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輪廻  作者: 代田さん
第四章 転落
160/203

6月16日 2

 駅から離れた大通りから、さらに奥に入った路地の突き当たりに、つどいの家はある。

 出流はためらうようにその建物を見上げていたが、やがて思い切ったように自動扉を抜けると、受付脇のベルを押した。


『はい。つどいの家です』


 応対に出た女性の明るい声にあと押しされ、出流は緊張に頬を引きつらせながらも、怖ず怖ずと口を開く。


「あ、あの……、先日、施設交流でお世話になった、青南高校一年の、村上出流と申します」


『少々お待ちください』


 やがて軽い足音とともに、奥から見覚えのある女性が走り出てくるのが見えた。


「まあ、出流ちゃん!」


 佐久間の感激しきったような笑顔を見た途端、ようやく緊張がほぐれたのだろう、出流の表情が柔らかくなった。


「お久しぶりです。先日は、お世話になりまして、ありがとうございました」


「まあまあ、ご丁寧に。こちらこそお世話になって……。とにかく入って。みんな喜ぶわ」


 佐久間はすっかり相好を崩してそう言うと、出流を食堂に案内した。

 人気のない、静かな食堂の椅子に座って待っていると、やがて佐久間が大きなバギーを押してゆっくりと入ってくるのが見えた。出流は立ち上がると自分からバギーに歩み寄り、バギー上で目線をくるくると泳がせている優子の顔をのぞき込んだ。その目線の定まらない瞳をのぞき込み、白い頬に口元を寄せてささやきかける。


「優ちゃん、来たよ」


 くるくると視線を泳がせながら微かに口を開けた優子を見て、出流は嬉しそうににっこりと笑った。


「今日はどうしたの? 遊びに来てくれたの?」


 出流ははにかみながらうなずくと、手元の袋を持ち直す。


「今日は、優ちゃんにプレゼントがあって」


「え?」


 佐久間に、出流はおずおずとその袋を差し出した。佐久間は丁寧に袋を開けて中身を取り出すと、その目を大きく見はり、「まあ!」と感嘆の声を上げた。

 手のひらからするするとこぼれ落ちてしまいそうなほど柔らかい生地の、軽やかなシフォンワンピース。春らしいふんわりとした色合いが何とも可憐かれんなそのワンピースを、佐久間はしばらくの間うっとりと眺めていたが、やがてゆるゆると出流に視線を戻した。


「これを……優ちゃんに?」


 信じられないとでも言いたげな表情を浮かべている佐久間に、出流は遠慮がちにうなずいてみせる。


「前あきじゃないから、着せにくいとは思うんですけど……優ちゃん、色が白いから、こういう淡い色合い、きっと似合います」


 じっと出流を見つめている佐久間の目は、微かな湿りを帯びているようだった。


「……ありがとう、出流ちゃん」


 震える声でそう言うと、そっと目元を拭う。


「同年代の女の子から、こんなプレゼントをしてもらえるなんて……。優ちゃん、きっと喜びます。本当に、ありがとう!」


 佐久間の想像以上の喜びように、出流は顔を赤らめながら、慌てて首を振った。


「じゃあ、さっそく着せてあげてもいい? こんなステキなドレス、優ちゃん着たことがないから、早く着せてあげたいの」


「もちろんです。よかったら、着替え、手伝います」


「ありがとう、じゃあ、お願いしようかな。菱沼さーん、菱さん、ちょっと来てよ! 優ちゃん、こんなステキなドレスもらったの。着せてくるから、山さんたち、見ててくれる?」


 佐久間は大声で奥に向かって呼びかけると、出流とともに優子をカーテンのある部屋に連れて行った。



☆☆☆



 頬にかすかな空気の流れを感じて、紺野は閉じていた目を薄く開いた。

 ぼんやり霞んだ視界に広がる白い天井の一角に、誰かの顔が映り込む。心配そうに自分をのぞき込んでいるその顔は、やがてなじみのある温かい笑みを浮かべた。


「気がついたか、紺野」


「寺崎さん……」


 紺野がよろよろと起き上がろうとするので、寺崎は慌ててそれを制した。


「いいよいいよ、寝てろって。……大丈夫なのか?」


 紺野がうなずいたので、寺崎はリクライニングボタンを操作して上半身を起こしてやる。上体を起こした紺野は、そこで初めて、奥の窓辺にたたずんでこちらを見ている女性の姿に気がついた。


「……魁然、さん?」


「紺野、……大丈夫か?」


 枕元に歩み寄り、自分の顔をのぞき込んできた玲璃に、紺野はうなずくと、そのまま頭を下げた。


「また、ご心配をおかけしたみたいで……」


 玲璃は首を横に振ると、じっと紺野を見つめた。

 目元にかかる茶色い髪はすっかり薄汚れて束になり、こけてやつれた頬は色味がなく白っぽかったが、玲璃の耳に届いたその声も、伏し目がちな目元も、長いまつ毛も、相変わらずの控えめな態度も、以前の彼と何ら変わりない。

 玲璃の喉が引きつったように動いたかと思うと、見る見るうちにその大きな目に涙がいっぱいにたまり、瞬きとともに白い頬を幾筋も流れ落ちる。

 泣き崩れる玲璃を前に焦ったような表情を浮かべた紺野は、奥にたたずむ寺崎を助けを求めるような目で見やる。寺崎は少しだけ笑ってみせたが、それ以上は何も言おうとしなかった。

 玲璃はうつむいて、しばらくは肩を震わせ続けていたが、何とか嗚咽を飲み込むと、小さく頭を下げた。


「すまない。おまえの声、久しぶりに聞いたから……」


 玲璃はやっとの事でそれだけ言うと、しゃくりあげた。嗚咽が止まらない理由は本当はそんなことだけではなかったが、それしか言いようがなかった。

 困ったように首をかしげて自分を見つめている紺野に、もう一度目を向ける。その顔も、声も、以前と何ら変わりない。それは信じられないほど嬉しいことであり、同時に胸を締め付けられるくらい悲しいことだった。せっかくここまで回復したと思ったのもつかの間、彼は廃人になってしまうかもしれない危機を抱えているのだ。こんな理不尽な話があるだろうか。玲璃は何だか悔しくて、悲しくて、ただどうしようもなく涙が止まらなかった。

 寺崎はそんな玲璃の背中を後ろから黙って見つめていたが、振り切るように頭を上げると、明るい声音で言った。


「紺野、今日、おまえ、風呂はいるぞ」


 首を巡らせて自分を見た紺野に、にっと笑いかける。


「順番、まわってきてっから。ほんとは十一時から入れたんだけど、おまえ寝てたから次の人に先に入ってもらってたんだ。その人が終わったら、次だから。準備しとくぞ」


 てきぱきと入浴の準備を始める寺崎の後ろ姿に、紺野はすまなさそうに頭を下げた。

 寺崎は袋に下着や寝間着の替えを詰めながら、背後でまだしゃくり上げている玲璃に声をかける。


「総代は、どうします? 俺は一緒に手伝うんすけど、その間……」


 玲璃はようやく涙を拭うと、「そうだな……」と考え込んだ。


「一緒に手伝うわけにもいかないからな」


 そうつぶいた玲璃の言葉に、寺崎は思わず吹き出した。紺野は目を丸くして真っ赤になっている。


「……いや、それも考慮の範疇はんちゅうに入れていいっすよ。総代さえよければ」


 玲璃も恥ずかしそうに笑うと、首を横に振った。


「それは遠慮しておく。でも、もう帰るのも寂しい気がするな。待っていても、いいか?」


「もちろんっすよ。な、紺野」


 紺野は先ほどより血色のよい顔で、穏やかに笑ってうなずいた。以前と変わらぬその笑顔に、玲璃はまた涙腺を刺激されたらしく、うつむいてしきりに目のあたりを拭っていた。


  

☆☆☆


 

 佐久間も出流も、しばらくの間言葉もなく、ベッドに横たわる優子の姿を見つめていた。

ふんわりとしたシフォンワンピースにその身を包んだ優子は、こんな体であることが信じられないほど可愛らしかった。色白の肌に長いまつ毛、茶色いさらさらの髪がワンピースの色と見事に調和している。着せるのは二人がかりで三十分もかかったが、そんな苦労は吹き飛ぶくらい見違えるような姿になっていた。


「優ちゃん……きれいよ」


 佐久間は涙声でこう言うと、優子の頬にそっと右手を添えた。


「そういえば、いつもTシャツとか前あきブラウスとか、着せやすくて洗濯しやすいようなものばっかり着せてたもんね。こんな格好したの、ほんとに、七五三以来かもしれない」


 それから、体を起こして出流の方に向き直ると、深々と頭を下げる。


「本当にありがとう。優ちゃんを、こんなにきれいにしてくれて」


 出流はとんでもないとでも言いたげに首を横に振り、少しだけ赤くなった。


「そんな……。でも、ほんとによく似合ってます。このままどこかに行きたいくらい」


 その言葉に突然、佐久間は目を輝かせた。


「……行こうか」


「え?」


「って言っても、近くをお散歩するだけなんだけど。四月頃、渋谷に出かけたことがあったの。施設の共同イベントで、デパートに出品する作品の搬入だったんだけど、途中で優ちゃんがいなくなっちゃって、大騒ぎになったことがあって。それ以来、人混みに連れ出すと怒られちゃうんだ」


 そう言って佐久間は、首をすくめていたずらっぽく笑う。


「なんて言って、結構無理やり連れだしてるんだけどね」


 佐久間はちらっと腕時計を見る。一時を少し過ぎたくらいだ。


「三時くらいまでに戻ってくれば怒られないと思う。それで行ける範囲で、どう? 今、多分雨は降ってないでしょ。降り始めたら帰るってことで」


 出流も目を輝かせて大きくうなずいた。


「もちろんです!」



☆☆☆



 玲璃はコンビニで買ってきた弁当を食べる手を止めて、ぼうっと目の前に座る紺野を眺めていた。

 紺野は、昨日の夜から普通食に切り替わっているので、同じく食事をとっていたが、食欲は今ひとつらしく箸は止まりがちだった。

 風呂に入って、見違えるほどさらさらになった茶色い髪。五月に切ってから一カ月以上たつ。もともと長めに切っていたこともあり、目のあたりを覆うくらいまでに伸びた前髪が、軽くうつむくたびにさらさらと揺れる。見え隠れする、涼しい目元と通った鼻筋。玲璃は箸を動かすのも忘れて、しばしうつむき加減のその顔に見とれていたが、やがて深いため息とともに、しみじみとつぶやいた。


「……どうしてあんなに三年女子が騒いでいたのか、今、やっと分かった気がする」


 寺崎も紺野も、箸を止めてきょとんとした。唐突過ぎて、何のことだかわからなかったらしい。玲璃は恥ずかしそうに笑った。


「紺野って、きれいな顔してんだな。男にしとくのはもったいないくらいだ」


 その言葉に、紺野は目を丸くして赤くなる。そんな紺野の顔を、寺崎は改まった様子でまじまじと眺めやっていたが、なるほどとでも言いたげに深々とうなずいた。


「言われてみれば、そうっすね。こいつまつ毛長いし、髪はさらさらだし……」


「やめてください。そんなことないです」


 赤くなって懸命に否定する紺野の顔を、寺崎は意地の悪い笑みを浮かべながら「いやいや、ほんとに」などと言いつつ身を乗り出してのぞき込む。


「おまえが女だったら、俺、惚れてたかもな」


 その言葉に完全に硬直すると、紺野はそれこそ耳の先まで真っ赤になった。

 寺崎はぶっと吹き出すと、こらえきれなくなったように大笑いし出した。玲璃も、うつむいて肩を震わせながらくすくす笑っている。紺野は恥ずかしそうにどぎまぎしていたが、やがて困ったように少しだけ笑った。

 その時だった。

 紺野の笑顔が凍った。

 中空で動きを止めた右手から、箸がぽろりとこぼれ落ちる。

 寺崎と玲璃がはっとして身構えると同時に、簡易テーブルの上にあった茶わんが、派手な音をたてて吹き飛んだ。

 反射的に寺崎は玲璃に覆い被さった。頭上スレスレを通過した茶わんが、壁に当たって涼しい音をたてて砕け散る。

 寺崎は振り返って紺野に目をやり、……はっとした。

 紺野はベッドの上で背中を丸め、頭を抱えて歯を食いしばっていた。その体から白い気が放出され、稲妻のようなひらめきが時折、部屋のよどんだ空気を切り裂いて四方に飛び散る。

 白い気の向こうにかすんで見える紺野の顔は、きつく奥歯をかみしめている口元がちらりと見えるだけだったが、寺崎は腕に隠れて見えない目のあたりから、何か滴のような光るものがこぼれ落ちるのに気がついた。それはこぼれ落ちるたびに白いシーツにしみこみ、丸い水玉模様をいくつも作っていく。

 寺崎は弾かれたように立ちあがった。

 頭を抱えて床に伏せていた玲璃が、いぶかしげに寺崎を見上げる。寺崎は、怖いくらいの形相で紺野をじっと見つめていた。

 その時、頭痛の波に襲われた紺野の体から白い気がほとばしり、盆の上に残っていた椀や箸が鈍い音をたててふき飛んだ。

 寺崎は飛んできた椀を腕ではじき飛ばすと、紺野の方に速足で歩きだした。背中を丸めて言葉もなく震えている紺野に歩み寄ると、何も言わず、その背に覆い被さった。まるで、彼を守るかのように。

 玲璃は目を疑った。いかに能力耐性があるとはいえ、こんな至近距離で、しかも接触しているとあっては影響を受けざるをえない。火花のように飛び散る白い気が、寺崎の右腕を切り裂き、血しぶきがあがった。またすぐ、左腕にも血が飛び散る。頬にも、足にも、背中にも。だが、切り傷だらけになりながらも、寺崎は紺野から決して離れようとはしなかった。

 そうして、小声で同じ言葉をつぶやき続けているのだ。


「がんばれ……がんばれ、紺野」


 玲璃は両手で口元を覆った。喉がこわばって、たちまちのうちに視界がかすむ。何を言うこともできなかった。ただ、その光景を見つめていることしかできなかった。

 やがて、嵐が過ぎ去ったかのように、病室内をふたたび静寂が包み込んだ。

 亨也がシールドをかけたもの以外は、全てのものがはじき飛ばされたり、粉砕されたりしていた。壁にたたきつけられた平皿は粉々に割れ、床には芋の煮付けや魚の切り身が散らばり、真っ二つに割れた椀からはみそ汁が筋を引いてぶちまかれ、茶わんも粉々になって床にまき散らされている。食事中だったこともあり、室内は滅茶苦茶だった。

 紺野はようやく頭痛が治まったのか、肩で息をしながら目を開けた。そこでようやく寺崎が自分を抱え込んでいることに気付いたのだろう。背後の寺崎を振り仰ぎ、息をのんでその目を見開く。


「寺崎さん……どうして⁉」


 寺崎はいくぶん息を乱しながら、それでもにっと笑ってみせた。


「だって、あんまりおまえが苦しそうだったから……。一人にしとけなかった」


「そんな……ケガをしてるじゃないですか!」


「ああ、これ?」


 寺崎は裂けて血のにじんだ自分の腕にちらっと目をやったが、意にも介さない様子で笑う。


「こんなん、なめときゃ治る。それより、おまえの方こそ大丈夫か?」


 心配そうに自分の顔をのぞき込む寺崎に、紺野は何か言いかけたが、喉が震えて言葉にならなかったのか、下を向いて黙り込んだ。寺崎はそんな紺野を優しい目で見つめながら、静かに口を開いた。


「おまえってさ、どんな痛え目にあっても、絶対に声、上げねえんだよな。おまえが痛え痛えって騒いだの、見たことねえもん」


 玲璃は割れた茶わんの欠片を拾い集めながら、寺崎の言葉にじっと耳を傾けていた。


「そのおまえが、涙流してんだぜ。どんだけ痛えか、普通想像つくだろ。そんなん見せられたら、ほっとけねえじゃん。……でも、何も役にはたってねえけど」


 唇を微かに震わせて、寺崎はうつむいた。


「ほんとに、何とかしてやりてえな。俺、何でもするんだけどな。でも、何もしてやれねえ。俺……マジで役立たずだな」


 ひとり言のようにつぶやく寺崎の、うつむいた目のあたりから、涙が一滴、ぽとりと床に落ちる。

 寺崎の言葉を聞きながら、玲璃も止めどなく涙を流していた。紺野の前に立ちはだかる厚い壁の前には、自分たちはいかにも無力に感じられ、ただつらかった。


「……そんなこと、ありません」


 すると、それまで黙っていた紺野が、ぽつりと口を開いた。

 寺崎が顔を上げ、涙で潤んだ目を紺野に向ける。


「僕は……」


 玲璃も片付けの手を止めて、紺野の横顔をじっと見つめた。


「僕は、もう一度帰りたいんです」


 紺野の口元がわずかに引き上げられ、微かな笑みがやつれた頬に浮かんだ。


「寺崎さんのところに……。そうして、みどりさんと朝のしたくをして、寺崎さんを起こして、学校へ行って、授業をうけて、たわいない話をして、笑って、皆さんがいて……」


 紺野は顔を上げると、寺崎を見つめながら、いつもの、あの優しい表情でほほ笑んだ。


「本当に、幸せだったんです。あの毎日をもし許されるなら、もう一度取り戻したい。そう思ってるんです」


 玲璃はこらえきれなくなったように口元を押さえ、嗚咽しながらうつむいた。寺崎も、瞬ぎもせず紺野を見つめている。

 紺野はいくぶん目を伏せると、静かに言葉を継いだ。


「今、こういう状態になって、初めて分かったんです。僕は……」


 いったん言葉を切って、目を閉じる。再び目を開いて寺崎を見つめると、はっきりと一言、こう言った。


「僕は、死にたくない」


 寺崎と玲璃は、動作も、呼吸も、瞬きも忘れ、言葉もなく紺野を見つめた。紺野はそんな二人の視線を、穏やかな表情で受け止めながら言葉を継いだ。


「あいつをどうするとか、死ねないから死なないとか、そういうことじゃないんです。ただ、自分が生きたい、だから、死にたくない。それだけなんです」


 紺野の目からあふれた涙が、やつれた頬を伝い落ち、顎の先に到達して、シーツを握りしめている右手の甲にぽつりと落ちる。


「生きて、皆さんと一緒にいたい。ただ、それだけなんです。もの凄く、すっきりしてるんです」


 寺崎は何か言おうとしたが、唇が震えて言葉にならなかった。いったん下を向いて喉元のこわばりを飲み下し、それからもう一度顔を上げ、そこでようやく震える声を絞り出した。


「それが、普通なんだよ」


 そうして、泣き笑いのような表情になる。


「おまえ……やっと、普通になれたんだな」


 紺野は潤んだ目を細め、少しだけ笑ってうなずいた。そして心持ち目を伏せると、静かに言葉を継いだ。


「僕は、努力します。生きるために、しなければならないことがあるのなら……。努力してダメな時もあるでしょうが、できる限りのことをしてみます。その時、もしかしたら皆さんのお力が必要になるかもしれません」


 言葉を切って、自分を見つめている二人にしっかりと目線を合わせる。


「その時は、お力を貸していただけますか」


 寺崎も玲璃も、その視線をまっすぐに受け止めながら、深々とうなずいた。

 やがて耐えきれなくなったように、玲璃が一歩、紺野に歩み寄った。一歩、また一歩……徐々に歩を速め、最後は枕元に走りより、物も言わず紺野に抱きつく。

 玲璃は紺野にすがりつき、言葉もなく泣き続けた。寺崎も下を向き、両手の拳を固く握りしめながら、声もなく涙を落としている。紺野も泣き笑いのような表情で涙をこぼし続けている。

 その病室の外、入り口のドアにもたれて、沙羅はたたずんでいた。

 先ほど紺野の能力発動を感知して駆けつけたのだが、中の様子に入るに入れなくなってしまったのだった。


――普通になれた、か。


 寺崎の言葉を反すうすると、沙羅は悲しい目で微かに笑った。

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