6月14日 2
寺崎が病室に入ると、紺野はベッドを少しだけ起こして、軽く座ったような体勢になっていた。
「おお! 起きられたのか?」
目を丸くして叫んだ寺崎を見て、紺野は首をちょっとかしげて穏やかに笑った。
「寺崎……さん」
その言葉に、寺崎は思わず息をのんで目を見開く。
「思い出してくれたのか⁉」
だが、紺野は曖昧に笑ってうつむいた。まだ本当に思い出してはいないらしい。ただ、昨日のことがあったので覚えていただけのようだった。
それでも寺崎は嬉しかった。紺野が自分のことを認識してくれたのだ。
「いいよいいよ、ゆっくりでいいって。おまえ、歩く練習とかしてんのか?」
紺野は小さくうなずいた。うつむき加減の顔にかかる前髪越しに見え隠れする、穏やかな表情。以前と何ら変わりないその横顔を見つめるうちに、寺崎はまた涙が出そうになって、慌てて目もとを手の甲でごしごしこすった。
「トイレとか、行けてんの?」
紺野は黙って小さくうなずいた。さいわい、ここは個室である。部屋にトイレも完備されているので、移動は短くてすむのだ。
「そうかあ、偉いなあ、おまえ」
感心したように何度も何度もうなずく寺崎を紺野はじっと見つめていたが、ややあって、遠慮がちに口を開いた。
「……ここは、どこなんですか?」
寺崎は笑顔をおさめて黙り込むと、紺野を見つめた。
「僕はどうして、ここにいるんですか。何だか、細切れに覚えていることはあるんですが……つながらなくて」
紺野はそれだけ言うと、目を伏せて口をつぐんだ。
寺崎は答えを返してやろうと思った。だが、入り組みすぎていて何をどう言えばいいのか分からない。しばらくは言葉を捜すように考え込んでいたが、うまく説明できない自分のふがいなさが情けなくて、リノリウムの床の鈍い輝きに目を落とした。
その時だった。
無造作に腹の上で組まれていた紺野の両手が、突然、堅くシーツを握りしめたのだ。
「……!」
声にならない叫びをあげて両手で頭を抱え込むと、枕に顔を埋める。
――あの頭痛だ!
寺崎は弾かれたように丸椅子から立ち上がった。
紺野の体からほとばしった白い気が、稲妻のように部屋中を駆けめぐる。枕元にぶら下げられた点滴のボトルも、簡素なアルミサッシの窓も、簡易テーブルの上に置かれた体温計もびりびりと音をたてて震え、吸い飲みの中の水が逆流する。寺崎も、激しい空振で全身がしびれるような感覚に襲われた。だが、亨也が万全にシールドをかけてくれているらしく、何一つ破損することなく空震は止んだ。
紺野は顔を枕に埋めて頭を抱えた姿勢のまま、激しい呼吸を繰り返しながら震えている。寺崎がそっとその背をさすってやると、ようやく薄く目を開いた。
「大丈夫か、紺野」
紺野はうなずくと、座位の姿勢を取り直して目を閉じた。しばらくそうして荒い呼吸を整えていたが、やがて不安そうに口を開いた。
「すみません。この頭痛も、訳が分からない。いったい、なにがどうしたのか……」
薄日の差し込む病室に、重苦しい沈黙が降り積もる。
寺崎はベッド脇に立ち尽くし、心細げにうつむく紺野の長いまつ毛と、やつれた頬と、ボサボサの茶色い髪を言葉もなく見つめていたが、やがて何を思いついたのか大きく目を見開き、それからおもむろに口を開いた。
「……あのさ、紺野」
紺野が、伏せていた顔を上げて寺崎を見る。
「良かったら……見るか? 俺の、記憶」
発言の真意がつかめない様子で黙っている紺野に、寺崎は明るく笑いかけた。
「俺は、あの時のことも……まあ、俺目線だけど一応知ってるし、もっと前のこともだいたいおまえと一緒にいるから知ってる。おまえがもし、抜け落ちた自分の記憶を確かめたいんなら、俺の記憶をのぞくのが一番手っ取り早いだろ」
紺野は戸惑ったような表情を浮かべて動きを止めていたが、やがて小さく首を横に振った。
「……そんなことをしたら、僕は、あなたが秘密にしておきたいようなことまで、見てしまうかもしれない」
その言葉に、寺崎ははっとした。病院の廊下で玲璃を抱き寄せた、あの記憶。自分の玲璃に対する気持ち。そんなものまで紺野に知られてしまうことは、確かに寺崎にとっては厳しかった。
――でも。
寺崎はちらっと、薄曇りの空を眺めている紺野に目を向ける。
意識がなかったために体の機能がすっかり低下し、立って歩くことはもちろん、鉛筆を握って字を書くことさえままならないと聞く。肉体的機能の低下に加え、記憶の連続性のないまま、不安定な心を抱えた、紺野。一昨日、昨日と、その不安定さを見せつけられたばかりだった。少しでも、彼の不安を取り除いてやりたい。少しでも、以前の彼に戻ってほしい……そんな気持ちが、寺崎の迷いをはねとばした。
寺崎は右手を差し出すと、有無を言わせず紺野の左手に重ねた。
「構わねえよ」
目を丸くして自分を見つめる紺野に、寺崎はにっと笑って見せる。
「いまさら、おまえに隠すようなことなんて、何にもねえからな。俺は全然構わねえよ。それより、おまえの方が不安だろ。何が何だか分かんなくてさ。つまらねえこと気にしてねえで、とっとと見てくれよ」
返す言葉もなく、紺野は寺崎のまっすぐな視線を受け止める。
そのまなざしからは、何の裏心も感じられない。そこから感じ取れるのは、ただひたすらに自分を思いやる純粋な優しさだけだ。そんな寺崎をぼうぜんと見つめているうちに、紺野の脳裏に突然ふっと、ある記憶がよみがえった。
『ほんと、おまえってまじめ。ウソも方便って言うだろ』
そう言って笑いながら、自分の額を小突いた、男。……あれは。
寺崎は紺野の左手をつかんだまま、首をかしげた。さっきから自分に目を向けてはいるが、視点ははるか遠方に合っているようだ。能力発動をしている様子もみられない。
「どうした? 紺野」
「寺崎……さん」
紺野は何か言いかけると、ゆるゆると寺崎に視線を戻した。心配そうに自分を見つめる寺崎の顔と、至近距離で焦点が合う。
「僕は……」
次の瞬間、紺野の頭に、決壊した堤防からあふれる水のように、寺崎とのさまざまな場面がよみがえってきた。
☆☆☆
『こんな極限状態で、何の心配してんだよ……ほんっと、信じらんねえ』
歩けない自分を無理やり背負い上げて歩いた、夕刻のサイクリングロード。
『絶対、死ぬなよ』
自分の顔をのぞき込んでいる、真剣なあの表情。
『とりあえずおまえは、生きててくれりゃそれでいいんだ』
そう言って屈託なく笑った、あの笑顔。
『俺にとってのおまえは、俺の目の前にいるおまえでしかない』
自分を真っすぐに見つめながら、涙を流していた彼。
『そんなんも含めて、俺はおまえが好きなんだ』
夕刻の斜光に照らされて金色に輝いていた、いたずらっぽい笑顔。
『俺は一生、おまえが大好きだからな!』
にっと笑ってそう叫んだ彼の、廊下中に響き渡るような大声。
『だから、絶対につぶれんなよ。約束だ』
自分を見つめている、真剣な、それでいてあたたかいまざし。
ぼうぜんと中空に目を向けながら、紺野は動かなかった。
寺崎は何か声をかけようと思った。だが、肝心のかけるべき言葉が見つからない。仕方なく、西日を受けて金色に透ける髪と、西日色に染まる頬を眺めながら、困惑気味にベッドサイドに立ち尽くしていた。
と、紺野の口元がわずかに震えた。ハッとして紺野の横顔を注視した寺崎の目に、長いまつ毛に押し出されるようにして頬を伝い落ちる涙のしずくが映りこむ。
「……紺野?」
恐る恐る声をかけた寺崎に、紺野はゆるゆると首を巡らせて、涙で潤んだ目を向けた。
「寺崎、さん……」
自分を見つめる紺野の目に以前の光が戻っている気がして、寺崎は大きく目を見開くと、その潤んだ瞳を見つめ直した。
「紺野、おまえ、もしかして……」
泣いているのか、笑っているのか、判別のつかない表情を浮かべながら、紺野は深々とうなずいた。その頬を、涙が幾筋も伝い落ちる。
寺崎は限界までその目を見開いた。
「寺崎さん、僕は……」
「紺野ぉ!」
寺崎は叫ぶと、耐え切れなくなったように紺野を両腕で抱きしめた。
「よかったぁ、よかった、紺野……!」
紺野の痩せた体をきつく抱き締めながら、寺崎は泣いた。声を殺して泣いた。紺野も泣いていた。寺崎の肩のあたりに顔をうずめて泣きながら、寺崎の胸の鼓動と優しい温かみを、体全体で感じていた。
その時紺野は、確かに幸せだった。