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輪廻  作者: 代田さん
第四章 転落
145/203

6月7日 3

 人気のない薄暗い病院の廊下。蛍光灯の寒々しい光が、リノリウムの床の微妙な凹凸をぼんやりと浮かび上がらせている。

 寺崎はその廊下の隅に置かれている長椅子に座り、両肘を膝に預け、じっと足元を見つめて動かない。

 廊下の向こうから、微かに車輪がきしむ音が響き、車椅子が一台やって来るのが見えた。汗だくになり、髪を振り乱して、必死で車輪を回しながら近づいてきたのは、みどりだった。


「紘!」


 静かな廊下に反響するその声に、寺崎は顔を上げると、ゆるゆるとみどりの方に蒼白な顔を向けた。


「……おふくろ」


「紺野さんは……」


 みどりが口にしたその名前に、寺崎は頬を微かに引きつらせた。何か言おうとしたが、唇が震えただけだった。寺崎は足元に目線を落とし、唇をかみしめ唾を飲み込むと、やっとの事で声を絞り出した。


「……だめかも、しれねえ」


 乾いた唇から絞り出された寺崎の声は、普段の明るい彼からは考えられないほど力なく、弱々しいものだった。


「腹かっさばかれて、百三十階段を転がり落ちた。腹のケガも酷いけど、階段落ちる時に、頭打って……」


 みどりは唇を引き結び、震える手を握りしめた。


「脳挫傷だって……生きるか死ぬか、分からねえって。脳の出血がこのまま止まれば回復の可能性もあるけど、止まらねえで広がったら、だめだって……今夜が、山だって」


 寺崎はそこまで言うと、こらえきれなくなったように両手で顔を覆った。その指先が、端から見てもはっきり分かるほど震えている。

 みどりはそんな息子をじっと見つめていたが、やがて静かに口を開いた。


「……大丈夫よ」


 寺崎は顔を上げて、暗い予感におびえ切った目をみどりに向ける。みどりはそんな息子を安心させるように、確信に満ちた口調で言葉を継いだ。


「絶対に大丈夫。今までだって何回も、あの子は死線を乗り越えて来たんだから。今回だって、きっと大丈夫よ」


 そう言って、みどりは息子に笑いかけた。だが、寺崎はみどりの言葉に小さくうなずいただけで、足元に目線を落として黙り込んだ。

 その時、突き当たりの手術室の扉上部に点灯していた手術中のランプが、ふっと消灯した。寺崎は立ち上がり、みどりもはっとしたように顔を上げて扉を凝視する。ややあって扉が開け放たれ、中から数人の看護師と医師、そしてベッドに横たわった紺野が出てきた。


「紺野!」


 寺崎は弾かれたように駆けよると、ベッドを押す看護師の間に割り込むようにして、その顔をのぞき込んだ。各種さまざまな管につながれ、気管挿管された紺野は、長いまつ毛をピッタリと閉じて懇々と眠り続けている。傷だらけの顔ではあったが、普段と変わらぬ穏やかなその表情に、寺崎はかえって胸をかきむしられるような痛みを感じた。

 と、すぐ後ろに立っていた眼鏡の医師が声をかけた。


「腹部創傷に関しては、われわれの方でできるだけのことはしました。下大静脈に損傷があり、相当な出血量だったのですが、院内採血で輸血も行えましたので、現在は血圧も上がってきています。引き続き、ICUの方で注意深く循環動態を監視していきますので、ご安心ください」


「ありがとうございました」


 紺野の顔を見つめたきり返事をしない寺崎に代わり、みどりが進み出て頭を下げると、医師がいえいえと首を振る。と、寺崎が弾かれたように振り返り、すがるような目で医師を見上げた。


「意識は……意識は戻るんすよね。麻酔が覚めれば……」


 メガネの医師は、気の毒そうに表情を曇らせると、言葉を濁した。


「麻酔が覚めた後に意識が戻るかどうかは、脳挫傷の状態によります。とりあえず、昏睡状態でもしっかりした自発呼吸が確認されれば、挿管の方は抜けるでしょう。患者さんはまだ若いので、脳の出血が広がらなければ、覚醒の可能性もあります。そのあたりは、脳外科の方から詳しい説明を受けていただければと思います」


 医師は一礼すると、紺野のベッドとともにエレベーターホールに歩き去っていった。


 

☆☆☆



 九階にあるICUに紺野は移送された。

 寺崎は、ICU前の廊下で長いすに座り、みどりはその脇に車椅子をつけて、じっと黙っている。

 廊下の突き当たりにある小さな窓から、ほんの少しだけ外が見える。もうあたりはすっかり薄暗くなってきていた。

 ややあって、寺崎がぼそっと口を開いた。


「おふくろは戻れよ、疲れちまうから」


「いいわよ。戻るのも疲れるから」


 みどりは少しだけほほ笑むと、遠い目をした。


「第一、大事な息子が生きるか死ぬかの瀬戸際なのに、疲れなんて感じてる余裕ないわよ」


 その言葉を聞いた寺崎は、みどりにちらっと目を向けた。


「……おふくろってさ、」


「ん?」


「紺野のこと……もう、完全に許してんだよな」


 みどりは優しい目で息子を見つめながら、はっきりとうなずいた。


「俺、結局、勇気がなくて、あの時のことはちゃんと知らねえままでここまできちまった。知ると、あいつに対する自分の気持ちが、変わるような気がして、……怖かったんだ」


「そう言ってたわね」


「でも、それじゃ、ほんとにあいつを許したことにはならねえ気がするんだ」


 寺崎は意を決したように顔を上げた。みどりは優しく、そんな息子の視線を受け止める。


「おふくろ。あの時何があったのか、教えてくれねえか?」


 みどりは穏やかな表情のまま、遠くを見つめるような目つきをした。


「うまく伝えられないかもしれないわよ。母さんには、紺野さんみたいな力はないから。主観がかなり入るだろうし」


「構わねえ」


 真剣な表情で自分を見つめてる息子を、みどりは静かに見つめ返していたが、やがて小さくほほ笑んで、うなずいた。



☆☆☆  



 玲璃はエレベーターを降りると、廊下を走り出した。ICUはこの階の突き当たりにある。カモシカのようにしなやかに走る玲璃の後を、屈強そうな護衛二人が慌てて追いかける。

 学校に救急車が到着したあの時。搬送される紺野とともに、玲璃は自分も病院につそいたいと願い出た。だが、柴田と、他でもない寺崎に止められたのだ。むやみに動き回るのは危険だ、紺野を狙って再びあの子どもが現れる可能性もあるから、と……。

 自分が紺野と一緒にいれば、確かに襲われる確率は高くなる。玲璃は紺野の安全のために、病院についていくことを諦めた。だが、学校が終わり、自宅に戻ったあとも、玲璃は紺野の容体が気になって仕方がなかった。父親の留守をいいことに、渋る珠子を説き伏せて、護衛と送迎つきという条件で、病院にやって来たのだった。

 廊下の突き当たりの長いすに、人がいるのが見える。車椅子の女性と、見覚えのある若い男……。


「寺……」


「紺野さんは必死だったの」


 玲璃はハッと口をつぐんで足を止めた。紺野の名前が耳に入ったからだ。ボディーガードが、たたずむ玲璃をけげんそうに見やる。玲璃は彼らに階段脇の長いすで待つように小さい声で指示すると、柱の影に身を寄せてみどりの声に耳を傾けた。


「あの子どもを自分がなんとかしなきゃ、とにかく殺さなきゃって、それしか考えられなかったんだと思う。十六歳だもの、当然よね」


 玲璃は話を聞きながら、無意識に気配を消していた。


「その思いが高じて留置場を見張っていた警官を、多分本意ではなく……殺してしまった。混乱した彼が出現した工事現場に、あの子どもが現れた」


 みどりはひと呼吸おくと、目を閉じた。


「紺野さんはあの子どもを倒そうと必死で気を放った。でも紺野さんが放った気は、あの子どもには当たらなかった。代わりに、その背後にあったマンションにぶつかった。それが、父さんと母さんが住んでいた、あのマンションだった」


 みどりはふうっと息を吐き出すとゆっくりとその目を開き、つぶやくように言葉を継いだ。


「母さんはこれを知った時、不思議な気分だった。紺野さんが故意で起こしたことじゃなかったことが分かったのと同時に、じゃあ、今まで苦しんできた自分の気持ちは、いったいどこにぶつければいいんだろうって」


 寺崎は、穏やかな表情で語る母親の、少ししわの増えた顔の真ん中で動く乾いた唇を、じっと見つめていた。


「はっきり憎むことができれば、それはそれで楽なのよ。犯人を、恨んで恨んで、恨みぬけばすむんだもの。でも、それはできなかった。だって、紺野さんも苦しんでいたから。起こすつもりで起こした事じゃなかったから。そして、今も心が壊れるくらい悔やみ続けていると知ったから」


 そう言うとみどりは、寺崎の目線と自分の目線をしっかりと合わせ、静かにこう言った。


「だから母さんは、紺野さんと一緒に暮らそうと思ったの」


 寺崎は言葉もなく、その潤んだ瞳を見つめ返した。


「うんと近くで、紺野さんがどういう人間なのか、確実に見極めたかったんだと思う。紺野さんの人となりが分かれば、本当に許せるかどうかが分かるから……。もちろん、紺野さんを支えてあげたい気持ちもあったけれど、母さんには多分そういう下心があった。でも神代先生に同じ事を聞かれた時、母さんはきれい事を言ってごまかした。……今は、反省してるわ」


 瞬きとともにあふれた涙が、みどりの頬を伝い落ちる。

 寺崎はじっと黙ってそんなみどりを見つめていたが、やがてぽつりと口を開いた。


「……どうだった?」


「え?」


「一緒に暮らしてみて……あいつのこと」


 みどりは泣き笑いのような表情になった。


「それは分かってるでしょ。母さん、紺野さんになんて失礼なことをしちゃったんだろうと思ってる。試すようなマネをして……。あの子は本当にまじめで優しい、ステキな子だった。母さんは紺野さん、大好きよ。今は、あの子のことを本当の息子だと思ってる。勝手な思いこみで、紺野さんは迷惑かもしれないけどね」


 寺崎は下を向いて、うなずいた。何度も何度もうなずいた。首が上下するたび、その目のあたりから滴のようなものがぽとぽとと落ちた。


「聞いて、良かったよ」


 やがて寺崎は、震える声を絞り出した。


「俺の気持ちも、何も変わっちゃいねえ。あいつは、やっぱりあいつのままだった。こんなんなら、もっと早く聞いときゃよかったよ」


 苦笑まじりにそう言って顔を上げた寺崎の、その潤んだ視界に、玲璃の姿が映り込んだ。


「……総代?」


 寺崎は慌てて目元を擦り、もう一度その姿を見つめ直した。柱の影から出てきた玲璃は、ゆっくりと二人の方に歩み寄ってきた。


「すまない。立ち聞きしてしまって……」


 見ると、玲璃の目も真っ赤に潤み、今にもこぼれ落ちそうなほど涙がいっぱいにたまっている。玲璃は両手でその目もとを覆うと、うつむいて肩を震わせた。

 激しくしゃくり上げなが目元をこすっている玲璃の姿にみどりは驚いた様子だったが、やがて泣き笑いのような表情を浮かべると、確信したようにうなずいた。


「紺野さんは、絶対大丈夫よ」


 その声は先ほどより自信に満ちて、心なしか明るい響きを帯びていた。


「彼の存在を必要としている人が、こんなにたくさんいるんだもの。それに、彼は今まで貧乏くじばっかりひいてきたんだから、こんな時くらい、とっておきの特賞をあててくれたって、罰は当たらないと思うわ」


「おふくろの言うとおりだな」


 寺崎は、みどりの言葉に深々とうなずくと、ようやく少しだけ笑顔を見せた。その言葉に、玲璃も嗚咽を飲み込み、涙にぬれた顔を上げる。


「あいつに特賞が当たるって、俺も信じるよ」

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