6月11日
6月11日(火)
「優ちゃん、おはよう!」
佐久間は優子の耳元に口を寄せてこう言うと、表情の変化を注意深く見る。
優子は薄く目を開き、しばらくの間自分をのぞき込む佐久間とは少しずれた辺りの天井をじっと見つめていたが、やがていつものように大きく目を見開くと、辺りをくるくると見回し始めた。
佐久間は体を起こすと、安心したように息をついてほほ笑んだ。ようやく優子の意識がはっきりし始めたのだ。意識が遠のいてから丸三日、うとうとと寝たり起きたりの状態が続いていたが、最近になってようやく、以前のようにはっきりと目を開けてくるくると辺りを見回す様子が見られるようになってきた。
「今回も長かったけど、よかった。優ちゃん、ご飯食べたい?」
佐久間が耳元でこう言うと、優子は目線をくるくる泳がせながら口をちょっと開く。
「そう、良かった! じゃあ、今用意してくるわね。たくさん食べられるかな?」
佐久間が嬉しそうに部屋を出て行ったあとも、優子は相変わらず天井を見上げながらくるくると視線を泳がせていた。
☆☆☆
出流ははっとした。あれから四日たったこの日、ようやく出流の右手が動いたのだ。
「優ちゃん!」
思わず大きな声を出してしまってから、慌てて口をつぐんで辺りを見回す。中休み、ざわついた教室にいる生徒たちは、出流のことなど誰一人として気に留めていない。
出流はほっとして、手元のメモに書かれた文字を見つめた。
『遅くなって、ごめんね』
視界がにじんで、たちまちのうちに文字がぼやける。出流は大きく首を横に振った。
『あいつ、生きてるね』
その文字を読んだとたん、今まで抑えていた感情があふれ出てきた。涙がとめどなく出流の頬を流れ落ちる。
「そうなの。どうしよう、優ちゃん……」
するとペンは、いかほどの逡巡も見せず、すらすらとこんな事を書き付けた。
『大丈夫、あたしがついてるから』
出流は張り詰めていた緊張の糸が一気に解けて、体中の力が抜けるような感覚にとらわれつつ、その安心感もあいまって、流れ落ちる涙を止められずにいた。
と、トイレから戻ってきたらしい寺崎が、前扉付近で足を止めた。涙を流している出流に気づいたらしく、目を丸くして近づいてくる。
「どうかした? いずるちゃん」
出流は大慌ててメモを閉じると、涙をぬぐった。
「な、なんでもない。何かあれ以来、精神的に不安定で。ふとした拍子に、しょっちゅう涙が出ちゃって……」
寺崎はさもありなんと言いたげにうなずくと、心配そうに出流の顔をのぞき込む。
「あんな目にあったんだから無理ねえよな。不安な時とかがあったら言ってくれよ。まあ、級長だからってなんとかできるとは限らねえけどさ」
出流は赤くなると、遠慮がちにうなずいた。
寺崎が自分の席に戻ってしまうと、出流はほっとしたように再びメモを開いた。
『優しいね、彼』
出流は恥ずかしそうにほほ笑みながら、こくんとうなずく。
『彼は見舞いに行ってるの?』
昨日は確か行ったはず。出流は再びうなずいた。
『それについて行こう』
その文字を、出流はぎょっとしながらもう一度読み返した。
「で、でも、そこで何かあれば、あたしがやったってばればれ……」
するとペンは、さらさらとこんな事を書きつけた。
『誰かもう一人、連れて行けばいい』
出流はけげんそうな表情でその文字を読んでいたが、やがてその目を大きく見開くと、唇をわななかせ始めた。
『そいつにやらせればいいから』
「……でも、どうやって?」
『あたしにまかせて』
暴れまわる心臓の鼓動を感じつつ、出流はメモに書き付けられたその文字を何度も読み返した。
☆☆☆
「寺崎くん……。今日、紺野くんのお見舞い、行くの?」
昼休み。教室の隅で購買組の男子生徒数人と弁当を食べていた寺崎に、おずおず出流が声をかけてきた。
箸を止めて振り返った寺崎は、すぐに小さく首を振った。
「行きてえんだけど、生徒会の会合があって面会時間に間に合いそうもねえんだ。生徒会長も休んでるみたいだし、俺が行っとかないとまずいから」
「……そう」
うつむいた出流に、寺崎は明るく笑いかけた。
「サンキュな、いずるちゃん」
「え?」
「紺野のこと、心配してくれて。でも、あいつなら大丈夫だから。明日でよかったら、一緒に見舞いに行こう。ごめんな」
出流は寺崎の笑顔から居づらそうに目をそらすと、小さく首を振った。
その時、携帯が着信を知らせて振動したらしく、寺崎は慌ててポケットから携帯を取りだした。
「はいはい、誰っすか?」
送信者の名前を見て、寺崎は少しだけ目を見開いた。
『今日の生徒会の詳細、あとで教えてください』
『紺野の様子は私が見てきます』
寺崎はすぐさま返事を打つと、送信した。
「どうしたの?」
不審そうな表情の出流に問われ、寺崎は慌てて携帯をポケットにしまった。
「いや、何でもない。事務連絡的な? ……とにかく、明日一緒に見まい行くってことで、いい?」
「あ、はい。よろしくお願いします」
寺崎はにっこり笑うと、向こうを向いて再び弁当を食べ始めた。
出流はそんな寺崎の後ろ姿をじっと見つめながら、しばらくの間、その場にたたずんでいた。
☆☆☆
六階でエレベーターを降り、個室の方に歩き始めた玲璃は、少し先を歩く見覚えのある後ろ姿に気づいた。
「……亨也さん」
玲璃の声が聞こえたのか、その人物――享也は足を止めて振り返った。玲璃の姿を目に留めると、穏やかなほほ笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。玲璃の全身に、電流のようなあの感覚が走り抜けた。
玲璃はいたたまれずに目線をそらした。亨也の顔を見ると、あの夜の寺崎とのことが頭によみがえってきてしまうのだ。
『俺、総代のこと、……ずっと、好きでした』
そう言って自分を抱きしめた寺崎の腕の温もりが、まだ体に残っている気がする。紺野の状態が厳しかったときはそちらの方が気がかりで、とてもそんな浮ついたことを気にしてられる余裕はなかった。だが、紺野の状態が落ち着いてくるにつれ、あの夜のことが頭について離れないのだ。昨日も、ふとした拍子にそのことばかり思い出しては悶々としていた。さっき寺崎に送ったあの伝言も、送るまでにはかなりの勇気を必要とした。そんな矢先、許嫁である亨也にばったり会ってしまったのだから、気まずい思いをするのも至極当然だった。
「今日も護衛付きですか?」
そんな玲璃の内心はつゆ知らず、亨也はにこやかに話しかけてくる。玲璃は目線をそらしてうなずくと、話題が途切れないよう慌てて問いかけた。
「紺野の様子は、どうですか?」
「脳外の先生に少し目が開くようになってきたと聞いたので、ちょっと様子を見に来たところなんです」
その言葉に、玲璃はぱっと表情を輝かせた。
「意識が戻ったんですか?」
だが、亨也は小さく首を振った。
「いえ、まだそこまではいきませんが。目を開いたといっても覚醒は不完全です。反射的な行動は見られるかもしれませんが、意識が戻ったとは言えません」
がっくりと肩を落とした玲璃を見て、亨也は元気づけるように言葉を継いだ。
「でも、刺激を与えれば目が開くというのは大事なステップです。もっと意識レベルが改善してくれば、簡単な会話も成立するようになるかもしれない」
そう言って紺野の部屋の扉を開けると、玲璃を先に通して自分も中に入る。
玲璃は急ぎ足で紺野の枕元に行くと、その顔をのぞき込んだ。傷だらけではあったが、穏やかな表情で、静かに眠っている。あんな目にあったことがまるでウソのようだ。抜管され、つながれている管の数も初日よりははるかに少ない。回復傾向にあることが明らかに見て取れ、玲璃はホッとして涙が出そうになった。
亨也も玲璃の脇から紺野の顔をのぞき込むと、胸のポケットからペンライトを取り出した。
玲璃は診察だろうと思い一歩後ろに下がって場所を空ける。
すると亨也は、紺野の肩を強くたたくと、耳元に口を寄せ、大声で呼びかけ始めた。
「紺野さん! 紺野さん! 目を開けてください!」
玲璃は驚いて目を丸くしたが、黙って亨也と紺野の様子を見守った。
すると、それまで昏々《こんこん》と眠っているだけだった紺野が、ほんのわずか、頬を引きつらせたかと思うと、うっすらとその目を開いたのだ。
玲璃はおもわず息をのむと、固唾をのんで紺野の動向を注視する。
目が開いたことにさほどの関心を示さず、亨也は大きな声で紺野の名を呼びながら、こんな問いかけをした。
「お名前は? 紺野さん、お名前はなんですか?」
紺野の反応はなかった。焦点の定まらない視線を、じっと中空に向けているだけだ。
亨也はある程度予測していたのか特に落胆する様子もなく、今度はペンライトの明かりを点け、紺野の目の前で左右にゆっくりと揺らし始めた。紺野の視線が、微かにペンライトの明かりを追って左右に動いたようだった。
「追視は、し始めているようですね」
亨也はつぶやくと、ペンライトの明かりを消してポケットにしまい、玲璃の方を見る。玲璃は半分口を開けて、ぼうぜんと紺野を見つめている。
やがて紺野の目が静かに閉じ、規則的で静かな呼吸を繰り返し始めると、玲璃はようやく亨也に目を向けた。
「亨也さん、紺野は……」
「順調ですよ」
亨也はこともなげにそう言うと、玲璃を安心させるようにほほ笑んでみせる。
「光を目で追い始めていますから。このままいけば、あと数日で簡単な質問にも答えられるようになると思います。言葉を忘れていなければ」
玲璃がドキッとしたような表情を浮かべたので、亨也は説明を加えた。
「まあ、彼の場合は脳幹部挫傷なので、言語中枢はやられていないでしょうし、理性的な部分も問題ないと思います。呼吸や心拍もしっかりしていますから、このまま順調に回復する可能性が大きいです」
それから、静かに眠る紺野の顔に目を向ける。
「ただ、どういった後遺症が出るかについて、確定的なことは言えません。脳はまだまだ未知の部分が多いですから。とにかく今は、彼の回復力を信じて待つしかありません」
亨也は言葉を切ると、玲璃に目を向けた。
「なかなかゆっくりお話しする時間がとれなくて、すみません」
玲璃は顔を上げると、慌てて首を横に振る。
「そんな……仕方がありません。亨也さんはお忙しいですから」
「金曜日、非番なんです」
玲璃は亨也の端正な顔を見つめた。
「平日に非番があっても、これまではなかなかお会いできなかったんですが、もしよかったらその日、少しだけお時間をいただけませんか」
そう言ってから紺野を見やり、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「こんなたいへんな時にそんなことを言うなと、怒られてしまいそうなんですが……」
玲璃も紺野に目を向ける。穏やかな表情で眠っている紺野をじっと見つめてから、玲璃は享也に目を移してほほ笑んだ。
「紺野は、そんなことくらいで怒らないと思います。ほんとに、いい人ですから……」
その答えに亨也も笑顔を浮かべると、軽く頭を下げた。