6月10日
6月10日(月)
みどりと寺崎は、黙って食卓を囲んでいた。
しんと静まりかえった部屋に、微かな鳥のさえずりだけが響いてくる。
一カ月前まで、ごく当たり前だった二人きりの食卓。でも、今は何だかやけに静かで味気ないものに感じられた。
「何か、静かだな」
「そうね」
寺崎は食パンをかじりながら、いつも紺野が座っていた席にちらりと目を向ける。
「あいつ、そんなにしゃべる方じゃなかったんだけどな」
「……そうね」
みどりも紺野の席に目をやると、食欲がないらしく、かじりかけのパンを皿に置いて小さく息をついた。
「今日は帰りがけ、紺野さんのところに寄る?」
「うん、そのつもり」
「そうしたら、昨日持って行くの忘れた歯ブラシとスリッパ、持って行ってくれる? 母さんも行けたら行くんだけど、何だか頭が痛くって……」
「分かった。じゃあ、今のうちにもらっとく。俺、学校から直接行くつもりだから」
みどりが車椅子をまわして荷物を取りに行ってしまうと、寺崎は食卓に肘をつき、じっと紺野のいない席を見つめた。
穏やかな笑顔を浮かべながら、コーヒーを飲んでいる紺野の姿が浮かんでくる。
「……早く、帰ってこいよ」
寺崎は、祈るような気持ちでつぶやいた。
☆☆☆
教室に入った途端、寺崎の姿を見つけた三須が走り寄ってきた。
「おはよ、寺崎! 紺野くん、どんな様子?」
幾分あおざめながら早口でまくしたてる三須に、寺崎はちょっと笑って見せた。
「大丈夫。死んでねえよ」
三須は息をのみ、それから大きなため息をつくと、一気に力が抜けたようにへなへなと自分の席に座り込んだ。
「よかったぁ……。あたし、ほんとにもう駄目かと思ったから……」
大きな目いっぱいにたまった涙が、次から次へと頬を伝い落ちる。
「三須ちゃんは直後のあの状況を見ちゃったからな。あれは確かにショックだよな」
三須は教室に寺崎達の姿がないことに気付き、探しに出て、直後の惨状を目の当たりにした一人なのだ。しゃくり上げながらあふれる涙を拭う三須に、寺崎はつとめて明るく笑いかけた。
「でも、もう大丈夫だよ。あいつは火事にあっても通り魔にあっても、絶対に死なねえから」
金曜日の事件は、謎の通り魔事件として扱われているのだ。三須は寺崎の言葉に、涙を拭いながら何度も何度もうなずいた。
「そうだね。ほんとうに良かった。偉いよ、紺野くん……」
出流はそんな二人の会話を、後ろの席からじっと耳を澄ませて聞いていた。
彼女の握っているペンは、相変わらず動く気配はない。ただ、そのペン先はそれとは関係なくわなわなと動き、メモ帳に意味のない曲線を何本も描いている。
出流の手が、震えているのだ。
――あの男が、生きている。
腹の底から突き上げてくる焦燥感と恐怖感。出流は視界が狭まってくるような感覚にとらわれていた。今はまだあの男の意識が戻ってはいないからいいようなものの、数日後に意識が回復すれば、自分の罪が明らかになってしまうのは必至なのだ。
――あたしが、人殺し?
『女子高生が同級生を殺人未遂』という新聞のタイトルが頭を過ぎり、自宅を取り囲むパトカーのサイレンと、カメラを構えた報道陣と、ひそひそ額を寄せて冷たい目線を投げかける隣人と、事態を受け入れられずパニックに陥る両親の姿が、またたく間に出流の意識を占領する。
出流はぼうぜんと目の前を見つめながら、わななく指先で唇をなぞる。
そんなことになる前に、何としてもあの男を殺さなくては。だが、どうしたらいいのかなど分かりようもない。うろたえ、混乱し、おびえる心をどうすることもできないまま、出流はただひたすら、優子の出現を待っていた。
☆☆☆
紺野はICUから、六階の脳外科の個室に移されていた。
酸素マスクも取れて輸血も終了し、今は点滴の管と導尿管にのみつながれている。擦り傷だらけの顔は少々痛々しかったが、その表情は穏やかで、まるで眠っているようだった。
意識の回復するきざしはまだ見られないが、寺崎にとってはそれでもう十分だった。持ってきた歯ブラシとスリッパを棚に置くと、紺野の顔に目を向けながら、無言で枕元の丸椅子に座る。
「何か、眠ってるみたいだね」
寺崎に無理やりついてきた三須も、その穏やかな寝顔を見て安心したようだった。ほっとしたようにそう言うと、眠っている紺野の顔をまじまじと見つめる。
「紺野くんのまつ毛、長いね……」
感心したようにつぶやいた三須の言葉に、寺崎は少しだけ笑顔をみせた。
「だろ? 前、つまようじ何本載るか挑戦したら、こいつ三本いけたんだぜ」
「ええ、マジで? すごーい……っていうか、そんなことしたんだ、紺野くん」
驚いたように目を丸くしてから、三須もいくぶんほっとしたような笑顔を浮かべる。
「したよ。すんごい笑ってた。こんなに笑ったことねえって言って……」
寺崎は言葉を切ると、じっと紺野の顔を見つめた。
「……早く起きろよ、紺野」
三須は笑いを収めて寺崎に目を向ける。丸椅子に腰掛けた寺崎は、両膝に肘を預け、食い入るように紺野の顔を見つめていた。
「寝坊すんのは、俺の役なんだよ。おまえは、俺を起こす役じゃねえか……。そのおまえが、いつまでもぐーぐー寝ててどうすんだよ」
顔にかかる前髪越しにわずかにのぞいている寺崎の唇が、微かに震える。
三須はハッとしたように目を見開くと、胸のあたりをきつく押さえた。
寺崎の目のあたりからこぼれ落ちた滴が、灰色の床にぽつりと小さな水たまりを作る。
紺野がこんな状態になってから三日目。この日、寺崎は初めて涙を流した。