6月12日 1
6月12日(水)
「お名前は? 紺野さん!」
曇り空からわずかにのぞく太陽に弱々しく照らし出された朝の病室。病室内のよどんだ空気を吹き飛ばすような大声で、脳外科の担当医は呼びかけた。
紺野は焦点の定まらない視線を中空に向けながら、しばらくは何も言わなかったが、やがてぽつりとかすれた声で答えた。
「東……順也」
担当医はちらりと後ろに立つ看護師を見た。資料に目を落としていた看護師は、小さく首を振ってみせる。
「混乱がみられますね」
「見当識障害だな。だが、若干の発語はみられるようになってきた」
言いながら担当医は、胸のポケットから取りだしたペンライトを点ける。眼前で左右に揺れる小さな光を、紺野の目ははっきりと追うようになってきていた。
「追視もしているようだ」
「バイタルサインも安定しています」
医師と看護師が会話をしている間に、紺野は再び目を閉じて、深い眠りについたようだった。
☆☆☆
「でもよかったよね、紺野くん目が覚めて」
三須は寺崎の後ろを歩きながら嬉しそうにこう言うと、同意を求めるように隣を歩く出流に笑顔を向けた。
出流は曖昧な笑みを浮かべながら、微妙に視線をそらしてうなずき返す。
放課後。午後から本格的に降り出してきた雨の中、寺崎と出流、それに三須も加わった三人で、紺野の見舞いに行くことになったのだ。
「目が覚めたっつっても、意識がはっきり戻った訳じゃないらしいけどな。でもさ、いいの? 三須ちゃん。部活こんなに休んじゃって」
寺崎がちょっと後ろを振り返ってこう聞くと、三須はこともなげに笑った。
「平気平気。今日だってどうせ雨だしさ。大した練習できないし、今は紺野くんの方が大事だもん」
そう言って笑う三須の横顔を、出流はちらりと横目で見た。
昨日、優子がメモに書き付けた文字が頭に浮かぶ。
『誰か他に連れて行けばいい。そいつにやらせればいいから』
出流は、本当は相原を連れて行きたかった。あの男を殺す役には、まさに相原がうってつけだったからだ。だが、紺野と親しく話をしていたわけでもなかった原田が、見舞いについて行くはずもない。結局、寺崎との話を聞きつけて、一緒に行きたがったのは三須だった。
出流は三須が嫌いではない。孤立していた自分に声をかけ、励ましてくれた、この高校で唯一といえる友人なのだ。その彼女に、あの男を殺す役などはさせたくはなかった。
だが、このままでは自分の凶行がばれてしまう。寺崎も危険な目に遭う恐れがある。こうする以外にどうすればいいのかなど、出流にはもう考えられなかった。重い足取りで病院に向かいながら、出流は半ばぼうぜんと、寺崎と話している三須を眺めやっていた。
☆☆☆
面会者の名簿に名前を書くと、寺崎は三須にペンを渡した。三須もその下に名前を書き、今度は出流にペンを渡す。
出流はペンを受け取った瞬間、自分の右手に優子が来ている事を感じてはっとした。寺崎と三須が離れた場所で何か話しているすきに、そっとカバンからメモ帳を取り出す。
ペンは待ちかまえていたようにすらすらと言葉を書き連ねた。
『あの子と二人きりになって』
三須のことだ。出流は脈が一気に速くなるのを感じた。ごくりとつばを飲み込むと、小さくうなずく。
「いずるちゃん、書けた?」
突然、後ろからその三須が声をかけてきたので、出流は心臓が口から飛び出しそうになった。慌ててメモ帳をポケットに放り込むと、名簿に名前を走り書きしてうなずく。
脳外科の病棟に向かって歩き出そうとした二人に、三須が声をかけた。
「あ、ちょっとトイレに寄ってっていい?」
「おう。じゃ、この辺で待ってる」
三須は廊下の向こうのトイレに走っていく。出流ははっとしたように顔を上げると、慌てて自分も行く旨を寺崎に伝えて走り出した。
☆☆☆
三須が個室から出て手を洗っていると、出流が入ってきたのが鏡に映った。
「あれ、いずるちゃんも?」
声をかけたが、出流の返答はなかった。手を洗う三須の後ろにたたずみ、じっと黙ってうつむいている。トイレに行く様子もない。
トイレには、三須と出流の二人きりだった。
「どしたの? いずるちゃん」
「……三須ちゃん」
出流はうつむいたまま、小さい声でつぶやいた。三須はその顔をのぞき込むようにして首をかしげる。
「何?」
「ごめんね……」
その言葉と同時に、出流の両手が三須の頭をつかんだ。
三須の頭に添えられた出流の右手が赤い輝きを放つ。エネルギー波を可視できない三須に、それは見えなかった。その代わり、三須の目に映る白っぽいトイレ内が、一瞬で濃厚な赤一色に染まった。
☆☆☆
入院患者の回診をしていた亨也は、はっとして診察の手を止めた。
「先生? どうかされましたか?」
側にいた看護師が不審そうに声をかける。
「……いや、何でもない」
短く答えて診察を再開しながら、亨也は意識を鋭くとがらせる。今一瞬、微かに赤い気の発動を感知した。しかも、かなり近くだったような気がする。
亨也はちらりと腕時計に視線を走らせる。入院患者の回診が終われば、救急対応がない限り時間は作れる。
――紺野の所に行かなければ。
亨也は得体の知れない不安が重くのしかかってくるのを感じていた。今回感知した気配も、前回と同様に非常に微弱だ。だが、前回はそれであんな酷いことが起きていたのだ。亨也は、今は自分の超感覚より、人間なら誰しも働かせることができる直感を信頼した方が間違いがないような気がしていた。胃の辺りが重苦しく、居ても立ってもいられないような焦燥感と不安感。紺野の身に何か恐ろしいことが起こりつつあることを、亨也の直感は激しく警告し続けていた。
☆☆☆
エレベーターから降りた三人は、まっすぐ紺野の病室へ向かった。
「紺野、今は個室なんだ。ゆっくり顔も見られると思うよ」
寺崎はそう言って半歩後ろを歩く出流に笑いかけた。出流も曖昧に笑ってうなずいたが、出流の左隣を歩く三須は無言のままだった。トイレから戻ってきて以来、あのおしゃべりな三須が、一言も口をきいていない。
――腹でも痛いのかな?
寺崎はちょっと不審に思いつつも、さほど気にも留めずに紺野の病室の扉を開けた。
雨のためか、明かりのついていない病室は薄暗かった。小さな窓に、雨滴がぴしぴしと小さな音をたてながら、間断なくたたきつけられている。
紺野は眠っていた。相変わらず穏やかな表情で、おとといと何ら変わりないように見える。
「ほら、寝てるみたいだろ? もう大丈夫だからさ」
寺崎に促されて、出流はどきどきしながらその顔をのぞき込んだ。
その途端、血反吐にまみれて自分を見た、あの悲しげな表情が二重写しになって眼前に浮かんできた。弾かれたように紺野の顔から目をそらし、思わず一歩後じさってしまう。
「どうしたの?」
寺崎がけげんそうに声をかけるので、出流は恐る恐るその顔に目を向ける。傷だらけの顔はそれでも穏やかで、確かに生きて、呼吸を繰り返してもいる。
出流は訳の分からない息苦しさを感じて、目をつむって顔を背けた。これ以上、その顔を直視し続けるのは耐えがたかった。そのうちに勝手に涙があふれてきて、止まらなくなった。
肩を震わせて涙を落としている出流の後ろ姿を、寺崎は同情を込めて見つめていた。あの時のショックがよみがえったに違いない、かわいそうに……。寺崎は静かに歩み寄ると、しゃくりあげる出流の肩にそっと右手を置いた。
「つらいよな、分かるよ」
手近にあった丸椅子を引き寄せ、そこへ出流を座らせる。
「落ち着くまで、泣いていていいよ。落ち着いたら、今日は帰った方がいい」
出流は寺崎の優しさに、嬉しいような、同時に申し訳ないような気がして、言葉を返すどころか、顔すらも上げられずにいた。
その時だった。
出流の頭に、優子の声が響いたのだ。
【彼ヲ、連レ出シテ!】
こめかみを銃弾で撃ち抜かれたような衝撃に、出流は息をのんで動きを止める。
始まるのだ。
ちらっと背後に立つ三須に目をやる。優子に意識を乗っ取られた三須は、さっきから部屋の中央にぼうぜんと立ちつくしたままで動かない。ゆるゆると、目の前で静かに眠る紺野に目を向ける。穏やかな表情で、確かな呼吸を繰り返している。
出流は指先が震え出すのを感じた。
――本当に、この人を殺してしまっていいの? 罪を隠すために、罪の上塗りをするようなまねをしてしまって、本当に大丈夫なの?
混乱する出流の意識に、再び優子の声が響き渡る。
【早ク!】
キリの先端をねじ込まれるような痛みに、出流の思考は停止した。とにかく、殺らなければ。そうしなければ、彼も、自分も、安全ではいられないのだ。
「寺崎くん、あたし、ちょっとここにいるのはつらいみたい……」
出流は涙を拭って立ちあがると、めまいでもしたかのように大げさによろけてみせる。
「だ、大丈夫?」
寺崎は慌てて出流の背中に手を添えると、心配そうにその顔をのぞき込んだ。
「大丈夫……ごめんね。ちょっと、廊下の椅子まで連れて行ってもらえるかな……」
寺崎はうなずくと、ちらっと背後にたたずむ三須に目をやる。特に返事はなかったが、三須がうなずいたような気がしたので、寺崎は出流の背を支えて病室を出た。
☆☆☆
静まりかえった病室には、三須と、昏々《こんこん》と眠る紺野の二人きりになった。
窓ガラスをたたく雨音だけが、凍り付くような静寂にわずかな変化を与えている。
横開きの扉が完全に閉まった音が低く響くと、三須の口角が非対称に引き上げられ、その顔に不気味な笑みが浮かんだ。三須はその笑みを口元に貼り付けながら、ゆっくりと紺野の枕元に歩み寄り、両手を無防備なその首に伸ばす。三須の白い指先が、優しさすら感じさせるたおやかな動きで、首の周囲を包み込む。
紺野の首に触れた三須の指先が、あたたかな体温を感じた、瞬間。
三須の足元が、まるで砂でできていたかのように、一気に崩れ落ちた。
「……!」
三須の周囲を取り巻いていた世界……病室の白い壁や、雨粒がたたきつけられていた窓、紺野の寝ているベッド、そして昏々《こんこん》と眠る紺野自身までもが、水平に置いてあった砂絵を垂直に立てかけた瞬間のごとく、たちまちのうちに崩れ落ち、流れ去り、その背後にあった真っ暗な空間が姿を現し始める。
まるで宇宙空間のように真っ暗な、なにもない空間。その中心に向かって、三須はどこまでも墜落していった。
意識操作による一種の幻覚だと言うことは分かっていた。だが、この状況が延々と継続することは、三須を操る優子にとっても好ましいことではない。
三須の体が、禍々しい赤い輝きを放つ。
三須を操る優子は、病室があると思われる空間に遮断を張り巡らせると、能力発動で三須の体を制御した。墜落を止めて空中で静止した三須の体は、赤い輝きをまといながら真っ暗な空間にふわりと浮かんでいた。