6月7日 1
6月7日(金)
「いないのは相原さんですね。頭痛がひどいそうで、病院に寄ってから登校するとのことです。あとは……」
担任教師は名簿から顔を上げると、首を巡らせて教室を見渡した。あと二席、空席がある。
「そこは……寺崎さんと、紺野さん?」
担任がそう言ったと同時に、勢いよく前扉が開いた。
「おっはよーございまーす!」
叫びながら飛び込んできたのは、案の定寺崎だった。その後ろから紺野も、遠慮がちに続いてくる。担任教師は寺崎の勢いに押されて思わず「お、おはよう」と返事をしてしまってから、渋い顔をした。
「二人は、いつもぎりぎりですね」
地をはうような担任教師の声にもめげず、寺崎はやけに明るい笑顔を浮かべながら、必要以上にぺこぺこ頭を下げてみせる。
「すんません。うちの母親足が悪くて、弁当作んのにどうしても時間がかかっちゃうんです。ほんと、いつもすんません」
寺崎の母親の事情は担任教師も知っているため、そう言われてしまうと返す言葉もない。
「……そうですか。じゃあ、今日の所はいいですけど、来週からは厳しくつけますからね」
「はい、ありがとうございまーす」
にこにこの寺崎とは対照的に、紺野は申し訳なさそうな表情で居心地が悪そうにしていた。
☆☆☆
「あれはやっぱり、まずいですよ」
中休み。このところ、ようやく二年と三年の騒ぎも沈静化し、紺野も寺崎も落ち着いた時間を過ごせるようになってきていた。
「あれって、何のこと?」
寺崎の側に来て渋い顔でこう言った紺野に、寺崎は首をかしげてとぼけてみせる。
「あの、遅刻の言い訳に、みどりさんをダシにすること……」
その言葉に、寺崎は肩をすくめて苦笑した。
「ほんと、おまえってまじめ。ウソも方便って言うだろ」
「でも、みどりさんは、きちんと間に合うようにやってくださってるんですから……」
寺崎は口をとがらせて不満げな表情をしてみせたが、ため息まじりにはいはいとうなずいた。
「分かりました。こんな言い訳はもうこれっきりにしますよ」
ほっとしたように表情を緩めた紺野の額を、寺崎は軽く小突いた。
そんな二人の様子を、出流は自分の席からちらちらと眺めやっていた。机の上にメモ帳を開き、手にはシャーペンを握っている。
と、目線は寺崎に合わせているにもかかわらず、シャーペンを握る手が突然動き始めた。出流は、ハッとしたように自分の手元に目線を落とす。
『危ないね』
「危ない?」
思いがけない言葉が書かれたので、出流はけげんそうに小声で読み返した。
『彼と一緒にいる、あの男』
出流は改めて寺崎を見た。彼と一緒にいるのは、上南沢でも会ったあの男……確か、紺野秀明。
「どうして?」
見るからに人畜無害そうな男だ。穏やかでもの静かな彼は、大人しい出流にとって苦手どころか、むしろ好ましい部類に属していた。
と、手に持ったシャーペンは、驚くべき事を書きつけ始めた。
『あいつ、人殺しなんだよ』
出流は大きくその目を開くと、呼吸すら停止してその文字を見つめてから、おそるおそる顔を上げてもう一度紺野を見やった。彼はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべながら、にこやかに寺崎と話している。
「……うそ」
『しかも十六歳なんかじゃない。化け物なんだ。あたしも化け物みたいなものだから、わかる』
その言葉に、出流は目を丸くすると慌てて首を振った。
「優ちゃんは化け物なんかじゃない。だってあたしのこと、助けてくれたもの……」
出流は、優子が苦笑したような気がした。
『とにかく、寺崎くんが危ない。あいつは、次に殺すやつを捜しているんだ』
出流は胸の奥に重苦しい不安が広がるのを感じつつも、あまりにも突拍子のないその話に、にわかには信じがたい思いも抱いていた。有効な判断材料も見いだせず、半信半疑で黙っている出流に、シャーペンはこんな事を書き付けてみせた。
『あたしが、化け物の証拠を見せてあげるよ』
出流は、じっとその文字を見つめた。
そんな出流の列の一番前、窓際族の寺崎たちとは反対側、廊下よりの前扉付近には、遅刻してきた相原と、彼女の周囲を取り囲む三人ほどの女子の姿があった。
「原ぴー、大丈夫?」
「うん。まだ時々痛くって。医者は何でもないっていうんだけど」
「昨日の体験の時から?」
相原はうなずくと、頭に右手をあててため息をついた。
「うん。急に頭痛がもの凄くなって……。なんか、昨日の体験のことも、あんまよく覚えていないんだよね。CTとかもとって、特に異常はなかったんだけど……」
そこまで言った時。突然、相原は電池の切れたロボットのように動きを止めた。
「どしたの? 原ぴー」
取り巻きの女子の言葉にも答えず、相原は目を見開き、唇をわななかせながら前方を見つめていたが、やがてゆるゆると振り返って、後ろに座る出流を見た。
出流は底光りする目で、じっと相原を見つめている。
相原は今、背後にビリビリとあの気配を感じて、背筋が凍り付くような感覚に襲われていた。また、あれがくる。あの、恐ろしい何かが……!
その時。紺野も弾かれたように顔を上げると、教室中を見渡した。赤い気だ! しかも、もの凄く近くにいる。
刹那。
原田の頭に、脳を攪拌されるような衝撃と激痛が走った。
「……!」
相原が声もなく机に突っ伏した、次の瞬間。
相原の座っている座席のすぐ右側。廊下側に面した窓のガラスが、鋭い音とともに教室内に向かって一斉に吹き飛んだ。
「キャー!」
「うわあっ!」
窓際にいたのは相原を含めた女子四人、中程の席にたむろしていた男子三人、そして一番後ろの席にいた出流の、計八人。その誰もが息をのみ、叫び声をあげて頭を抱えた。
その時。出流には見えた。
紺野の体からほとばしった白い輝きが、吹き飛んできた全てのガラス片を包み込んだのを。
その輝きに触れた瞬間、ガラス片はまるで空気に溶けるかのように一瞬で蒸発した。
出流は息をのんで紺野を見つめた。
紺野は机に突っ伏している相原に駆けよると、その肩をつかんで揺すぶった。
「相原さん、相原さん!」
「紺野、あいつか⁉」
寺崎の言葉に紺野は蒼白な顔でうなずくと、軽く頬をたたいて相原の意識を確認する。相原は口から白い泡を吹き、白目をむいて完全に気を失っていた。
「とにかく、相原さんを保健室に連れて行こう。他にけが人はいねえよな?」
軽々と相原を背負って教室を見渡した寺崎は、じっと自分を見つめている出流に気付き、声をかけた。
「いずるちゃんは、大丈夫? けがとかしてねえ?」
はっとわれに返った出流が慌ててうなずいてみせると、寺崎は安心したような笑顔を浮かべ、相原を背負って紺野とともに教室を出ていった。
出流はその後ろ姿を半ばぼうぜんと見送っていたが、手にしていたシャーペンが再び動き始めたのを感じると、すぐに目線を落としてそこに書かれる文字に注目した。
『見えた?』
出流は、青い顔でうなずいた。
『あいつは十六年前、あの変な力で三百人以上の人を殺したんだ』
シャーペンを握っている出流の手が、小刻みに震え始める。紺野に対する恐怖心と、寺崎の身を案じる思いがあふれて、頭の中が真っ白になった。
出流は、優子の危険性についてはなぜか思い至らなかった。冷静に考えれば、紺野は優子の攻撃からクラスメートを守ったのだ。だが今の出流には、優子の言うことは絶対だった。優子に思考を操作されていることに、出流は全く気づいていなかった。
『彼を、守ってあげる』
あふれてくる涙で、その文字がぼやけてかすむ。出流にとって、優子は唯一の頼みの綱に思えた。
『協力してね』
出流は泣きながら、何度も何度もうなずいた。
☆☆☆
保健室に相原を届け、教師の質問にひととおり答えてから、寺崎と紺野は保健室をあとにした。
「確かに、あいつの気だったな」
紺野は無言でうなずいた。心持ち青ざめているようだった。
「相原さんの赤い気は、消えたのか?」
紺野は再度、小さくうなずいた。
「催眠というより、強引に脳に進入したと言った方が近い感じでしたね。かなりつらかったと思います」
「そうか」
しばらくの間、二人は無言で薄暗い廊下を歩いていたが、やがて紺野がぽつりと口を開いた。
「相原さんは確か、昨日早退していましたよね」
紺野の言葉に、寺崎は思い出すように中空をながめやりながら、うなずいた。
「そういやあそうだったな。何でも、体験中に気分が悪くなったとか」
「相原さんが行ったのは、どこの施設でしたか」
「確か、つどいの家……」
寺崎ははっとして紺野を見た。紺野はその視線に、ゆっくりとうなずき返した。