6月16日 3
午後二時半。真昼だというのにどんよりと重苦しい雲がたれこめ、何だかもう夕方のように薄暗い。
その薄暗い河川敷を、寺崎と玲璃は無言で歩いていた。
紺野はこれから検査があるということで、まだ早い時間だったが二人は病室を出なければならなかったのだ。
寺崎も玲璃もうつむいて、何もしゃべらずに歩いていた。無言の二人の上に、生暖かい川風がやや強く吹き付けてくる。
玲璃は一定のリズムで踏み出される自分のつま先を見つめながら、紺野の様子を思い返していた。数日前とは比べものにならないほど回復していた。だが、それと同時に、とんでもない爆弾を抱えていることも分かった。それでも、自分たちに対しては終始穏やかな態度で接し、時折笑顔すら見せていた。その気丈な振る舞いの奥にある苦悩を思うと、玲璃は再び涙があふれてくるのを抑えられなかった。
慌てて目元を拭おうと、ポケットからハンカチを取り出す。その時、急に強い風が吹きつけてきて、ハンカチは一瞬で風にさらわれた。
「あ……」
普段の玲璃なら、取り返すことなどいとも容易くできただろう。が、この時の玲璃は、ただくるくると回りながら上昇していくハンカチを見送ることしかできなかった。そんなもの、もうどうでもいいような気さえしていた。
その時、隣を歩いていた寺崎が、突然走り出た。
三メートルほど軽々とジャンプし、宙に舞うハンカチを空中でキャッチする。音もなく着地した寺崎は、無言でハンカチを玲璃に差しだした。
「あ、……ありがとう」
玲璃は目線を微妙にそらしながら、小さく頭を下げる。寺崎は黙って首を横に振ると、再び足を踏み出した。
が、玲璃は足元を見つめたまま、その場にじっと立ち尽くしている。寺崎も足を止めると、振り返って玲璃を見た。
「……寺崎」
「はい」
「ちょっと、座っていいか?」
玲璃は寺崎の返事を待たずに、サイクリングロードを降りて河原の土手に腰を下ろした。
「悪い……。何か、つらくって」
そう言うと、玲璃は膝を抱えた腕に顔をうずめた。寺崎は心配そうな表情を浮かべながら戻ってくると、彼女の隣に黙って腰を下ろす。
しばらくの間、玲璃はそのままの姿勢で動かなかった。
二人の後ろを、マラソンをする中学生らしき集団が、元気のいいかけ声とともに通過していく。
そのかけ声がすっかり遠ざかった頃、玲璃はおもむろに顔を上げ、曇天の下をゆったりと流れる灰色の流れに目を向けた。
「……なあ、寺崎」
「はい?」
玲璃は川を眺めながら、つぶやくように言った。
「おまえは、……えらいな」
寺崎のけげんそうな視線に気づいたのか、玲璃は自嘲気味に笑った。
「私は紺野に何かしてやりたいと思っても、何をしていいのか分からない。今日だって結局、ただおろおろ泣いていただけだった。でもおまえは、おまえなりに自分の気持ちをちゃんと紺野に伝えて、やれることをやろうとしている。……えらいと思うよ」
そう言うと、首を巡らせて寺崎を見た。
「おまえ……紺野のことを、本当に大事に思ってるんだな」
寺崎は照れくさそうに目線を泳がせると、鼻の下なんかこすってみせる。
「まあ、そうっすね。俺、あいつ大好きですもん」
「そうだな。いつもそう言ってたよな」
「ああ、あれは……」
寺崎はいくぶん恥ずかしそうに笑ってから、目の前の草原に目線を落とした。
「あいつって、正直言って自分のことが嫌いなんだと思うんです。全然自分のこと大切にしねえし、何かあるとすぐ自分のせいにするし……だから、繰り返しああ言ってやれば、少しは自分のことを好きになるんじゃねえかと思って。それでわざと言ってたんです、しつこく」
「そうか」
玲璃は寺崎を見つめながら、なんとも言えない表情でほほ笑んだ。
「おまえ、ほんとうに優しいな」
その表情に寺崎は何だかドキッとして、思わず背筋を伸ばして赤くなった。急に先日の夜のことが鮮明によみがえってきて、体全体が脈打ち始める。
玲璃は川に目を向けると、しばらくは黙ってその緩やかな流れを見ていたが、やがてぽつりと、こう言った。
「おまえのこと、私はたぶん、……好きなんだ」
寺崎は、自分の耳を疑った。思わず、隣に座る玲璃をまじまじと見つめ直す。
玲璃はそんな寺崎にゆるゆると目を向けると、力なく笑った。
「でも、私は九月に結婚する。亨也さんは、私の思うようにして構わないと言ってくれた。でも、そんなこと申し訳なくて、私には……」
玲璃はうつむいて、唇を震わせた。栗色の髪に縁どられた頬を、涙が一筋、伝い落ちる。
「私は、どうしたらいいんだろうな」
「総代……」
「自分に素直に生きていいって言われても、九月に結婚することが分かってるんだ。それなのに、本当に素直に生きていいのか? そんなことをしたら、私はひどい人間だ」
寺崎は口を開きかけたが、何を言うこともできずに口をつぐんだ。目の前でぽろぽろ涙をこぼし続ける玲璃を、ただ見つめていることしかできなかった。
「亨也さんは本当に優しくて、大人で、ステキな人だ。私にはもったいないくらいだ。そんなステキな人が待っていてくれる。本当は、私はそれで満足すべきなんだ。それなのに……」
玲璃は言葉を切ると、顔をあげて寺崎を見た。涙にぬれてきらめく大きな瞳に吸い込まれそうな気がして、寺崎はそこから目が離せなくなる。
「それなのに私は、おまえを好きになってしまった」
玲璃はその大きな瞳から涙をあふれさせると、うつむいた。
「本当にひどい女だよな。気も利かないし、料理もできないし、たいしてきれいでもないし、何の取りえがあるわけでもないのに、ただ魁然の総代だってだけであんなステキな人をキープして、なおかつ、他の人を好きになって……」
「そんなことありません!」
突然、寺崎が玲璃の言葉をさえぎった。驚いたように顔を上げた玲璃の目に、自分をまっすぐに見つめる寺崎の、真剣なまなざしが映り込む。
「総代は、きれいです」
そのストレートな発言に、玲璃は目を丸くして真っ赤になった。
「しかも優しくて、頭が良くて、ちょっと面白いところもあって、……」
「……寺崎」
「責任感があって、リーダーシップもとれて、みんなをまとめるのがうまくて、決断力もあって、……」
寺崎は言葉を切ると、じっと玲璃の、その潤んだ瞳を見つめた。玲璃も、おずおずとそのひたむきな視線を受け止める。
「総代は、いいところだらけです。だから俺、総代に惚れたんです」
「寺崎……」
見つめ合ったまま、二人は黙り込んだ。
湿り気を帯びた重い川風が、向かい合った二人の髪を横合いから吹き散らし、駆け抜けていく。
寺崎が、玲璃の吹き散らされた髪に右手を伸ばした。顔にかかった髪を指でどけると、頬の丸みに沿わせるように、手のひらをそっとあてがう。
その間、寺崎は玲璃の目から視線を外さなかった。暴れまわる心臓の鼓動を感じながら、真剣に自分を見つめる寺崎の顔から、玲璃も目をそらせない。
ゆっくりと、寺崎の顔が玲璃に近づく。
それ以上間近で寺崎の目を見つめ続けることができなくて、玲璃は目を閉じた。
微かな寺崎の呼吸と、額をくすぐる前髪の感触を感じた気がしたが、唇が触れた瞬間のことは、玲璃にはもうよく分からなかった。
☆☆☆
「今、何時ですか?」
優子のバギーを押しながら佐久間が聞いてきたので、出流は腕時計に目をやった。
「二時四十五分です」
「じゃあ、そろそろ戻った方がいいかな。ここからゆっくり戻れば、ちょうど三時ごろ施設に着くから」
「そうですね」
にっこり笑ってそう言った瞬間、自分の右手がぐいっと引かれる感覚に襲われて、出流は驚いたように目を見張った。
――優ちゃん?
慌てて優子の顔をのぞき込むと、目線をくるくると泳がせていた優子は、何か言いたげに口を開きながら、微かに「あー」と声を立てた。
「あれ? 優ちゃん。どうしたの?」
優子の様子に気づいて、佐久間もその顔をのぞき込む。
「もっと、お散歩したいのかな」
「そうかもしれませんね」
出流はほほ笑んでうなずくと、優子の姿をもう一度見つめ直した。軽やかなワンピースのフリルが、川風にひらひらと揺れている。
「優ちゃん、本当にステキになったから」
その言葉に佐久間もほほ笑むと、遠くに目を凝らした。
「そうね。じゃあ、あの橋の所までいきましょう。あそこまで行ったら、引き返すから。それでどう?」
佐久間が優子の顔をのぞき込むと、優子はくるくると辺りを見回しながら、開いていた口を閉じた。
佐久間は出流にうなずいてみせると、再びゆっくりとバギーを押して歩き始める。
出流の右手ももう動かなかった。出流はくすっと笑うと、隣に並んで歩き始めた。
天気は今ひとつで、今にも雨滴がしたたり落ちてきそうな重苦しい曇天だったが、それでも川風が吹く河川敷は、マラソンをする人や自転車に乗る人たちが頻繁に行き来している。
出流はふと、前方に見える河原の土手に目をとめた。若い男女が肩を寄せ合って座っている。手前に座る男は、隣の女の頬に片手を添えて、じっとして動かない。何をしているのかがわかると、出流は赤くなって目をそらした。
――やだ、昼間から。信じられない。
だが、その男の後ろ姿に何か見覚えがある気がして、出流はもう一度怖ず怖ずとその男女に視線を送った。
ゆっくりとだが歩いているので、先ほどより距離が近づいていた。男女はようやくその顔を離し、恥ずかしそうにうつむいている女の顔が見える。
その女の顔に、出流は見覚えがあった。
――魁然、玲璃⁉
出流がはっとして男の方に目を向けたのは、ちょうどその男女の脇を通り過ぎる所だった。すれ違う瞬間、男の横顔がちらりと出流の目に入る。
出流は大きく目を見開き、息をのんだ。慌てて気づかれないように前方に顔を向ける。
――寺崎、くん。
頭の中が真っ白になって、何が何だか分からなくなった。膝がわなわな震えて、自分の足が、自分のものではないような気がする。ふわふわと不確かな足取りで歩きながら、出流はその後、佐久間と何を話したのかもよく覚えていなかった。