願いします」
あふれる涙を拭いつつ、紺野は何度もうなずいた。紺野の肩に手を添えながら、享也も再びこみ上げてくる涙をこらえきれず、その目を固くつむってうつむいた。