6月9日
6月9日(日)
出流の自宅は、西城の小高い丘の上にある大豪邸だ。周囲を大きな木々に囲まれた、イギリスの洋館を思わせる外観の白亜の建物を見ていると、一瞬ここが日本ではないような錯覚に陥りそうになる。
その建物の一番西の端、日当たりのいい二十畳ほどの自室で、出流は先ほどからメモ帳を前にペンを握り、じっと机の前に座って動かない。
おとといは一睡もできなかったが、昨夜はようやく五時間ほど眠れた。だが、うとうとと眠りかけたかと思うと、夢の中に血だらけのあの男が出てきて、その度にハッと目を覚ましてしまうのだ。
出流はペンを握っている自分の、震える右手に目を向ける。
あの男の肉を切り裂き、内臓に手が触れたあの生あたたかい感触。血を吐きながら、何か言いかけて自分を見た、あの男の目。忘れようにも忘れられなかった。目を閉じると即座に、あの男の、あの瞬間の顔が浮かんできてしまう。怒りや、恐怖は感じられなかった。ただ、何とも悲しそうな目をしていた。
出流は朝から、ずっと自分の手が動き出すのを待っていた。だが、優子はあれから一度も現れていない。
出流は諦めたようにペンを放り投げると、椅子の背もたれに体重を預けて天井を仰ぎ、ため息をついた。
あの男はどうなったのだろう。あの後、寺崎と一緒にいたあの女性が迅速に通報し、即座に駆けつけた救急車に乗せられて病院に搬送されていった。
出流は不安だった。
あの医者らしき女性がいたおかげで、発見後すぐさま冷静かつ適正な応急処置がなされ、救急車の到着も早かった。だが、早すぎると出流は思った。止血なんかしないでほしかった。もっとみんながうろたえて、どうしていいか分からない状態で、二時間でも三時間でも放置されていてほしかった。
そうすれば、確実にあの男は死んだから。
寺崎が救急車に同乗したとき、出流は止めたかった。一緒に行ってほしくなかった。もしあの男が生きていて、仮に意識が戻った時、傷つけられた腹いせに寺崎に何かしたら……そう思うと、心配でいても立ってもいられなかった。
あの後、警察から事情も聞かれたが、出流が村上財閥の令嬢と分かった途端に丁重に帰された。今後、自分に疑いが振り向けられることはないだろう。あの男が生き返って、今回のことをしゃべりさえしなければ……。
そこまで考えて、何に思い当たったのか、ハッと目を見開いて息をのむ。
それは裏を返せば、もしあの男が生きていれば、自分のしたことが白日の下にさらされてしまう可能性が大いにあるということなのだ。
出流は冷たい汗が背中を流れ落ちるのを感じながら、激しく暴れ出す心臓を両手できつく押さえつけた。
――あの男の生死を、確認しなければ。
もし、死んでいなければ、また殺さなければならない。そうしなければ、寺崎の安全も、自分の安全も、何ひとつ保障できないのだ。
――優ちゃん、どうしたの?
出流は机の端に転がっていたペンを震える手で再び握ると、唯一の頼みの綱である優子の意識が再び自分に語りかけてくれるのを、ただひたすら待っていた。
☆☆☆
「佐久間さん、どうでした?」
三島が声をかけると、階段を降りてきた佐久間は浮かない顔で首を振った。
「だめ。また眠っちゃった。優ちゃん、疲れてるのかなあ……」
そう言うと足を止め、首をかしげてつぶやく。
「ここのところ蒸し暑くて天気もいまいちだから、部屋の中で大人しく過ごしてるはずなんだけど、おとといあたりから眠っちゃって、……どうしたのかしら」
三島は心配そうな佐久間を元気づけるように、明るく言った。
「まあ、大丈夫ですよ。このくらいの眠りは今までだってよくあったじゃないですか。明日にはきっと、意識もはっきりしてきますよ」
「だといいんだけど……」
佐久間は三島の言葉にうなずきつつも、ちらりと階段上を見上げると、またひとつ深いため息をついた。