4月15日 1
4月15日(月)
学校に欠席の連絡を入れる珠子の声を聞きながら、玲璃はぼんやりと窓の外に広がる曇天を眺めた。
――許嫁、か。
今時、許嫁なんて時代遅れの言葉、ドラマにだって出てきやしない。こんな境遇の人間は相当に貴重な存在なんだろうと、玲璃は右手に箸を持ったまま、深いため息をついた。
欠席連絡を終え、食後のコーヒーを運んできた珠子が、そんな玲璃を小声で急き立てる。
「急いで召し上がってください。お支度に時間がかかりますから」
「はい、すみません」
玲璃は慌てて頷くと、茶碗に残った飯を無理やり口に詰め込んだ。
今日は「目通り」、いよいよ玲璃が、許嫁である神代亨也と顔を合わせる日だ。
彼とは生まれた時からの許嫁だが、一族の集会でも会ったことはない。結婚が可能な年齢になるまで、会ってはならないきまりがあったためだ。どうして彼と会ってはいけないのか、その理由を一度父親に聞いたことがあったが、「不測の事態を避ける」としか説明されなかった。それ以来その話題は出していないので、一体どういう理由で彼と会ってはいけなかったのか、いまだに玲璃はよく分からない。
朝食を済ませて歯を磨いた玲璃は、さっそく振り袖の着付けにかかる。生まれて初めて袖を通す振り袖。値段は分からないが、重みのある生地に豪華な金糸が織り込まれ、華やかでそれでいて上品な、見るからに高級そうな一品だ。
下帯を結んでもらいながら、玲璃はだんだん緊張し始めていた。
神代亨也という男性は、聞けば玲璃より十四歳も年上なのだという。外科医として神代の病院に勤務する、三十二歳の大人の男性。二人きりになる時間も設定されているらしいが、いったい何を話したらいいのだろう?
膨れあがる不安に胸苦しさを覚えて思わず深呼吸をする。そんな玲璃を見て、帯がきつすぎると思ったのか、着付けをしていた美容師が「苦しいですか?」と聞いてきた。玲璃は慌てて「大丈夫です」と笑顔を作って見せたが、本当は苦しかった。
玲璃は高校三年になる今現在まで、特定の男性と親しくつきあった経験がない。許嫁がいたのだから当然ではあるのだが、彼女は色恋沙汰に対する興味も全くと言っていいほどなかった。それよりは、好きな勉強や学校活動に精を出している方が何倍も幸せだったのだ。心の準備も何もなく、全く経験したことのない未知の世界に強制的に放り込まれるわけで、緊張するのは当然のことだった。
結局、着付けだけで一時間もかかった。これから髪を整え、軽く化粧もする。玲璃は化粧も全くしたことがない。せいぜい冬場にリップクリームを塗る程度だが、それは化粧とは言わないだろう。専門のメイクさんが鮮やかな手さばきでファンデーションを塗ったりマスカラをつけたりするさまを、玲璃は半ばひとごとのようにぼんやりと眺めていた。
そうして全ての支度が終了したのは、着付け開始から二時間以上たった頃だった。
「どうだ、玲璃。準備は……」
部屋の入り口から、支度終了の報告を受けた義虎が顔を覗かせた。義虎も胸板が厚く堂々として風格があるので、背広姿がやけに様になる。
義虎は着飾った娘の晴れ姿を見ると、相好を崩して何度も頷いた。
玲璃は、基本的に何を着ても様になる。頭が小さく均整のとれたプロポーション。顔だちも美麗で、すっきりとした目鼻立ちに、凛とした大きな瞳が印象的だ。制服姿でも十分に人並み以上なのだが、振り袖を着て化粧をし、髪を整えたその姿は、親である義虎が見ても思わずうっとりするほど美しい。
「ちょっと、苦しいです」
見違えるようなその姿と、いつもどおりの飾らない言葉との落差に苦笑しつつも、義虎は美しく変身した娘に大満足の様子で踵を返した。
「今日一日はがまんしなさい。車の用意ができ次第出発するぞ」
「はい」
玲璃は頷くと、着慣れない着物の裾さばきに苦戦しつつも、義虎の後について歩き始めた。
☆☆☆
紺野はこの日も学校を休んでいた。土日を含めると四日目である。
教師は「風邪」と言っていたので宮野たちに何かされたとは限らないのだが、長く休まれるとさすがに気になってくる。何でもいいから情報がほしかった寺崎は、取りあえず担任教師に聞いてみることにした。
「先生、ちょっとお聞きしたいんすけど」
「なあに、寺崎さん」
担任の中年女性教諭は、寺崎の言葉に営業スマイル満開で振り返った。
「紺野、先週から休んでるみたいなんすけど、風邪で休んでるってホントですか?」
普通なら「どういう意味?」と怪訝な顔で聞き返されそうな質問に対し、担任教師が首を曲げ曲げため息をついたので、寺崎は身を乗り出して彼女の言葉を待った。
「実は、金曜日に本人からそう連絡があったきり、今日は何の連絡もないのよね。紺野さんのところ、電話がないらしいの。携帯も持っていないらしくて、連絡が取れなくて困っているのよ」
「あ、じゃあ俺、あいつん家に行ってきましょうか」
「あら、いいの?」
寺崎も営業スマイル満開で頷いてみせる。
「俺、部活見学しないつもりだし、あいつんち知ってるんで。何か渡すものがあったら持って行きます」
☆☆☆
接見の会場は、黄金にある七芳園だ。
都心とは思えないほど豊かな緑に囲まれた、広々とした庭園。その隣にある会場に、豪奢な衣装を身にまとった列席者たちが次々と黒塗りの車で到着する。華やかなその雰囲気は、とても単なる顔合わせとは思えない。まるでこれから披露宴でも始まるかのようだ。場の空気に呑まれて一層緊張感を募らせながら、玲璃は履き慣れない草履を引きずって会場に入った。
和やかに談笑していた一族の面々は、会場に主賓が到着したのに気がつくと話をやめ、祝福の拍手とともに、その美しい振り袖姿に感嘆のため息を漏らした。
玲璃は彼らの視線を針のように感じながら、動物園のパンダにでもなったような気がしていた。このそうそうたる一族全員が自分たちの結婚に強い期待を寄せている。その期待は世間で考えられているような軽いものではなく、この血族に特有の、重く大きな目的に起因している。その実現のためにどれだけたくさんの人が関わり、どれだけ長い年月がかけられてきたかを知っているだけに、玲璃は背負わされた責任の重大さに押し潰されそうな気さえしてくるのだった。
一番前に設えられた席に義虎とともに着席すると、玲璃は横目で隣の空席を見やる。
「父様、神代さんは……」
「間もなく到着される。到着とともに、開会だ」
その時、父親の言葉を裏付けるかのように、後方の扉が開け放たれた。ドアマンが恭しくお辞儀をすると、扉の向こうのその人物も、小さく礼をしたようだった。やがて、すらりとした背広姿の男性が、ドアの向こうからゆっくりと会場内に足を踏み入れる。
その人物の顔を見た玲璃は、大きくその目を見開いた。
☆☆☆
紺野は、閉じていた目を薄く開いた。
重く湿った空気に満たされた薄暗い台所から、水滴の滴り落ちる音だけが一定間隔で響いてくる。
日当たりの悪い四畳半の部屋にあるのは、簡素なプラケースと折りたたみ式の小さなちゃぶ台だけ。その部屋の真ん中に粗末なせんべい布団をしいて、紺野は横になっていた。
壁には、針金ハンガーにかけられた制服がぶら下げられ、制服の真下の畳には、水たまりの跡のようなシミが残っている。ところどころに乾いた泥がこびりついている皺だらけの制服は、じかに水洗いをして、手で絞っただけで干したのだろう。このアパートの近くにはコインランドリーがあり、手洗いできない大物などはそこで洗濯していたのだが、今回はそこまで行く気力も体力もなかったらしい。この部屋にはフロもない。髪や体についた泥も、台所の冷水でざっと流しただけだった。
彼の頭には血の染みついたガーゼが二ヵ所、額と側頭部になおざりに張り付けられている。あのとき高架下で負わされた傷だ。だが、負傷個所はこれだけではないようだ。動くたびに体のあちこちが引き裂かれるように痛み、めまいや嘔吐感もなくならない。風邪のための熱なのか、傷のための熱なのかも定かではないが、発熱も続いている。食事もこの三日間、水分以外はほとんど何もとっておらず、体力は限界に近づいていた。立ちあがることはおろか目を開けていることすら難しく、息をしているだけで精いっぱいのような状態だった。
本来ならばすぐさま病院に行くべき容体だろう。だが、施設を出ている紺野には使える医療補助がなく、治療費は全額自己負担するしかない。支払い能力のない彼にできることは、安静にして寝ていることくらいしかなかった。
あくまで対外的な筋を通すという意味で、学校に連絡をしなければと思うこともあった。だが、電話はアパートの向かい側に住む大家に借りてかけなければならない。今の彼には、その気力も体力もなかった。
そんな状態の紺野が薄くその目を開いたのは、玄関扉の向こうに人の気配を感じたからだった。
なんとか首を巡らせて玄関の方に目を向けると、ドアノブが音もたてずにゆっくりとまわるのが見えた。半ばぼうぜんとその様子を眺めているうちに、扉が開けられ、申し訳程度に設えられた玄関に入ってくる黒い革靴が見えた。
目線を上げた紺野の視界に、革靴の主――黒縁眼鏡をかけた背の高い男の姿が映りこむ。同じ学校の制服を着ているところをみるとあの学校の生徒なのだろうが、無論紺野には見覚えがない。
男はものも言わず、後ろ手に玄関扉を閉めた。
☆☆☆
「この目通りの善き日を祝うために、たくさんの皆様方にお集まりいただきましたこと、感謝の言葉もございません。……」
義虎のあいさつが続く中、玲璃はもう一度、ちらりと隣に座る男……神代亨也の横顔に目線を送った。
通った鼻筋に、形のよい口元。涼やかな目元を彩る、男性にしては長いまつ毛。端正な横顔にかかる、サラサラの茶色い髪――。
――やっぱり、似てる。
彼が部屋に入ってきたときは、本当に驚いた。似ていたからだ。玲璃が入学以来ずっと気にしている、紺野とかいうあの少年に。そして、彼と目があった瞬間、紺野と目が合ったときに感じたのと同じ、体を電流に貫かれるような、あの何とも言えない感覚にも襲われた。
――いったい、なんなんだろう。
疑問に思ったものの、彼にそれをぶつけたところで詮無いだろう。あの少年とこの男性にはなんのつながりもない。第一、目の前に座っているこの男性は、家柄も社会的信用も申し分のない立派な社会人だ。どこの馬の骨ともわからぬ高校生に似ているなどと言われても、相手を困らせてしまうだけだろう。
――それにしても。
神代享也という人物を見つめながら、玲璃は気づかれないように感嘆のため息を漏らした。
パッと見は似ていたとしても、よくよく見ればやはり紺野とは全く違う。まず、背丈からして紺野より遙かに高い。落ち着いた表情には大人の男性の色気が漂い、スーツの着こなしも隙がなく、まるで雑誌モデルのようによく似合っている。しかも外見だけではない。品格を感じさせる発話に、観衆の前にあってなお悠然とした態度。グラスを口につけるしぐさすら優雅で洗練されていて、どこを切り取っても様になる。よくこれで今まで独身を通してきたと、恋愛沙汰に疎い玲璃でさえ思うほどだった。
玲璃はなんだか気分が高揚してきて、胸がどきどきして仕方がなかった。それなのに帯できつく締め付けられているので、頭に血がのぼって今にも倒れそうな気さえしてくる。
義虎のあいさつと何人かの親戚の祝辞が終わると、歓談がはじまった。目の前には、贅を尽くした料理の数々。だが、緊張と苦しさと胸のどきどきで、玲璃はさっぱり箸が進まなかった。
「大丈夫ですか?」
不意に、木管楽器の奏でる音のような、柔らかで深みのある声が響いた。
玲璃が目を丸くして顔を上げると、自分を見つめている亨也と思いっきり目があってしまった。思わず呼吸が止まり、返す言葉もなく固まってしまう。
その様子を見て、享也は心配そうに表情を曇らせた。
「少し、顔色が悪いようですが……」
「あ、……あの、いえ、大丈夫です。ちょっと、帯が、苦しくて……」
思わず正直に言ってしまってから、はっとしたように口を押さえる玲璃の様子を見て、亨也はくすっと笑った。
「緊張しますしね。楽になさってください」
「……神代さんも、緊張するんですか?」
思わず聞いてしまってから、しまったというような表情を浮かべる玲璃を見て、享也はクスクスと笑った。
「亨也でいいですよ。こんな状況で緊張するなって方が無理でしょう。心臓手術の方がマシなくらいですよ」
いたずらっぽい表情で継がれた外科医らしい返答に、玲璃もようやく少しだけ表情を緩めた。
「ここで座っているのも、何ですよね」
亨也はそう言うと席を立ち、離れたところに座る神代総帥――亨也の母にあたる――のところへ行って何やら小声で話してから、義虎の隣に行き、軽く頭を下げた。
「魁然総帥、よろしければ、総代を少しの間お借りしてもよろしいですか」
その言葉に義虎は相好を崩して快諾した。許嫁と娘の関係が親密になることは、義虎にとって非常に喜ばしいことなのだ。
席に戻ってきた享也は、不安げに自分を見上げた玲璃に優しくほほ笑みかけると、出入り口の方を指さした。
「よかったら、少し外に出ませんか。風に当たれば、気分が良くなるかもしれない」