6月6日 2
早々に掃除を終わらせたのは、やはり紺野と寺崎だった。
「俺たちにとっちゃ、慣れた仕事だよな」
寺崎の言葉に、紺野は苦笑まじりにうなずいた。
最後の一部屋に二人で向かうと、寺崎が扉のノブを回す。だが、ノブは半回転したところで、固い手応えとともに動きを止めた。
「あれ? 鍵がかかってる」
寺崎は首をひねると、振り返って紺野を見る。確かこの時間、この階の入所者は全員がホールに行っているはずだ。紺野も首をかしげたが、廊下の向こうに工藤の姿を見つけると、そこへ走っていった。
「え? 本当?」
紺野の話を聞き、工藤も目を丸くして走ってきた。寺崎と場所を代わってノブをひねってみるが、やはり開かない。鍵がかかっているのを確認すると、肩をすくめてため息をついた。
「また、野島さんね……」
つぶやきながらスペアキーを取り出し、ノックをしてから鍵を開けて中へ入る。寺崎と紺野もあとに続いた。
「野島さん、入りますよ。お掃除です」
大声で呼びかけながら部屋の奥へと進んでいく。
細長い部屋の突き当たり、窓際に置かれたソファに、白髪頭の痩身の男性が一人、窓の外に顔を向けて座っている姿が目に入った。
「野島さん、またホールに行かなかったんですか?」
野島と呼ばれた老人は、工藤の言葉に対して全くの無反応だった。まばたきすらしていないかのように微動だにせず、ただじっと窓の外に目を向けている。
「今日は高校生の皆さんが来てくれて、お仕事を手伝ってくれているんですよ。今からこのお部屋も掃除しますから。野島さんはホールへ行きましょ。さ、立ってください」
優しく声をかけ、野島老人を立ちあがらせようとその骨張った腕をとる。
その途端、野島老人はかっと目を見開いたかと思うと、それまでの時が止まったような様子からは想像もできないようなスピードと勢いで、工藤の手を荒々しく振り払った。工藤はある程度予測していたらしく驚いた様子はなかったが、手を腰に当てて大きなため息をついた。
「どうしたんすか?」
困惑しきったような表情を浮かべている工藤に、寺崎はおずおずと声をかけた。
「ええ、この方野島さんっていうんだけど、先々週ここに入ってきた方でね、しょっちゅうこういうことがあるの。今みたいに、みんなで集まったりとか、食事の時間だったりとかする時に、一人だけ部屋にいて動かないのよね」
寺崎と紺野は、窓の外をじっと見つめている野島老人の後ろ姿に目を向けた。痩せて骨張ったその背中は、少しだけ湾曲して見えた。
「会話がすでに成り立たない状態で入所されてきた方なんで、ご家族に心当たりがないか聞いたんだけど、ご家族の方もこんな行動を目にするのは初めてみたいで……今のところ、お手上げ状態なのよね」
「じゃ、どうします? 掃除」
工藤は困り切った様子でため息をついた。
「たばこの吸いすぎで呼吸器系に疾患があってね。ほこりは厳禁なのよ。取りあえず、おふろとおトイレの掃除は大丈夫だから、そこだけお願いできますか? 部屋の掃除は、野島さんが動く気になってくれた時にやるしかないわね」
「分かりました。紺野、おまえ、どっちやる?」
寺崎は隣に立つ紺野に声をかけた。だが、紺野は何も言わず、じっと野島老人の背中を見つめている。
「……紺野?」
いぶかしげな寺崎をよそに、紺野は野島老人に歩み寄っていった。野島老人の傍らにくると、肩を寄せるようにして隣に座る。
野島老人は何も言わなかった。先ほどまでと同じように、静かに窓の外を見つめている。紺野も何も言わなかった。野島老人と同じように、じっと窓の外を見つめている。
工藤も寺崎も、戸惑いつつも声をかけられず、そんな二人の様子を黙って見守った。
静まりかえった部屋に、かすかにホールの歌声が響いてくる。
すると突然、紺野が口を開いた。
「行きましょう」
工藤は目を見張った。紺野の言葉に、野島老人がはっきりとうなずき返したのだ。
紺野はよろよろと立ちあがった野島老人の背に手を添え、中空で震える左手を取ると、彼の動作を妨げないようにそっと傍らに寄り添う。老人はぶるぶる震える足を踏みしめながら、紺野とともにゆっくりと部屋を出て行った。
寺崎も工藤も、あっけにとられてその後ろ姿を見送った。
☆☆☆
「本当に驚いたわ。あの野島さんが、素直にホールに行くなんて……」
野島老人をホールに送って戻ってきた紺野に、工藤がため息まじりにこう言うと、紺野は曖昧に笑って首を振ってみせた。
工藤が仕事に戻ると、寺崎と紺野も最後の部屋の掃除に取りかかった。
「なあ、おまえ、何したんだ?」
寺崎は便器を磨きながら、奥の風呂場で浴槽を磨く紺野に声をかける。紺野は穏やかな声音で答えた。
「言葉を失ってしまうと、それだけ分かってもらいたい欲求が強くなるんでしょうね。あの方の意識が流れ込んできたので、接触してお答えしただけです」
「意識って、どんな?」
スポンジを動かしながら、紺野は優しい表情を浮かべていた。
「あの方は、奥さまを待ってらっしゃったんです。恐らく、すでに亡くなられていると思うのですが、あの方がまだお若い時分に、入院された記憶があって。その時のことと、現在を混同されておられたようです」
寺崎は便器を磨く手を止めて、紺野の言葉を感心しきったように聞いている。
「なので、奥さまは今日はいらっしゃらないとお伝えしたんです。ただ、明日になればまた今日のことを忘れて、同じ事を繰り返すとは思うのですが……。そのたび、そう言ってさしあげればいいんじゃないかと思います。それでご本人は納得されるわけですから」
寺崎は再び黄ばみをこすり取りながら、感嘆のため息とともにつぶやいた。
「……おまえの力って、マジですげえなあ」
「え?」
意外な言葉だったのだろう、紺野は目を丸くして浴槽を磨く手を止めた。
「だってさ、あのじいさんの考えてること、赤の他人のおまえが一瞬で察知できたんだぜ。長年この仕事をやってるプロでさえ持てあましてたってのにさ。あのじいさんも、おまえのおかげで自分の考えてることを分かってもらえて、嬉しかったんじゃねえの?」
「そんなこと……」
「うまく話ができねえようなやつにとっては、おまえはマジでありがたい存在なのかもしんねえな」
寺崎はそう言うと、ぼうぜんと自分を見つめている紺野ににっと笑いかけてみせた。
☆☆☆
「じゃあ、優ちゃんから先にお風呂に入ります。村上さんは、入浴が終わった優ちゃんの体を拭く役をお願いしていいですか?」
風呂場はまるで工場のようで、大きな浴槽の上に入浴者の体を持ち上げる機械がある。裸にされて浴槽の隣のベッドに横たえられた優子が、その機械で体をつり下げられ、ゆっくりと浴槽上へ移動し始めた。口を開けてそれを見上げていた出流は、一瞬UFOキャッチャーみたいだと思ってしまってから、その不謹慎さに気づいたのか、ドギマギしたように視線を泳がせた。浴槽上に体を移動され、ゆっくりと湯につかっていく優子の体を、周囲で待ちかまえていた介助員が三人がかりで手早く洗っていく。出流はその早業に、ただただ目を見張るばかりだった。
すっかりきれいになり、ゆっくり湯につかった優子は、再び機械につり下げられて出流の目の前のベッドに横たえられた。隣では次の成田が、もう浴槽に移動させられている。
「じゃ、体を拭きましょう」
言いながら、佐久間がてきぱきと優子の体を拭いていく。出流も見よう見まねで優子の髪や体を丁寧に拭いた。拭き終えるとタオルの下に出流が広げて用意しておいた服を着せていく。佐久間が腕や足を通し、出流はボタンを留めたりウエストをきちんとしまったり、湯気が充満して蒸し暑いその工場のような風呂場で、出流は汗だくになりながら優子の入浴介助を行った。
「じゃ、私は成田さんの介助をするから、村上さんは優ちゃんを部屋に連れて行って、髪を乾かしてあげて」
後から後からわき出ては額を流れ落ちる汗に目をしばたたかせつつ、出流はうなずいた。
優子のバギーを押してホールへ行くと、すでに入浴が終わった入所者が、ゲームをしたりテレビを見たりしながらくつろいでいた。高校生たちも少しだけ気の抜けた様子がみられ、担当である入所者の相手をしている者もいるが、入所者をほったらかして友達としゃべっている者もいる。B組の原田も、担当の入所者の隣に座ってはいるものの、側にいる男子生徒と何やら大笑いしながら話をしていた。
バギーを押して入ってきた出流の姿を目に留めると、原田はその笑いを収めて出流の行動を注視した。ドライヤーを捜しているらしいということを見て取ると、にやにやしながら立ち上がる。
「村上さん、何捜してるの?」
「あ、あの、ドライヤーを……」
「え? ドライヤーって、これ?」
見ると、原田の右手にはドライヤーが握られている。出流はほっとしてうなずくと、受け取ろうと手を伸ばした。
「あーっと」
原田がわざとらしく叫んだ。
床に固い音をたてて転がったドライヤーを、原田はすかさず足でけっ飛ばす。ドライヤーはくるくると回りながらテレビ台の奥の方に入っていってしまった。
「あ、ごめんねー。手が滑っちゃったー。大丈夫?」
原田はあざわらうように頬を片側だけ引き上げて、出流の顔をのぞき込んだ。
出流は困惑しきったような表情でちらっと原田を見たが、傲然とにらみ下ろすその威圧感に、何も言えずうつむいた。原田はフンと鼻で笑うと、男子生徒の方に歩き去ってしまった。
原田が行ってしまうと、出流はすぐに床にはいつくばり、テレビ台の奥をのぞいた。
あった。一番奥の方に転がっているのが見える。届くだろうか? 床に寝そべり、精一杯手を伸ばしてみるが、ギリギリ指一本分届かない。
――どうしよう。
出流はほこりまみれになりながら、それでも何とかならないかと必死で手を伸ばした。早く乾かしてあげないと、カゼをひいてしまうのではないか……びしょぬれの頭で横になっている優子のことが、ただひたすら心配で仕方がなかった。
その時だった。
テレビ台の奥に転がっていたドライヤーが、突然、ごろんと出流の方に転がってきたのだ。
――え?
出流は目を疑った。
精一杯伸ばした右手の先に、確かにドライヤーのコードが触れている。
引っ張り出したドライヤーを手に立ち上がったものの、出流は眉をひそめた。どうしていきなりドライヤーが自分の方に転がってきたのか、その合理的な理由がほしくてあれこれ考えてみる。風でも吹いたのかとも思ってみたが、テレビ台の奥に風なんか吹きようもない。第一、これだけの重みがあるドライヤーが、たかが風ごときで転がるとも思えない。それらしい理由が見つからないまま、取りあえず優子の髪を乾かし始めたものの、出流は何とも不可解な、同時に、そこはかとなく薄気味悪い思いを抱いていた。




