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輪廻  作者: 代田さん
第四章 転落
142/203

6月6日 3

 ホールでは、老人達が思い思いに余暇を楽しんでいた。

 ゆったりとした動作、穏やかな表情が醸し出す独特の雰囲気は、ここだけ時間の流れ方が外部より遅いような錯覚に陥らせる。

 そんな老人達の間に混じって、一生懸命入所者の相手をする高校生たち。あやとりを一緒にしたり、手遊び歌を歌ったり、将棋を教えてもらったり、話相手をしたり……自分にできることで相手を喜ばせようと、高校生なりに一生懸命考えて活動する姿はほほ笑ましかった。

 寺崎は穏やかそうなお婆ちゃんの話相手をしながら、代表という立場上、時々周囲の様子に気を配り、ぼーっとしていたり遊んでいたりする者がないかに気を配っていた。今年の参加者は昨年の話を聞いて、ある程度覚悟を決めてきた者ばかりなので、まじめに高齢者の相手をしているようだ。

 ふと見ると、部屋の右奥に人だかりができている。誰かが、高齢者の人気を集めているらしい。寺崎はその人物を見て驚いた。

 それはあのいじめられっ子、清水だったのだ。

 清水は絵を描くのが得意らしく、スケッチブックを持参してきていた。そこに高齢者の似顔絵を描いては、プレゼントとして手渡していたのだ。

 相手をしていたお婆ちゃんが隣の老人と話し込んでいるので、寺崎は席を立つと清水の側へ行き、その手元をのぞき込んだ。マンガ風のタッチで、相手の特徴をうまくつかんだ似顔絵を、実に手早くすらすらと描いている。


「へえ。清水、おまえ、すげえじゃん」


 寺崎が感心して声をかけると、清水は恥ずかしそうに笑った。


「ぼ、僕は、これくらいしか取りえがないんで……。でも、喜んでもらえてよかった」


「だな。俺もあとで描いてほしいくらいだ。がんばれよ」


 寺崎が笑顔でその場を離れた。その時だった。


「いいかげんにしてくれ! あんたはバカか!」


 誰かの素っ頓狂な叫び声がホール中に響き渡った。見ると、C組の男子生徒が突き飛ばされでもしたのか、床にへたり込んでぼうぜんとしている。彼の前には老婆が仁王立ちになり、震える拳を握りしめて男子生徒をにらみつけていた。職員が駆けよって老婆をなだめているが、彼女はつばをはき散らしながらかなり際どい表現でわめきたて、聞く耳を持とうとしない。


「生徒さんをこっちへ! 上田さんから離して!」


 工藤の指示で、職員が慌てて上田に駆けより、優しく声をかけながらも、強引にその場から引き離そうとしている。上田と呼ばれた老人は半分宙に浮いた足をばたつかせて何やら訳の分からないことを叫びながら、ホールの外へ引きずられていく。生徒たちはそんな上田を、おびえた表情で言葉もなく見送った。

 入り口近くで他の入所者の相手をしていた紺野も、引きずられていく上田老人をじっと見つめていたが、ふいに立ちあがってそちらの方に歩いて行った。

 上田老人は廊下に隔離され、職員二人が付き添って、彼女の話を聞いているところだった。上田老人は職員に涙目になって何かを訴えているのだが、説明が支離滅裂でよくわからない。上田老人がこういう状態になるのはよくあることらしく、職員も慣れた様子で原因についてはあまり追求しようとせず、彼女の話を否定せずに聞いて、とにかく気が収まるのを待っている様子だった。

 自分の話をいっこうに理解してくれない職員に業を煮やした上田老人は、あたり構わず唾を吐き散らし、再び暴言を吐き始めたが、職員の後ろに立ち、自分をじっと見つめている紺野と目があった途端、なぜかぴたりと暴言をやめた。

 職員はいぶかしげに眉を寄せると、上田老人の目線を追って背後に目線を向ける。無言で立ち尽くす高校生の姿に気づき、声をかけようとしたが、彼を見つめる上田老人の熱い視線に気づいてその言葉を止めた。上田の腕にこめられていた力が抜けているのを感じ、恐る恐る抑えつけていた手を離す。と、立ち尽くしている上田老人に紺野が静かに歩み寄ってきた。上田老人は湾曲した背骨を限界まで伸ばして、落ちくぼんだ目を精一杯見開き、何かを訴えかけるようにじっと紺野の顔を見つめる。紺野も、穏やかな表情でその視線を受け止めていたが、ふいに右手を伸ばすと、上田老人の額に手を当てた。


「すこし、熱が出ているみたいです」


 紺野の言葉に、職員はあわてて上田老人の額に手を当てる。発熱を確認して驚いたように目を見張る職員に、紺野は静かに付け加えた。


「この方は体調が悪くて、ずっと腹痛をがまんしていたようです。失敗したくないから早くトイレに行きたいと訴えていたのに、なかなか分かってもらえなくて、いらだっていたんだと思います」


 その言葉にハッとしたように鼻をうごめした職員は、ほのかに漂う便臭に青くなった。


「そうだったんだ……上田さん、ごめんね、失敗させちゃって。今すぐきれいにするし、体調も確認するから」


 職員はそう言うと、紺野に向き直って頭を下げた。


「ありがとう、教えてくれて……私たちも、今日は高校生の皆さんが来てくれたことで浮足立ってて、観察がおろそかになっていたのかもしれません。本当にありがとう」


 紺野はとんでもないというように首を振ったが、職員に支えられるようにして廊下を歩き去る上田が紺野の方を振り返り、小さく頭を下げたのに気づくと、笑顔で手をふってそれにこたえた。



☆☆☆



 ようやく優子の髪が乾き始めた。

 風に当てられると、肩くらいまでの茶色くまっすぐな髪が、風に吹き散らされてサラサラと揺れる。座位なので乾かしにくいのだが、出流は根気よくドライヤーをあてながら、くしでていねいにすいていく。背もたれに寄りかかっている部分以外は大体乾いたので、出流はくしを置くと、顔の向きを変えるために優子の頭に手を当てた。

 その時だった。


【嫌ナヤツダネ】


 突然、出流の頭に、何かの意識が津波のように押し寄せてきたのだ。

 耳の中で絶叫されたかと思うような大音量が鳴り響き、目の奥に光が走り、後頭部を焼かれるような激痛が襲う。出流は目の前が真っ白になった。知らず左手からこぼれ落ちたドライヤーが、温風を吹きだしながら床でくるくると回転する。

 一瞬意識を失っていたのか、出流は体ががくりと崩れ落ちる感覚にハッとしてわれに返った。


――何? 今の。


 出流は混乱しながら、震える手でドライヤーを拾うと、再び優子の髪に震える右手を添えた。

 その途端、再び出流の意識にどっと流れ込んでくる、先ほどの意識。


【見返シテヤロウヨ】


「……!」


 頭部を両側から鉄の板で押さえられ、きつく締め上げられるような強烈な圧迫感に、出流は思わず声にならない叫びをあげた。

 おずおずと眼球だけを動かし、横たわる優子を見下ろす。優子は相変わらずくるくると瞳を動かしながら、あらぬ方を見つめているだけだ。だが、ほんの一瞬、その視線が自分に向けられたように、出流は感じた。


【アンタハ、ステキダヨ】


 割れ鐘のような大音響と、頭蓋を押しつぶされるような激痛。経験したこともない苦痛にまひした感覚は、やがてそれを快感と取り違えて脳に認識させ始める。半分意識を失った出流の口の端から、よだれが糸を引いて流れ落ちた。


【……手ヲ貸シテヤルヨ】


 同時に右手を襲う、熱した油に突っ込まれたかのような灼熱感。叫び声を上げる間もなく、出流の視界が血のような赤一色に染まった。

  


☆☆☆



 折り紙を折る老人の隣に座り、穏やかな表情で作業を見守っていた紺野は、脳を貫いた違和感にハッと目を見開くと、弾かれたように顔をあげた。

 確かに一瞬、赤い気の気配を感じたのだ。

 だが、ほんの一瞬、しかも本当に微弱な気配だったうえに、出所を突き止める間もなくその気配は消えてしまった。恐らく、接触感応のように、相手を限定した形で使われたものだったのだろう。周囲十キロメートル四方にくまなくトレースをかけてみるも、茫洋としすぎていてさすがの紺野もつかみきれるものではなかった。

 紺野は小さく息をつくと、再び目の前でくつろぐ老人たちのゆっくりとした動作に目を向けた。

 何十年もの時を経て、さまざまな人生を歩んできた人々。彼らと過ごしていると、時折そうした過去の記憶が意識にすっと流れ込んでくる。それぞれに重く壮絶な過去を背負いながら、彼らはそれら全てを飲み込み、今は何を言うこともなくただ穏やかにほほ笑んでいる。そんな彼らとともにこの静かで穏やかな空間に座っていると、激流のような彼らの人生の厚みに比べれば、自分の壮絶な過去すらも流れにもまれる枯葉にも満たないささいな出来事のように思えてきて、紺野は不思議と心が落ちつき、癒やされるような気がしてくるのだった。



☆☆☆



 鼻歌を歌いながら、別室にタオルを届けようと人気のない廊下を歩いていた相原は、廊下の突き当たりに誰かが立っているのに気がついた。ゆるいウエーブのかかった髪の、すっきりとした目鼻立ちの女……出流だ。

 相原は足を止めると、うっとうしそうに顔をゆがめた。


「うっわ……待ち伏せとかマジでキモいんだけど。何か言いたいことでもあんの?」


 出流は答えなかった。ただじっと、相原の足元を見つめている。

 相原は肩をすくめると、つかつかと出流に歩み寄った。


「黙秘とかウザ。つか、用がないなら仕事の邪魔だからさ、悪いけど、そこどいてくんない?」


 相原は言いながら出流の鼻先にグイグイとタオルを押しつける。いつもの出流なら、泣きそうな顔で引き下がるに違いない。

 だが、彼女は動かなかった。足元におとした目線を上げようともしない。普段と違うその様子に、さすがの相原も違和感を覚えたらしい。眉根を寄せると、いくぶん低い声で脅しをかける。


「マジでウザすぎ。言いたいことがあるんなら、ちゃんと口に出して言ってみろっつってんだよクソザコ」


 すると、出流がゆっくりと目線を挙げた。まっすぐに相原を見据えながら、静かに口を開く。


「……謝れ」


 相原は口をひん曲げて首をかしげた。


「は? 謝る? なにをだよ」


 いくぶん気圧されつつも、高圧的な態度を崩さず顎をしゃくる。すると出流は、突然、右手で彼女の前髪をわしづかみにした。


「いたっ……! 何すんだよこの……」


 出流に目を向けた相原は、言いかけた言葉を飲み込んだ。出流の顔に、いつものあの控えめな雰囲気からは想像もできないような、冷酷で残忍な笑みが浮かんでいたのだ。


「わからないなら、教えてあげる」


 恐怖にすくんだ相原が、叫び声を上げようとした、刹那。

 相原の目に映る世界が、禍々しい赤一色で塗り込められた。



☆☆☆



「では、お世話になった施設の皆さんにお礼を言いましょう。ありがとうございました。」


 体験学習の終了式を終え、C組代表が音頭をとると、生徒たちは声を合わせてお礼を言って頭を下げた。

 すると、それまで黙って生徒の派内を聞いていた施設長が立ちあがり、代表からマイクを借り受けて口を開いた。


「いや、この場をお借りして、皆さんにひとこと謝りたいと思いまして」


 ざわつく生徒たちを前に居住まいを正すと、施設長は深々と頭を下げた。


「私は、昨年のイメージから勝手な想像で皆さんにたいへん失礼なことを申し上げた。本当に申し訳ありませんでした。今年の皆さんは、たいへん素晴らしかった。仕事を率先して行い、進んで手助けをしてくれたり……入所者の皆さんもとても喜んで、また来てほしいと皆さん口々に仰っていました」


 施設長はそのいかつい顔に、心なしか嬉しそうな笑みを浮かべていた。


「正直に言えば、高齢者介護はあまり待遇の良くない仕事です。苦労のわりに実入りも少なく、進学校に通う皆さんには、おそらく縁のない世界でしょう。しかし、日本も高齢化社会を迎え、今後ますます重要性が増してくる仕事だと、私は確信しています。皆さんが社会の中枢を担う重要な職業に就いた時、こうした福祉の仕事の重要性と必要性を踏まえて社会運営に携わってもらえれば幸いです。本日は、本当にどうもありがとうございました。来年もまた、ぜひよろしくお願いします」


 施設長がそう言って再度一礼すると、生徒たちは気恥ずかしそうに顔を見合わせながら拍手をした。

 滞りなく会も終わり、帰校の時間となった。職員と入所者が手を振って見送る中、生徒たちが充実した笑顔で施設をあとにする。

 皆に続いて靴を履き、施設を出ようとした紺野に、ふいに後ろから誰かが声をかけた。


「紺野くん、だっけ?」


 足を止めて振り返ると、玄関に工藤が立っている。深々と頭を下げた紺野のもとに、工藤は室内履きのままで駆けよった。


「あなた、福祉の仕事に興味、ある?」


「え?」


 発言の意図がつかめず戸惑っている紺野に、工藤はにっこりとほほ笑みかけた。


「施設長も言っていたけど、この仕事は高学歴な皆さんには縁のない世界で、たぶんあなたも名のある大学に行くんでしょうけど……でも、もし将来、自分が何に向いてるか悩むようなことがあったら、この体験学習を思い出してほしいの。あなた、絶対に福祉の仕事、向いてるわ。私が保証する。もし、就職難でどこにも行き先がないなんてことがあったら、絶対にうちのことを思い出して! いつでも大歓迎だから!」


 どう答えを返せばいいものか紺野が逡巡しているうちに、工藤は軽く右手を挙げてきびすを返し、施設内に戻って行ってしまった。

 紺野はその場に立ち尽くしたまま、先ほどの工藤の言葉を思い返していた。


『もし、就職難でどこにも行き先がないなんてことがあったら、絶対にうちのこときっと思い出して! いつでも大歓迎だから!』


――就職?


 紺野は、これまで生きてきた三十三年間、自分の将来について考えたことは一度たりともなかった。彼の意識を支配していたのは過去だけだった。死ぬべき人間である自分に、未来など存在するわけもなかった。そんなものが存在するなどと、今まで一度たりとも考えたことすらなかったのだ。


――僕の、未来?


 紺野はなんだか息苦しいような、空恐ろしいような感覚にとらわれながら、しばらくは歩き出すことすら忘れて、その場にぼんやりと立ち尽くしていた。


 

☆☆☆



 寺崎たちが学校に戻ってきた時には、すでに他のグループの生徒たちは帰校していた。どうやら御子柴グループが最後だったらしい。寺崎たちが着席すると、すぐに担任教師が黒板の前に立った。 

 グループ代表の生徒がこの日の体験の成果を発表し、その後、各個人でレポートを書き上げて提出する。これで、第一回のボランティア体験は終了である。つどいの家グループは代表だった相原が体調不良で帰宅したらしく、発表役は副代表のニキビ男子が務めていた。

 レポートを書き終えた者から昼食なので、三須も寺崎もいち早く書き終えて提出していた。


「あー、疲れた。けど、結構面白かったね」


「そうだな。じいさんばあさんもみんな楽しそうだったし」


 教卓上にレポートを提出し、三須と会話しながら席に戻っていく寺崎を、出流はレポートを書く手を止めてじっと見つめていた。

 と、その視線に気がついた寺崎が、笑顔で出流に話しかける。


「よ、いずるちゃん。どうだった? 体験」


 出流は赤くなると、あわててうなずいてみせた。


「え、あ、はい。おもしろかったです」


「そっか。よかったよかった」


 寺崎は軽く右手を挙げると、まだレポートを書いている紺野の側に行ってその手元をのぞき込み、あれこれちょっかいを出し始める。出流はそんな寺崎の後ろ姿を、熱いまなざしでじっと見つめていた。

 その時。

 出流が手にしていた鉛筆が、突然、出流の意志とは関係なく動き始めた。

 出流はハッとすると、鉛筆の書いた文字をじっと見つめる。


『あの子?』


 出流は頬を真っ赤に染めて鉛筆が書いた問いを見つめていたが、ややあって、こくりとうなずいた。

 と、再び鉛筆が走り出す。


『協力するよ』


 出流はその言葉に目を見張ると、小さな声でつぶやいた。


「ありがとう、優ちゃん」

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