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輪廻  作者: 代田さん
第四章 転落
147/203

6月8日 2

 小さな窓からかろうじて見える四角い空が徐々に明るさを取り戻し、薄暗かった廊下をぼんやりと照らし出し始める。

 ふと目を覚ましたみどりは、あわてて腕時計に目をやった。午前四時だ。見ると、寺崎も玲璃も長椅子でぐっすりと眠り込んでいる。

 紺野はどうなったのだろう? ICUの入口に軽く背を向けるような形で車椅子を止めていたみどりは、入口の方に顔を向けた。

 その目に、見慣れない人物の後ろ姿が映り込み、みどりはハッとした。

 白髪交じりの髪をひとまとめにして結い上げた、後ろ姿から推察するにみどりよりやや年長の女性だ。白衣を着ているところを見ると、病院関係者なのだろう。ファイルのようなものを片手に、じっとICUの入り口を見つめている。中にはいる様子もなく、みどりに見られている事にも気づいていないようだ。

 みどりはふと、先日の息子の言葉を思い出していた。


『俺、許せねえんだ。紺野を捨てやがった、神代総帥が』


――この人は、もしかして。


 ある予感にとらわれたみどりは車いすの向きを変えると、意を決するように大きく息を吸い込み、その息を吐き出す勢いで女性に声をかけた。


「あの、……」


 その女性は、みどりの動向に全く気づいていなかったらしく、驚いた様子で振り向いた。いくぶんやつれている感はあるが、まつ毛が長く、色白で、細い首元が清楚せいそな雰囲気を醸し出している。若い頃はさぞかし容姿端麗だったであろうその容貌に、みどりは確信を深めると、頭を下げた。


「突然失礼します。私、寺崎みどりと申します。今、紺野さんの身元引受人をさせていただいている者です」


 女性はみどりのことを知っていたらしく、特に驚いた様子はなかった。


「こんな時間まで、ご苦労さまです。このたびはいろいろとお世話になり、本当にありがとうございました」


 そう言って頭を下げたその女性の、白髪交じりの茶色い髪をじっと見つめながら、みどりは遠慮がちに問いかける。


「あの、あなたは、もしかして……」


「私は、神代京子と申します」


 みどりはごくりつばを飲み込むと、念を押すように確認する。


「神代総帥、ですね」


「はい」


 ゆっくりとうなずいたその女性を、みどりはまじまじと見つめた。


――この方が紺野さんの、お母さん。


 いてもたってもいられなかったのだろう。こんな時間に、まるで他人の視線を避けるかのようにやって来て、しかし部屋の中にも入れずに、廊下の端にたたずんで様子をうかがっていたのだ。みどりはなんだか胸が締め付けられるような気がして、あわてて喉の奥のこわばりを飲み下すと、おもむろに口を開いた。


「……紺野さんは、本当にステキな子ですね」


 京子は戸惑ったような表情を浮かべたが、みどりは構わずに言葉を継いだ。


「優しくて、穏やかで、まじめで……頭もいいし、足も速いし、お料理だって上手なんですよ。あんな子、なかなかいません」


 京子は黙って、みどりの言葉に耳を傾けている。


「だから、あの子の身内が見つかるまで、私は親代わりをさせてもらって、本当に幸せなんです。あの子が少しでも楽しく過ごせるようにサポートさせてもらえればって、いつも思っています。義務感はないんです。本当に、そうさせてもらうことで私も幸せをもらっているといいますか……。だから、お礼を申し上げるのは、私の方なんです」


 そう言うとみどりは居住まいを正すと、京子に深々と頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます」


 京子は無言だった。みどりは目線を落としたまま、自分に言い聞かせるように言葉を継いだ。


「あの子は、きっと大丈夫です。だって、これから先、あの子はもっと幸せにならなきゃいけませんもの。あんなにステキな子なんですから」


 そう言って顔を上げると、みどりは京子を見てほほ笑んだ。その目は、朝の弱々しい光を受けて、小さな光を放っているように見えた。


「そのために、あの子は生まれ変わったんです。私は、そう思っています」


 京子は瞬ぎもせずそんなみどりを見つめていた。表情にほとんどど変化もなかった。だが、みどりはその静かなまなざしの奥に、激しい感情の揺れが隠されているような気がした。

 京子は黙ってみどりを見つめていたが、ややあって、深々とその腰を折り曲げた。


「一族の長として、厚く御礼申し上げます。それほどまでに深く思いやっていただいて……本当に、感謝の言葉もありません」


 みどりは切なげな表情を浮かべると、とんでもないと言いたげに小さく首を横に振った。


「お休みの所、お騒がせしてしまって申し訳ありません。これで、失礼させていただきます」


 きびすを返して立ち去りかけた京子の後ろ姿に、みどりは慌てて声をかけた。


「あの……、お忙しいとは存じますが、もしよろしければ、今度うちに遊びにいらしてください。紺野さんがよくなったら……。不躾ぶしつけな申し出なのは、重々承知の上ですが……」


 京子は足を止めて振り返った。その頬には、初めて小さな笑みが浮かんでいた。


「ありがとうございます。機会がありましたら、ぜひ伺わせてください」


 そう言って再度一礼すると、ゆっくりと歩き去っていった。


「……おふくろ、あれ、誰だ?」


 その後ろ姿を見送っていたみどりは、突然後ろからそう問われ、驚いて振り返った。見ると、すっかり目を覚ました寺崎が、うろんげに立ち去る女性を見つめている。


「神代総帥だ」


 すると、寺崎の隣に座る玲璃が、みどりに代わってその問いに答えた。二人ともずいぶん前から気がついていたが、起きるに起きられず、気配を消して寝たふりをしていたらしかった。

 玲璃の言葉に寺崎は目を丸くすると、もう一度廊下の向こうに目を向ける。すでに神代総帥の姿はエレベーターホールに消えていた。


「おふくろが、声かけたのか?」


 うなずいたみどりを、寺崎はさらに目を丸くして、まじまじと見つめた。


「どうして……」


 すると、みどりはほほ笑みながらさらりとこう返した。


「どうしてって……聞いてたでしょ。お礼がしたかっただけ。紺野さんを預けてもらったお礼がね」


 それから、ICUの白い扉をじっと見つめる。


「紺野さん、どんな様子なのかしら……」


 寺崎も玲璃も、その言葉に表情を改めると、無機質なICUの扉に目を向けた。

 廊下の突き当たりの小さな窓から、明るい朝の光が差し込んできていた。



☆☆☆


  

 神代亨也がICUにやって来たのは、近くのコンビニで寺崎が買ってきたおにぎりを、みんなで食べていた時だった。

 廊下の向こうから歩いてくる彼の姿に目をとめると、おにぎりをほおばっていた寺崎は慌てて立ち上がり、勢いよく頭を下げた。


「お、おはようございます、総代!」


「ご苦労さまです、皆さん」


「神代先生、紺野さんは……」


 不安げに問いかけるみどりに、亨也はほほ笑んでうなずいた。


「山は越えましたよ」


 寺崎は目を見開き、みどりは大きく息を吸い込み、玲璃は両手で口を覆ってから、張り詰めていた緊張の糸が一気に解けたかのように、三人同時にため息をついた。


「先生、いつも本当にありがとうございます……」


 みどりがにじんだ涙を指先で拭いながら深々と頭を下げると、寺崎も玲璃もそれにならって頭を下げる。亨也は笑顔で首を振った。


「みなさんこそ、大変でしたね。いったん帰って休まれるといいですよ」


「先生も寝てらっしゃらないんじゃありませんか?」


「今、三時間ほど仮眠して来たので大丈夫です」


 そう言われれば、亨也にしては珍しく少々乱れた髪をしている。みどりが申し訳なさそうな表情を浮かべると、隣に立つ寺崎が口を開いた。


「先生、紺野は今、どんな状態なんですか?」


「腹部創傷で大量出血の原因になっていた損傷は完全に修復しました。循環動態も安定していますし、感染の心配もないようにしておきましたから、今日にも一般病棟に移れると思います。ただ、脳挫傷の方は少々厄介です。出血が止まったとはいえ、脳浮腫も起きていますし、意識が戻るまでにはどんなに早くてもあと数日はかかるでしょう。脳が傷ついたのは確かなので、後遺症が残る可能性もあります。記憶障害は確実に出るでしょうし」


「記憶障害?」


「ええ。よく見られることですが、頭を打った前後の記憶がとんでしまうのです。目が覚めても、あの時のことは恐らく覚えていないでしょう。ひどい時は、自分が誰だったかさえ忘れてしまう場合もある。脳にはまだ未解明な部分が多いので、そのあたりは私も手の出しようがない。どの程度になるかは、目が覚めてみないと何とも言えません」


 そう言うと、亨也は表情を改めて寺崎を見た。


「寺崎さん、ひとつお願いがあるのですが」


「あ、はい」


「あの時、学校で何があったのか、あなたが見たものを共有さていただいても構いませんか」


「は、はい。もちろんです」


 寺崎が差し出した右手を両手で包み込むようにして取ると、亨也は淡い銀色の輝きをまとい始める。

 一分ほどで受信は完了したらしく、亨也はすぐに寺崎の手を離して頭を下げた。


「ありがとうございました」


 寺崎はかぶりを振ると、悔しそうに目線を落とした。


「俺、走っていってすぐにやられたんで、あんまお役に立たねえかもしれません。すみません。マジで、役立たずで……」


「そんなことはありません。今、状況を見せていただいたおかげで、紺野さんがやられるずいぶん前から、たびたび能力発動があったことが分かりましたから」


「そうっすね。教室のガラスが割れて、相原さんが倒れたのが始まりでしたから」


「その能力発動を、私は何ひとつ感知できていなかったんです」


 寺崎も玲璃も、驚いたように目を見張る。亨也は厳しい表情で、じっと足元を見つめた。


「何らかの方法で、あの子どもは能力発動を感知されないように妨害をかけているようですね。どうやって妨害しているのかが分からない限り、私は皆さんの動向をトレースできない」


 そう言うと、亨也はじっと玲璃を見つめた。


「危険、かもしれません」


 玲璃はまじろぎもせず、その視線を受け止める。


「紺野さんがこういう状態で、私もトレースができないとなると……今後しばらくの間は、登校を控えた方がいいかもしれません」


 何も言えず目を伏せる玲璃の横から、寺崎がぽつりと口を開いた。


「やっぱ……俺らだけじゃ、頼りないっすよね」


 その言葉に、亨也は申し訳なさそうな表情を浮かべると、いくぶん声のトーンを落とした。


「そんな風に取られてしまっても仕方ないですね、本当に申し訳ない。ただ、紺野さんですら、こんな目にあって……もし、みなさんにあの子どもが手を出して、また守れなかったとしたら、私は、本当に……」


 言葉を切ると、その長いまつ毛を伏せる。


「今回、紺野さんをこんな目にあわせてしまったのは、私の責任だと思っています。紺野さんにも、ご心配をおかけした皆さんにも、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです」


 寺崎は慌てて口をはさんだ。


「そんな、それを言うなら俺の方こそ、一番近くにいたくせに、何も……」


 亨也はきっぱりと首を振る。


「仕方がありません。相手は能力者ですから。それも、桁違いの能力を持った、残虐な能力者ですから」


 言いながら、享也は震える拳を握りしめていた。手のひらに爪が食い込むほど、固く、強く。


「私は絶対、あいつを許さない」


 震える唇からそう吐き捨てた享也を、寺崎は言葉もなく見つめた。

 落ち着いていて、穏やかで、いつも柔和なほほ笑みを絶やさない温厚なこの人物が、ここまで激しい怒りをあらわにしていさまは、これまで見たことがない。大事な弟がこんな目にあったのだから当然だ。その気持ちは、寺崎にも痛いくらいによくわかる。

 だが同時に、寺崎は紺野の言葉を思い出していた。


『あれは、僕の子ですから』


 紺野は言っていた。自分はあの子どものために生きると。あの子どもが道を誤らないように、自分が見守ってやらなければいけないと……。

 寺崎は顔を上げると、静かに口を開いた。


「確かに、総代はしばらく学校を休んだ方がいいかもしれないです」


 驚いたように自分を見上げる玲璃に、寺崎は困ったように笑いかけた。


「俺らも正直言って、総代を守りきれる自信は……ないっすから。総代は、ちょっとの間だけ、待っていてください、紺野が良くなるまで。大丈夫、あいつ不死身っすから。神代先生もついてますし、きっとすぐに良くなります」


 寺崎は笑いをおさめると、真剣な表情で享也を見た。


「俺はその間、学校にあの子どもの気配がないか、調べます。神代総代がトレースできなかった原因も。なにか分かったことがあったら、魁然側だけじゃなくて、神代総代にも逐一報告するようにします」


 寺崎の言葉に享也は目を見張ると、うなずいた。


「そうしてもらえると助かります。よろしくお願いします」


 それから、硬い表情で黙り込んでいる玲璃にちらりと目を向ける。

 玲璃はしばらくは何も言わずに目線を落としているだけだったが、ややあって、小さくうなずいた。


「……わかりました。しばらく、学校を休みます」


 その言葉を聞いて心底ほっとしたような表情を浮かべた寺崎に、亨也は深々と頭を下げた。


「いろいろとありがとうございます、寺崎さん」


「あ、いえ、当然のことっすから。とんでもないです」


 寺崎はこう言ってから、気づかれない程度に目線をそらした。昨夜のことが急に思い出されて、何だか亨也の前にいるのが気まずいような気がしてきたのだ。

 そんな寺崎の気持ちを知ってか知らでか、亨也は優しい表情だった。


「今日はこのあと、みなさんはどうされますか?」


「十時の面会時間まで待って、もう一度紺野さんの顔を見てから帰ろうと思います。入院用の荷物も持ってこないといけませんし」


 みどりの言葉に、玲璃は残念そうに目線を落とした。


「十時か……私はもうそろそろ戻らないと。父が地方に出張していたんだが、その頃には帰ってくる予定だから」


 寺崎は目を丸くして玲璃を見た。なるほど、だから一晩中病院に泊まるなどということが可能だったのだ。


「でも、総代、一度も紺野の顔、見てないっすよね……」


 玲璃は寂しげにほほ笑んで肩をすくめた。


「仕方がない。こうして一晩そばにいられただけで十分だ」


 享也はなにか考えているように目線をあげていたが、玲璃に目線を戻すと、少しだけ声をひそめて問いかけた。


「玲璃さんだけ、先に顔を見て行かれますか?」

 

 その言葉に、玲璃は大きく目を見開いた。


「……いいんですか?」


 享也は、心なしかいたずらっぽいほほ笑みを浮かべながらうなずいてみせる。


「ホントはいけないんですけど、光の屈折率を制御すれば透明化できますし、あとは玲璃さんご自身に気配を消していただければ、大丈夫だと思います」


「でも、皆さんは十時まで待つのに、私だけそんな……」


 すると、みどりはほほ笑んで玲璃の背中を押した。


「いいんですよ。私たちは、手術室から出てきたところであの子の顔は一度見ていますから。玲璃さんも、あの子の顔をぜひ見て行ってあげてください」


「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、失礼します」


 玲璃はみどりに深々と頭を下げると、亨也とともにいくぶん緊張した面持ちで横開きの扉の中へ入っていった。  

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