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輪廻  作者: 代田さん
第四章 転落
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6月14日 1

 6月14日(金)


『遅れて、ごめんね』


 教室の片隅で、出流は涙でかすんだ目をこすりながら、メモ帳に書かれた文字を穴の開くほど見つめた。あれから二日たったこの日、ようやく優子からのメッセージが届いたのだ。


「どうするの? これから……」


 出流が不安そうにつぶやくと、ペンは迷いなく、すらすらとこんな言葉を書きつけた。


『しばらく様子を見よう』


 出流は驚いたように口を開けて、数刻その文字を見つめた。


「どうして……」


『あいつは、あの時のことを覚えていない』


 出流は息をのむと、信じられないと言いたげな表情を浮かべ、震える声で問う。


「……ほんとに?」


 ペンはメモ帳いっぱいに、大きな丸印を描いた。

 出流は椅子の背もたれに体重を預けると、体中の力が抜けたかのように大きく息をついた。


『人を殺すの、いやでしょ』


 出流は大きくうなずいた。できればそんなことはしたくない。


『だから、様子をみよう。あいつはしばらく、学校にはこない』


「そうだね、そうしよう」


 ぼやけてくる視界を瞬きで回復しようと試みながら、出流は何度も何度もうなずいた。


『その間、高校生活、いっしょにさせて』


「そうだね。一緒にやろう。いろんなこと、教えてあげる」


『よろしくね』


 出流は自分の右手が、温かく火照ったような気がした。



☆☆☆



 玲璃は隣を歩く亨也にちらっと目をやった。

 二人は、大きな池のほとりにある公園の遊歩道を歩いていた。路上パフォーマンスを披露するピエロがいたり、幼児を連れて歩く若い母親の集団とすれ違ったり、あからさまに密着して歩く若いカップルの姿があったりと、公園はにぎやかで明るい活気にあふれている。

 そんな公園内の砂利道を、何でもないTシャツにジャケットを羽織り、カーキ色のパンツを履いた亨也が、玲璃と並んで歩いている。本当に何気ない出で立ちなのだが、均整のとれたスタイルのせいだろうか、すれ違う女性が必ずちらりと視線を送る。

 亨也の隣を歩きながら、玲璃は胸苦しいほどの緊張を感じていた。


『もしよかったらその日、少しだけお時間をいただけませんか』


 何か話があるからこそ、亨也は改まって、玲璃と会いたいと言ってきたのだろう。その話とは、いったい何なのか。考えると、すぐさまあの時の寺崎との事が頭をよぎる。あの時、扉のすぐ向こう側で、亨也は紺野の治療をしていた。もしあの時のことを、彼が知っていたとしたら……。

 玲璃はうるさいぐらいに暴れ回る心臓を、右手できつく押さえた。


「座りませんか」


 突然声をかけられ、玲璃はドキッして顔を上げた。木漏れ日を背負った亨也が、振り返って穏やかにほほ笑んでいる。玲璃は黙ってうなずくと、白鳥型ボートがゆったりと行き交う大きな池の前にあるベンチに腰を下ろした。彼女の隣に、やや離れて亨也も腰を下ろす。


「あの、今日は……」


 小声で問う玲璃に、亨也は少しだけ首を巡らせて優しいまなざしを向けた。


「私はあなたくらいの頃、本当に悩んでいましたね」


 何のことやらわからず、玲璃は首をかしげて亨也を見る。


「自分は本当に総代にふさわしいのか、総代になっていいのか、もっと言うと、総代以外の道はないのか……。今考えてみると、自分が置かれた状況に耐えかねて逃げようとしていたんでしょうが、当時は本当に必死でした」


 亨也は池に浮かぶ色とりどりのボートに目を向けると、静かに笑った。


「吹っ切れたのは、この職について数年たったあたり、三十代に入ってからでしたね。それまでは本当にあがいてました。みっともない話なんですが」


 いったん言葉を切り、じっと玲璃を見つめる。


「あなたは、吹っ切れているんですか?」


「……え?」


「私と結婚して神子を産む。一族の目的のために生きる、そう覚悟を決めてらっしゃるんでしょうか?」


 玲璃は口を開きかけたが、言いよどんで下を向いた。そこまで突き詰めて考えたことはなかった。ただ、生まれた時からそう決められていたから、自分に定められた道だから、それに従おうと思っていただけだった。


「……よく、わかりません」


 しばらくの後、小さい声でやっとこれだけ言うと、口をつぐんで下を向く。

 享也はうつむいた玲璃の、緩やかな風に揺れる柔らかそうな髪を黙って見つめていたが、ややあって、おもむろに口を開いた。


「あなたには、もう少し時間が必要でしょう」


 戸惑ったように自分を見つめている玲璃に優しいほほ笑みを返すと、享也は静かに言葉を続けた。


「本当のことを言えば、結婚自体を先に延ばした方がいいと思っています。ですが、一族の都合上、その合意をとるのは難しい。であれば、組織が納得するよう社会的な体裁だけはつくろっておいて、実態を先延ばしにすることは可能だと思います」


 玲璃は瞬きすら忘れてしまったかのように享也の顔を見つめていた。


「結婚というものは、女性にとって深い意味を持つ。軽々しく扱ってはいけないことはわかっています。もしあなたが、そんな方法はとんでもない、すぐに実態を伴った結婚をしても構わないと仰るのなら、私はそれで構いません。ただ、私が見る限り、あなたはまだ結婚という枠組みに押し込めるには若すぎる。この方法をとれば、私はあなたが本当に納得するまで、あなた自身に傷をつけるつもりはありません。一族の顔を立てる都合上、あなたの経歴に傷がついてしまうような方法しかとれないのが申し訳ないのですが……」


 亨也はそこまで言うと、硬い表情で瞬ぎもせず自分を見つめている玲璃に、了承をうながすようにほほ笑みかける。

 玲璃は、まるで確認するかのように震える指先を自分の乾ききった唇にはわせていたが、ややあって、かすれた声で問いかけた。


「つまり、形だけ結婚すると……そういうことですか」


 亨也は穏やかな表情でうなずいた。


「亨也さんは、それでいいんですか」


「構いません。私は結婚という経歴にさほどの執着はない。はっきりさせなければならないことがあるのに、それらをうやむやにしたまま、中途半端な形であなたを傷つけることだけは、したくないんです」


 静かに語る亨也の頬の辺りで、木々の間から漏れる薄い日差しがチラチラと踊っている。


 「本来ならば、結婚自体を延期してはっきりさせるべきことです。ですが、魁然家側はこれ以上待ってはくれないでしょう。あらぬ誤解をうけて騒動の種を増やすより、あちらが納得する形を取った上で、内実を先送りにした方がいいだろうと判断した結果、このような提案になりました」


 怜璃は亨也の言葉を聞きながら、色とりどりのボートがゆったりと行き交う和やかな風景にじっと目を向けていた。言葉が終わってからも、しばらくはそのまま池を眺めていたが、やがて、ぽつりと口を開いた。


「……私、まだ、よくわからないんです」


 玲璃は、適した表現を探すようにゆっくりと言葉を継ぐ。そんな玲璃を見つめる亨也のまなざしは、優しかった。


「恋愛とか、恋人とか……そういうことに、今までほんとうに無頓着に生きてきて、ここにきて、いきなり結婚だなんて言われても、正直、イメージがわかなくて……最近、どきどきしたり、気になったり、やっとそういうことが少しずつわかり始めてきたくらいで……でも、まだ、そんな程度なんです。愛してるとか、結婚したいとか、そんなところまでは、まだ、全然……」


 心持ち顔を赤らめながら、やっとのことでそれだけ言うと、ちらりと享也に目線を送る。


「だから、亨也さんが言ってくださったように、もし、本当に、待っていただけるのなら、それはとても、ありがたいです。ただ、子どものお守りをさせてしまっているみたいで、亨也さんにはものすごく、申し訳ないんですが……」


「そんなことはないですよ」


 亨也はこともなげに笑った。


「私もその方が嬉しい。ゆっくり待った上で、あなたが私を選んでくれるなら、その方が私も嬉しいですから」


 それから、木々の向こうに見える薄曇りの空を見上げる。


「この結婚は、お互いが覚悟を決めて向き合うこともなしに、ただ決められているからとなんとなく従ってはいけない種類のことだと、私は思っています。以前からもそう思ってはいましたが、鬼子の件があったことで、私はその思いをより一層強くしました。とにかく、納得できないことや不安が少しでもあるなら、まずはそれらを解消していきましょう。私たちの年齢なら、それからでも全く遅くはありませんから」


 そう言って明るく自分に笑いかけた享也を、玲璃はじっと見つめ返した。

 日差しに透けて金色に輝く髪が、ゆるい風になびいて時おり目元をおおう。その髪を無造作にかき上げる、きれいな指先。なにげなくベンチに座っているだけなのに、雑誌の表紙かなにかかと思うくらい様になっている。そんな男性が、自分に極上の笑顔で笑いかけてくれている。偽装結婚のようなマネをしてまで、自分が納得できるまで待つと言ってくれている。

 玲璃は急に胸がどきどきしてきて、慌てて視線を外した。

 ただ単に、魁然家の総代に生まれたというだけで、人間としても女性としても、自分という人間に、こんな素晴らしい男性を待たせるほどの価値があるとは、到底思えなかった。


――自分は、恵まれているのかもしれない。


 これまで玲璃は総代という自分の立場に、重圧を感じ続けてきた。なぜ総代なんかに生まれたのだろうと、運命を呪ったこともたびたびある。だが、享也という男性と知り合えたことに関してだけは、この立場でなければ得がたいことだったんだろうと、自分の宿命に感謝したいような気すらしているのだった。

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