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輪廻  作者: 代田さん
第四章 転落
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6月13日 1 

 6月13日(木)


 生徒たちの明るい声が響く教室の片隅で、出流は浮かない顔でじっとペンを握り、優子が現れるのを待っていた。

 昨日から、優子の気配はぱったりと途絶えたままだ。

 出流はちらりと、窓際で寺崎と話す三須の後ろ姿に目を向ける。

 あの後、三須が何も覚えていなかったことが分かり、本当にほっとした。三須自身の体調も特に変わりがなく、今日も元気に登校してきていて安心した。それはそれでいいのだが、問題は病院にいるあの男だ。結局あの後、何をするでもなくそのまま帰ってきてしまった。今日も見舞いについて行くのはあまりにも不自然だし、第一、肝心の優子の気配がない。出流は何をどうすることもできないまま、襲ってくる不安に胸をかきむしられる思いで、ただひたすら優子の出現を待っていた。



☆☆☆



「そうですか。そんなことが……」


 京子はつぶやくようにそれだけ言うと、じっと膝の上で組んだ両手を見つめた。

 院長室の応接用ソファに腰掛けた京子は、たった今、亨也から昨日の出来事を送信してもらったところだった。何ひとつ割愛せず、享也が見たままを。

 送信を終えた亨也は、向かい側に座る京子の、心持ち青ざめた顔を黙って見つめていた。

 母である京子と向かい合うのは久しぶりだった。五月末に院長室に呼び出されて以来かもしれない。病院内でたまにすれ違うことはあっても、特に話をすることもなかった。父である順平からあの事実を告げられて以来、初めてしっかりと顔を合わせる母親に、亨也も普段よりいくぶん構えながらも、伝えずにはいられなかったのだ。昨日の、あの出来事は。


「彼は、今は……」


 しばらくの後、京子がぽつりと問う。


「目覚めている時間は増えてきましたが、相変わらず見当識に混乱がみられます。名前を聞かれても、最初のうちは東順也と言っていたそうですよ。今朝になって、ようやく紺野秀明と答えたらしいですが」


 そう言って亨也も目線を落とすと、じっと手元を見つめた。


「ですから、昨日のことは本当に、無意識下で彼がずっと思っていたことが表出しただけなんだと思います。何の構えもなく、気負いもなく、彼はあの子どもとともに生きようとしている。これほどの男とは思っていませんでしたから、ある意味衝撃でした。何もできずに去ったあの子どもも、何らかの衝撃を感じているんではないでしょうかね。希望的観測ですが」


 いったん言葉を切ると、亨也は小さく笑った。


「彼が兄ということも、あってもおかしくないような気さえしてきました」


 京子は顔を上げて亨也を見た。亨也も、じっと京子を見つめている。


「明日、玲璃さんと会う約束をしました」


 京子の目がわずかに見開かれた。


「彼女に、紺野の出自を伝えるつもりはありません。ただ、私が総代でない可能性がわずかでもある以上、私は彼女に触れる資格はない。結婚してもしばらくは、私は玲璃さんに手を出すつもりがないことをお伝えするつもりです」


 瞬ぎもせず自分を見つめる京子の視線を受け止めながら、亨也は静かに言葉を継ぐ。


「それ以前に、彼女に私と結婚する意思があるのかを確認するのが先ですが。彼女は、まだまだ結婚という枠組みに閉じこめるには若すぎる。これまで彼女の様子を見ていて、つくづくそう思います。本当のところ、彼女に少しでも迷いがあれば、私はこの結婚は延期するべきだと思っています。私自身の身分もはっきりしていないのですしね」


 そう言って自嘲気味に笑う亨也を、京子は何とも言えない表情で見つめていたが、やがて深々と頭を下げた。


「……気苦労をかけますね。申し訳ない」


 亨也は小さく首を振ると、白髪の増えた京子の頭に優しいまなざしを向ける。


「顔を……見に行かれたら、どうですか?」


 一瞬だけ京子は動きを止めたが、ゆっくりと首を横に振った。


「私のせいで、あの子の人生は滅茶苦茶になってしまった。私は、あの子に合わせる顔がないですから」


 寂しげにうつむいた京子を、亨也はしばらくの間、黙って見つめていた。


「あなたのせいじゃありませんよ」


 ややあって、亨也がぽつりと口にしたその言葉に、京子はうつむいた姿勢のままで目を見開いた。


「こんなことになったのは、あなたのせいじゃないと私は思っています。あなたもある意味、被害者だと」


 そう言うと、窓の外に鋭い、でもどこか悲しげな目線を送る。


「全ては、われわれのこの血が、いけないんです」


 京子は目線を落としてうつむいたまま、しばらくは何も言わなかったが、やがて小さく息をつくと、少しだけその顔を上げた。


「それは……言っても詮無いことです」


 そして、ゆっくりと亨也の目線の先を追う。


「われわれは、生まれる先を選ぶことはできないですから。生まれてきた場所で、その立場で、生きていくしかないんですから」


 亨也と京子が言葉もなく見つめる窓の外には、小雨の降りしきる薄暗い空が、どんよりと重苦しく広がっていた。



☆☆☆  



 この日、ようやく紺野は簡単な会話が成立するようになっていた。

 看護師が、単純な記号の書かれた紙を、ぼんやりと天井を見つめている紺野の眼前に突きつける。


「これは、何ですか?」


「……丸」


「これは?」


「……三角」


 今度は、隣に立ってその様子を見ていた担当医が大きな声で、


「あなたの名前は?」


と聞くと、しばらくはぼんやりと天井を見つめたままだったが、やがて、


「紺野……秀明」


かすれた声ながら、はっきりと答えた。担当医はうなずくと、たたみかけるように言葉を継ぐ。


「年は?」


「……三十三」


 看護師と担当医はチラッと目線を交わした。


「通っている高校は?」


「青南……高校」


「学年、クラスは?」


「一年、B組……」


 看護師は記録と見比べてうなずいた。


「年齢以外は、全てOKですね」


「だいぶ見当識がしっかりしてきたようだね。……じゃあ、紺野さん、また来ますから。ゆっくり休んでくださいね」


 担当医の言葉に、紺野はぼんやりしながらも曖昧にうなずいた。

 担当医と看護師が立ち去ったあとも、紺野はじっと天井の模様を見つめていた。

 ここがどこなのか、まだ把握はできてはいなかった。病院という概念も、まだ彼の頭には戻ってきていなかった。ただ、この天井の模様は、いつかどこかで見たことがあった。それが四月に入院していた時の事だということももちろん分からないまま、彼はじっとその模様に見入っていた。



☆☆☆



 紺野にある変化が現れたのは、昼過ぎのことだった。

 うとうとと眠っていた紺野は、看護師が点滴の薬剤を取り換える気配で目が覚めた。


「あら、紺野さん。気分はどうですか?」


 若い看護師が、半透明の袋に入った薬剤を手に、にこやかに声をかける。紺野は曖昧にうなずくと、再び天井に目を向けた。時刻の概念もなく時間の連続性すらまだ把握し切れていない彼にとっては、日々は、細切れの情景が単調に繰り返されているだけのものにしか感じられていなかった。先ほど見ていた天井の模様が何だったのか、そればかりが気になって仕方がなかった。

 その時だった。

 突然、彼の頭に、ナイフで突き刺されたような痛みが走ったのだ。


「……!」


 思わず息をのんで顔をゆがめ、奥歯をきつくかみしめる。両手で頭を押さえたかったが、意識不明が続いていたためか、腕の筋力がまるで失われていて、動かそうにもベッドに縫いつけられたようになって動かせない。

 その刹那。


「きゃあぁ!」


 薄暗い病室に、看護師の叫び声が響き渡った。

 驚いて目線を動かした紺野の視界に、破裂したのだろうか、半分から下がちぎれ、夜干ししたイカのようになった薬剤の袋が飛び込んできた。看護師は慌てて紺野の腕の針を引き抜くと、ぼうぜんと干しイカと化した薬剤の袋を見上げた。


「……何? これ」


 看護師は震える手で床にまき散らされた薬剤を拭きとりながら、恐る恐るあたりを見回した。どこかから、石でも投げつけられたのだろうか? だが、窓ガラスが割れた形跡はない。たった今自分自身が取り換えたばかりの新しいボトルに、破損する原因がなかったことも知っている。

 紺野もまた、ぼうぜんとその光景に目を向けていた。ぼんやりとした彼の頭でも、異常な事態が起きていることだけは理解できた。ただ、それがどうして起きたのかまでは、今の彼の頭では理解することは難しかった。


「大丈夫でした? 紺野さん。おケガはありませんでしたか?」


 床を拭き終えた看護師は、不安そうな表情を浮かべている紺野を安心させようと、その顔をのぞきこんで優しく声をかける。紺野が小さくうなずくと、看護師は安心したようにほほ笑んで、破裂したボトルを手に立ち上がった。


「今、先生に連絡して針を刺し替えますね。申し訳ありません」


 紺野が看護師の言葉にもう一度小さくうなずいた、その時だった。

 再び、彼の額に激痛が走った。

 まるで極太のくさびでも打ち込まれたかのような激痛。頭全体が砕けるかと思うようなその痛みに、紺野は呼吸を止め、両手で頭を抱えようと動かない両腕に力を込める。

 次の瞬間。

 簡易テーブルに置かれていたガラスの吸い飲みが、涼しい音をたてて粉々に砕け散った。


「……!」


 看護師は息をのんで立ちすくみ、驚愕に顔を引きつらせて砕けた吸い飲みを見つめる。本当に跡形もなく、粉々に砕け散っている。看護師は指先が震え出すのを感じながら、あわててあたりを見回した。まるで、狙撃でもされたかのような砕け方だったからだ。だが、窓はしっかりと閉ざされ、外部から弾丸が通過した形跡はどこにもない。入口の扉もピッタリと閉じられていて、一分の隙も見あたらない。訳が分からず混乱しながら、看護師は震える指で、砕けた吸い飲みのかけらを拾い集め始めた。

 紺野はその時、おぼろげにではあるが、今起きたことと自分が関係していることに気付き始めていた。あの激しい頭痛と砕けた吸い飲みに、何か関係があるということに。


「……危ない」


 つぶやくような紺野の声に、かがみ込んでかけらを集めていた看護師はいぶかしげに顔を上げた。


「ここにいると、危ない……」


「紺野さん?」


「行ってください。あとは、僕がやりますから……」


 ベッドを降りようと上体を起こそうとするが、五日あまり意識がなかったのだ。いきなり動ける訳もない。まるでベッドに縫いつけられたかのように重い体を、それでも紺野は必死に起こし、震える手でシーツをはぎ取った。


「無理ですよ、紺野さん。少しずつリハビリしないと、いきなり動く事なんて……」


 看護師は慌てて立ち上がると、紺野を止めようとその肩に右手をかける。

 あの激痛が紺野を襲ったのは、それとほぼ同時だった。

 紺野が息をのみ、思わず目をつむった、刹那。


「ぎゃあああっ!」


 病室の薄暗くよどんだ空気を切り裂くような絶叫が響き渡った。

 廊下にまで響き渡ったその叫び声に気がついて、詰め所にいた看護師が何人か病室に駆け込んでくる。


「どうしましたか⁉ 紺……」


 駆け込んできた看護師は、眼前に広がっていた凄惨せいさんな光景に、言葉を失って立ちすくんだ。

 病室の真ん中に据え置かれたベッドの脇で、真っ青な顔の看護師が意味を成さない叫び声を上げながら、左手で右手を押さえて七転八倒している。看護師の右手の甲には大きな穴が開き、そこから噴水さながらに噴き出した鮮血が、看護師が七転八倒するたびに周囲に飛び散って、シーツや床を鮮やかな赤に染め上げていく。

 ベッドには、半身を起こしかけた姿勢のまま、返り血を浴びてぼうぜんとその状況を見つめている紺野の姿があった。今の彼には、目の前で繰り広げられているこの恐ろしい光景を、現実として認識することは不可能だった。ケガをした看護師が仲間の看護師に両側から支えられるようにして部屋を出て行ったことも、何人かの人が部屋を片付けていることも、自分が服を脱がされて着替えさせられたことも、いくつか受けた質問も、全てが夢の中の出来事のようで、何が何だかよく分からなかった。

 彼が何とか把握できたのは、自分があの看護師を傷つけてしまったという事実と、あの頭痛が起きるたびに、無意識に変な力が出てしまうということだけだった。

 紺野は、把握した事実に対して、何をどうすればいいかも分からなかった。ただ、自分の側に誰かが来れば、その人を傷つけてしまう可能性があることだけが、彼の頭に鋭くインプットされていた。

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