6月8日 1
6月8日(土)
すっかり寝入ってしまったらしく、みどりは車椅子に座ったまま、先ほどから目を閉じて規則的な呼吸を繰り返している。寺崎は膝に預けている腕を上げ、腕時計に目をやった。時計の針は、夜中の十二時をまわっている。
それから少しだけ目線を上げて、並んで座っている玲璃を見た。
「総代、大丈夫ですか?」
背もたれに体重を預けて天井付近に目を向けていた玲璃は、寺崎の方を見てほほ笑んだ。
「大丈夫だ、バカにするな。これでも魁然の親玉だぞ」
その言いように寺崎は少しだけ笑ったが、すぐに目線を落として沈鬱な表情に戻る。玲璃はそんな寺崎の横顔を見つめながら、心配そうな表情を浮かべた。
「おまえこそ大丈夫か? 少し休んでもいいぞ」
寺崎は足元に目線を落としたまま、小さく首を横に振る。
「七時頃、転移反応がありましたよね。たぶん、神代総代が紺野の処置をしてくれてるんです。それなのに、休んでなんかいられませんから」
「そうか。そうだな」
玲璃もうなずくと、ICUの白っぽい無機質な扉を見つめた。
「特賞、当たるといいな」
「……当たりますよ」
玲璃は、再び寺崎に顔を向けた。寺崎はうつむいた姿勢のまま、両手の拳を固く握りしめていた。
「当たるにきまってます。だってあいつは、あんないいやつなんすから。人生これからなんすから」
まるで自分に言い聞かせるように語る寺崎の言葉に、玲璃も深々とうなずいた。
「そうだな。あいつはもっと幸せになる権利がある。資格もある」
そう言ってから、くすっと笑う。
「でもあいつ、少なくともひとつは幸せになったな」
「え?」
思いがけない言葉に、けげんそうに顔を上げた寺崎を、玲璃は優しく見つめた。
「おまえっていう友だちができて」
寺崎は目をまん丸くして、それからちょっと赤くなった。
「おまえはほんとに友だち思いのいいやつだもんな。おまえらを見ていると、私も羨ましくなるよ」
「そんなこと……」
「ほんとだぞ。私だって、おまえと知り合えて幸せだもん」
その言葉に、寺崎は真っ赤になって凍り付いた。一瞬、状況を忘れてしまったほどだった。玲璃はそんな寺崎の様子には気づかずに、極上の笑顔を浮かべている。
寺崎はみどりに目を向けた。心持ち首を右に傾けて、ぐっすりと眠り込んでいる。玲璃のボディーガードは邪魔にならないよう、階段脇の見えない長いすで、やはり眠り込んでいる気配がする。薄暗く、静かな病院内は人気もなく、ひっそりしている。こんな状況で玲璃と並んで座っていることに、急に寺崎は緊張を感じてどきどきしてきた。
玲璃はそんな寺崎の様子には全く気づかない様子で、言葉を続けた。
「よくおまえ、ふざけて紺野に好きだ好きだって言ってるけど、紺野の方も多分、おまえのことが好きだぞ。何か言葉にすると、怪しい感じだけどな」
玲璃はもう一度寺崎を見ると、にっこり笑ってこう言った。
「私も、おまえのことは大好きだから」
その言葉が鼓膜をつらぬいた、瞬間。
寺崎は今まで抑えつけていた感情が、一気に吹き出すような気がした。
もう、自分を抑えることは不可能だった。廊下の影ので眠るボディーガードも、目の前で眠るみどりの存在も、扉の向こうで紺野を助けてくれているであろう許嫁の存在も、彼を抑える歯止めにはならなかった。
寺崎は物も言わず、玲璃の細い体を力一杯抱き締めた。
その瞬間、玲璃は、何が起きたのか理解できなかった。されるがままに抱き寄せられてしまってから、目を見開いて息をのむ。
「……寺崎?」
「俺、総代のこと、……ずっと、好きでした」
寺崎は、柔らかい髪の間からのぞく白い耳の側でこうささやくと、玲璃を抱きしめる腕にさらに力を込めた。
玲璃は動けなかった。彼女の力ならたやすく振り払うことができたであろうが、なぜか動けなかった。
「分かってます。俺なんか、出る幕ないって。でも、少しだけ、こうさせてください。これで俺、諦められるから。……諦めなきゃ、いけないから」
寺崎の温かいぬくもりと、男っぽい汗の臭いと、耳元で繰り返される微かな呼吸を感じながら、玲璃は何が何だかわからなかった。ただ、胸の鼓動だけが、体を激しく揺り動かしていた。
☆☆☆
机に突っ伏していた沙羅ははっと体を起こすと、慌てて辺りを見回した。
当直室の壁掛け時計の針は、夜中の三時をさしている。四時間ほど寝てしまったようだ。亨也の処置が終わるまで起きて待っているつもりだったが、昨日の夜勤がこたえているらしい。沙羅は急いで当直室を出ると、九階に向かった。
エレベーターを降り、廊下を歩いていくと、突き当たりの長いすに誰かが座っているのが見える。視力のあまりよくない沙羅は眼を細めて、彼らを注視した。
どうやら、長椅子に座っているのは寺崎と玲璃で、その隣の車椅子にはみどりが眠っているようだ。魁然総代がこんなところで寝ていることに沙羅は驚いたが、階段脇の長いすに眠る屈強そうな二人のボディーガードを見て納得したようにうなずくと、起こさないように静かにその前を通り過ぎ、そっとICUの扉を開いた。
ICU内は二十四時間態勢だ。てきぱきと動き回る看護師や医師に頭を下げると、紺野のベッドの場所を看護師に確認する。その場所である一番奥のブースを見ると、ベッドの周囲にしっかりとカーテンが引かれ、その周囲がぼんやりと銀色にかすんでいる。中で行われいることが分からないように享也が遮断をかけているのだろう。まだ治療が続いているのだろうか。沙羅はマスクをつけ、消毒をして身支度を調えると、一番奥のブースに入った。
その途端、目に飛び込んできた光景に、沙羅はドキッとして動きを止めた。
確かに遮断はかかっているのだろう。外からは中の様子が全く分からなかったのだから。だが、亨也は眠っていた。紺野の足もとに突っ伏して、顔を少しだけ横に向けて。
「……総代」
手近にあったバスタオルをその肩にかけ、沙羅は何とも言えない表情を浮かべて静かに眠る亨也を見つめた。紺野の治療で、精も根も尽き果てたのだろう。それでも、遮断だけは無意識に張り続けている様子が切なくて、何だか胸を締め付けられるような気がした。
沙羅は視線を紺野に向けた。気管挿管はされているが、仄かに赤みのさした頬。心電図にも異常はなく、バイタルサインも正常に近い。沙羅は紺野の腹のあたりにそっと右手を添えて内部の状況をスキャンする。致命的な下大静脈の損傷はほぼ完ぺきに修復がなされ、出血は完全に止まっているようだ。だが、問題は脳挫傷の方だ。沙羅は恐る恐る、頭に手を当ててスキャンを開始する。
隅々まで注意深く、丁寧にスキャンする。どこにも出血箇所は見あたらない。
「もう、大丈夫だと思うよ」
その声に思わず心臓が跳ねた。あわてて紺野の頭に当てていた手を引いて振り返ると、亨也がベッドに突っ伏した姿勢のまま、顔だけを自分に向けているのが見える。沙羅の能力発動を感知して、目が覚めたのだろう。
「すみません総代、起こしてしまって……」
亨也は首を横に振ると体を起こし、肩にかけられていたタオルを取って、たたみなおしながら苦笑した。
「今からちゃんと仮眠しに行くよ。何か安心したら、急に眠気が襲ってきて。ついこんなところで寝てしまった」
沙羅は亨也からタオルを受け取ると、いたわるような表情をうかべた。
「仕方がありません。本当に、ご苦労さまでした」
「多分、あと数日で意識は回復すると思う。記憶障害は当然として、その他にも何らかの後遺症が残る可能性はあるが、取りあえず、命だけは大丈夫だから」
沙羅はタオルを抱えてうなずくと、うつむいた姿勢のまま、微かに唇を震わせた。
伏せたまつ毛に押し出された水滴が、ぽとりと床にこぼれ落ちる。
「沙羅くん?」
「本当に、良かった……」
沙羅は細い指先でこぼれ落ちる涙をぬぐいながら、恥ずかしそうに笑った。
「私、まだこの男に謝っていませんから。このまま死なれたら、どうしようかと思っていました」
その言葉に亨也は困ったような笑みを浮かべたが、すぐに表情を改めると、沙羅に向き直った。
「ところで、どう思う?」
突然の問いかけに、沙羅は涙を拭く手を下ろして亨也を見つめた。
「私は今回、ほとんど能力発動を感知できていない。だが、紺野の傷の様子をみると、かなり強力な……そう、エネルギーの固まりのようなもので切り裂かれたのが分かる。それほどのエネルギーを発すれば、感知できそうなものだ」
沙羅はハッとした。言われてみれば、確かにその通りなのだ。
「相当に高い残留エネルギーを彼の体から感じる。これほど高いエネルギーにさらされれば、側にいた寺崎くんや女生徒も無傷でいられるわけがない。だが、彼らが無事だったということは、紺野が彼らに防壁を張っていたということになる」
沙羅は深々とうなずいた。確かに、寺崎もあの女生徒も、至近距離にいたにもかかわらず大した影響を受けている様子はなかった。
「それなのに今回、私は紺野の能力発動すら感知できていない」
亨也は眉をひそめると、じっと目の前に横たわる紺野を見つめた。
「自分の感知能力が異常をきたしているのかとも思ったが、今、君の能力発動は感知できたわけだから、そういうことでもないらしい。であれば、いったいどうしてこの件に限って、彼らの能力発動を感知できなかったのか」
沙羅は数刻、何をか思い出すように黙り込んでいたが、やがてぽつりと口を開いた。
「私は、病院から転移してあの高校に行きましたが、その時に何だか、今まで感じたことのない違和感を覚えたんです」
「違和感?」
「はい。何だか、こことは違う、異質な次元に入り込んだような……。何ができないとか、そういうことはないんですが、目に見えない膜をくぐって違う世界に入り込んだような、そんな感覚がありました」
亨也はしばらくの間、考え込むように中空をにらんでいたが、やがて大きなため息をつくと、肩をすくめて笑った。
「だめだ。寝不足の頭では、何も思いつかないな」
沙羅も笑ってうなずき返す。
「少し寝てください。考えるのは、明日でも遅くないですから」
「君は少し、寝たの?」
「え? ええ。四時間ほど……寝てしまいました。すみません」
赤くなって頭を下げた沙羅に、亨也はほほ笑んで首を振った。
「四時間じゃ足りないよ。夜勤明けだったんだろ? 倒れる前に、もう少し君も眠った方がいい」
それから、いたずらっぽい笑みを浮かべてこんなことを口にする。
「一緒に寝る?」
沙羅は目を丸くして硬直すると、それこそ耳の先から首筋まで、はっきり分かるくらい真っ赤になった。そのあまりにもストレートすぎる反応に、亨也は面食らったらしい。あわてて申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんごめん、冗談だよ。寝不足のせいで、冗談まで下品になってるな。これじゃあまるっきりセクハラだ。早く寝るよ」
亨也は立ち上がると、軽く手を振ってブースを出て行った。
沙羅は真っ赤な顔で紺野のベッド脇に立ち尽くし、部屋を出ていく亨也をぼうぜんと見送っていたが、ICUの横開きの扉が完全に閉まるのを見届けてから、本当に小さな声で、
「はい」
とだけ、ぽつりとつぶやいた。