4月11日
4月11日(木)
翌日は今にも雨滴がしたたり落ちそうなうっとうしい曇天だったが、重苦しい天気もなんのその、チャイムが鳴って中休みに入れば、どの教室もにぎやかで明るい雰囲気に包まれる。
紺野は相変わらず、窓際の席で静かに本を読んでいる。たてる音と言えば風邪気味なのか、時々こんこんと軽い咳をする音くらいである。
寺崎はそんな紺野の様子を、一番後ろの席からじっとうかがっていた。
思い切って話しかけてみようかとも考えたが、寺崎はどうもそのきっかけをつかめずにいた。気さくな彼だが、紺野には独特な近寄りがたさがある。落ち着き払ったその雰囲気が、どうも自分たちと同年代のような気がしないのだ。
その時。斜め後ろで不穏な気配を感じた寺崎は、その方向に意識を尖らせた。
視覚はつかわず、聴覚と嗅覚、温感や空気の動きだけで動向を探る。
どうやら、宮野と山根が清水を連れて教室を出ようとしているようなのだが、その様子がおかしい。袖を引っ張る気配と、靴が不自然に引きずられるような音、「早く行け!」と小声で急きたてる声に、清水の汗臭い体臭が鼻を突く。どうやら二人は例によって口をもごもごさせている清水を、強引に教室外に追い立てているようだ。
寺崎は、昨日の清水の「もっとひどい目に遭う」という言葉を思い出して、暗澹とした。
――やれやれ、また助けに行かなけりゃならねえか。
席を立とうとした寺崎は、その時初めて、窓際のあの席に紺野の姿がないことに気がついた。
寺崎は慌ててあたりを見回した。教室内のどこにも、彼の姿は見あたらない。
「……ヤバ、見失った」
こうなると清水どころではない。紺野の動向監視は寺崎の本務なのだ。寺崎は慌てて教室を飛び出した。しかし時既に遅し。紺野の姿は廊下の先まで見渡しても、影すら見あたらなかった。
☆☆☆
清水は宮野にひきずられ、山根にその背をどつかれながら、人気のない裏庭に連れ出されていた。
「清水ぅ、昨日はどういうつもりだよ、あぁ?」
腕を組み、薄い眉を大げさに寄せながら、宮野は不満そうに口をひん曲げる。清水は甲羅に隠れる亀のようにびくびくしながら肩をすぼめ、震える声でぼそぼそと言葉を返した。
「え、あ、あの、ぼ、僕は、別に……」
「別に、じゃねえだろクソが!」
裏返った怒声に、清水は目をつむり頭を抱えてびくっと身を縮めた。
「ああいうときはなぁ、俺たちと用があるから行かねえって、お、ま、え、が、はっきり言わなきゃだめなんだっつーの。わかってんのかコラ」
鼻先に人差し指を突きつけながら凄む宮野の隣で、山根がおもむろに指の関節を鳴らし始める。
「今日はお仕置きだなあ、清水。しょうがねえよな」
言い終わるや否や乱暴に清水の襟首を掴み上げるので、清水は青くなって息を呑んだ。
「痛い目に遭わなきゃ、分かんねえみたいだからな」
宮野は傍らでニヤニヤしながら山根を小突く。
「ストレス解消してえんだから、俺の分も残しとけよ」
「分かってるって」
山根もニヤケ顔でそれに答えると、握りしめた拳を高々と振り上げる。恐怖のあまり、清水が首を縮めて目を固くつむった、その時。
「おい、おまえら! そこで何をしている!?」
野太いその声に、宮野と山根がゾッとして振り向くと、そこにはレスリング部顧問をしている屈強な体育教師の筋骨たくましい姿があった。背中から照りつける逆光が、後光のように彼を縁取っている。
山根は大慌てて清水の襟首を掴んでいた手を離し、そ知らぬふりをしたが、体育教師は胡乱な目つきでそんな二人を睨め回した。
「おまえら、ちょっと職員室まで来てもらおうか」
「あ、いえ、俺たち、ちょっとふざけていただけです。別に何も……なあ、清水」
「え、あ、その……」
睨み付けてくる宮野の目線が恐ろしくて、清水は頷くように目線を落として俯いた。
体育教師は眉根を寄せると、無言でポケットからボイスレコーダーを取り出した。再生を始めたとたん、宮野や山根がつい先ほど清水に対して投げつけていた怒声や嘲笑がとぎれとぎれに流れてきて、二人の顔から一気に血の気が引いた。
「今回だけじゃない可能性もある。とにかく職員室に来い。詳しく話を聞かせろ」
二人の手首を巨大な手でわしづかみにすると、体育教師は有無を言わせず歩き出す。二人は転びそうになりながら、抵抗のしようもなくずるずると引きずられていく。
とり残された清水は、何が起きたのか全くわからない様子で、彼らの後ろ姿を口をあけて見送っていた。
☆☆☆
職員室でこってり絞られたあと、宮野と山根はぐったりした表情でふらふらと教室に戻ってきた。
自分の席に座って机に突っ伏すと、宮野はため息とともに吐き捨てる。
「……ああ、ひどい目にあった。くっそ、誰がチクりやがったんだ?」
「昨日のあいつじゃねえか? 寺崎」
山根の言葉に、宮野は黙り込んだ。昨日の寺崎の迫力。とてもあいつには太刀打ちできそうにない。
すると、そんな二人の様子をさっきから横目で見ていた溝口が、ニヤニヤしながら歩み寄ってきた。
「よお。こってりしぼられたみたいだな」
溝口は、時々宮野達に混ざって清水をいじめていたクチである。宮野は不愉快そうに顔を歪めて溝口を睨み付けた。
「うっせえ。……ったく、このクラスにチクるやつがいるとはな」
「意外なやつだったな」
溝口の言葉に、宮野は目を丸くして跳ね起きた。
「知ってんのか? チクったやつ」
溝口は意味ありげな笑みをそのニキビだらけの頬に浮かべつつ、頷いた。
「職員室にそいつが入っていったあと、あの体育教師が飛び出していったんだ。間違いない」
「誰だ? そいつ……」
溝口は声を潜め、そっと窓際の方向を指さした。
「あそこに座ってるやつだよ。確か……紺野とかいったっけ」
☆☆☆
下校時刻になるころには、本格的に雨が降り始めていた。
寺崎は、今日は紺野の尾行をせず、まっすぐ自宅に帰る予定だ。定期検診日で、母親が中心部の病院まで出かけたからだ。こういう外出のある日は、母親はたいてい疲れてしまって料理どころではなくなる。そんなときは、寺崎が代わりに料理担当になるのだ。買い出しにも行かねばならず忙しいため、紺野の尾行をしている暇がない。
とりあえず洗濯を部屋干しにしておいてよかったなどと所帯じみたことを考えながらカバンに荷物を詰める寺崎の視界に、教室を出て行く紺野の姿が映る。だが、尾行する予定はないのでいつものように焦る必要もない。手元に目線を移しかけた寺崎の視界の端に、今度は宮野と山根の姿が映りこんだ。
キョロキョロと落ち着きなく辺りを見回す様子がかえって何か意図していることを周囲にアピールしまくっていて、怪しい雰囲気が満載だ。
――あいつら、何だ?
不審な態度が気にはなったが、どうしようかと逡巡しているうちに、彼らの足音は渡り廊下の向こうに消えてしまった。
また清水に何かするつもりだろうかと不安がよぎったが、清水自身はまだ教室にいる上に、たしか連中は清水をイジメていた件で教師の呼び出しをくらったはずだ。しばらくは清水に手を出す可能性は低く、ヤバいことが起きるとは考えにくい。というか、そもそも玲璃の護衛とあの連中の動向は全く関係がないのだ。寺崎が居残る義理はない。
――ま、大丈夫だろ。
寺崎は楽観的に考えることにすると、カバンを手に教室を後にした。
☆☆☆
この高校は川沿いに位置している。
学校を出て少しだけ歩くと、都心とは思えない広々とした河川敷の風景が広がっている。川べりに整備されたサイクリングロードは普段は運動部の格好の練習場となっているが、小雨の降りしきるこの日は運動部はおろか、行き過ぎる人の姿もほとんど見られない。
川には大きな鉄橋がかかっており、運行本数もまずまず多い路線なので、五分間隔で赤いラインの入った電車がにぎやかな音とともに渡っていく。このときも、高架下にいる三人の頭上を通過する電車の騒々しい音が響き渡っていた。
宮野は騒音に幾分顔を歪めながら、掴んでいた紺野の腕を乱暴に突き放した。
傘をさしていた紺野は、バランスを崩して少しよろけたようだったが、なにも言わずにうつむいている。
「傘はいらねえだろうが。たためよ」
宮野が言うと、紺野は素直に傘を閉じた。きちょうめんな性格なのか、きちんと巻いてボタンも留めようとする。
宮野は自分の傘とカバンを雨に濡れていない草むらに置くと、つかつかと紺野に歩み寄り、ボタンを留め切れていない紺野の傘を乱暴に引ったくった。反動でカバンが手からすべり落ち、足元の水たまりに嫌な音を立てて転がる。が、紺野は残念がるでも怒るでもなく、無表情に泥だらけのカバンを眺めている。
宮野は忌々し気に口をひん曲げると、紺野の傘を持ちなおし、それをいきなり横ざまに振り切った。
傘の先端がうなりを上げて空を切り、紺野のこめかみから額にかけてを真横に切り裂く。あと三センチメートルほど位置が下だったら、目をつぶされていたことだろう。だが、紺野は表情を変えるどころか瞬きすらしなかった。切れたこめかみからふき出た血が、俯く紺野の頬を伝って流れ落ちる。
恐怖におびえて泣き叫ぶ反応を期待していた宮野は、その無表情さに青筋を立てた。尖った傘の先端を紺野の頬に突き立て、イライラと声を荒げて威嚇する。
「ざけんなよ、てめえ……教師にチクるとか、どうなるか分かってんだろうな!」
力いっぱい突き立てられた傘の先端が、紺野の頬にめり込む。紺野は傘で橋脚に押し付けられながら、しかし、それでも眉ひとつ動かさずに黙っている。
「聞いてんのかよ!」
それでなくても怒り心頭に発していた宮野はぶち切れた。裏返った声を張り上げると、あろうことか傘の先端を紺野の口中にねじ込み始める。
見かねた山根はため息まじりに口を開いた。
「やめとけって。それやってマジで殺したヤツいたぞ」
宮野は怒りで紅潮した顔で山根を睨みつけたが、忌々し気に傘の先端を紺野の口から引き抜くと、今度は傘の先の方を両手で握り、持ち手側を高々と振り上げた。
明らかに頭を狙っているのがわかる。予備動作が大きい上に振り下ろす速度も遅い。人並みの反射神経があれば避けられるし逃げられるだろう。だが、紺野は避けるどころか宮野の方を見ることすらせず、攻撃の瞬間をただじっと待っている。彼の頭には、避けるという概念自体が存在していないかのようだ。
風を切って振り下ろされた傘の柄が、紺野の頭にまっすぐに叩き込まれる。柄は反動で曲がり、衝撃でよろけた紺野は、ぬかるんだ河川敷に両手を突いて倒れ込んだ。
「ちょっと俺にもやらせろや、宮野」
山根が、宮野の手から曲がった傘をむしり取った。無反応な紺野の顔が、自分の暴力によって恐怖に歪む瞬間を見たくなったのだ。紺野の前髪をわしづかみにすると、うつむいていた顔を強制的に上向かせる。
それでも紺野は無表情だった。山根とは少しずれたあたりに無感情な目線を投げているだけだ。恐怖や恐れに類する感情はもちろん、媚びへつらう様子もなく、かといって抵抗や反抗の意思も感じ取れない。痛みすら感じていないかのようなその顔を見ていると、頬を伝い落ちる血ですら、まるで作り物のように思えてくる。
山根は口の端を左右非対称に引き上げると、能面のようなその顔につばを吐きかけた。
「いつまで平然としてられっか、見ものだな」
表情こそ変わらなかったが、頬に当たった唾液の感覚はさすがに不快だったらしい。紺野は右手で頬を拭った。その拍子に、額から流れ落ちた血がワイシャツに飛び散り、鮮やかな赤いシミを作る。それを見た紺野は、初めて表情を動かした。眉をほんの少しだけ上げ、驚いたような、どこか残念そうな表情を浮かべてシャツについた赤いシミを見ている。
圧倒的な恐怖を与えているはずの自分たちの存在が、たった一滴の血にすら劣ると言わんばかりのその態度に、山根の嗜虐メーターが一気に振り切れた。
山根は無言で傘を振り上げ、紺野の頭に力いっぱい叩き込んだ。よろける紺野に構わず、二度、三度。執拗にそれを繰り返すうち、傘の柄はさらに曲がり、紺野の頭からは血が噴き出した。やがて紺野は、力尽きたようにぬかるんだ地面に倒れこんだ。
山根は折れ曲がった傘を投げ捨てると、今度は倒れている紺野の腹に、シュートでも決めるかのような全力の蹴りを叩き込んだ。二度、三度。つま先が腹にめり込むたびに、いやな音が高架下に響く。耐え切れなくなったように紺野は胃液を吐いたが、それでも山根は蹴りを止めず、どころか宮野までもが攻撃に加わり、笑いながら倒れている紺野の尻や背中を蹴りつけ始めた。人気のない高架下に延々と重い蹴りの音が響く。そのうち、蹴りの合間に漏れ聞こえていた低いうめき声も、いつの間にか聞こえなくなっていった。
紺野が動かなくなったことに気づいた山根は、息を切らしながら足を引いた。ぬかるみに横倒しになって微動だにしない紺野の肩を、右足で軽く蹴りつけてみる。少しだけ体が仰向いてあらわになったその顔は血と泥にまみれ、閉ざされた目は開く気配もなく、口はほんの少しだけ開いてはいるが、そこから何か意味のある言葉が紡ぎ出されてくる気配は皆無だった。
「やり過ぎ……たかな」
山根がかすれた声で呟いた。
動かない紺野を見ているうちに突然恐怖がわいてきたのだろう。宮野は自分のカバンと傘を掴むと、ものも言わずに河川敷の土手を登り始めた。山根も自分の荷物をつかむと、あたふたとその後を追う。
雨は静かに降り続いていた。
霧雨の降りそそぐ薄暗い夕刻の河川敷を、騒々しい音とともに通り過ぎる電車の灯りが時折明るく照らし出していく。
何本目かの電車が行き過ぎた時、倒れていた紺野の目が薄く開いた。
彼は状況を思い出すようにしばらくはそのままで動かなかったが、やがてゆっくりと体を起こすと、四つんばいのような姿勢から橋脚の壁を伝って立ち上がった。ぬかるみに転がっていた泥だらけのカバンを拾い上げると、よろめく足を踏みしめて河川敷の坂を上り始める。
ダメージの影響だろうか、まっすぐに歩くことができないらしく、右に左に体が揺れる。それでも何とか坂を上がりきると、彼はおぼつかない足取りでサイクリングロードを歩き始めた。血だらけの泥だらけ、その上傘もささずにずぶ濡れで歩く見るからに異様な風体は、明らかに人目をひくはずだ。だが、時折河川敷を行き過ぎる人たちは、なぜか誰一人彼に注意を向けなかった。彼の存在自体を感知していないかのように無関心に通り過ぎていくだけだ。彼が道端で激しく咳き込んで黒ずんだ血を吐いた時ですら、誰一人として一瞥すらしなかった。
よろよろと歩き去る彼の後ろ姿が、河川敷の暗闇になじんで消えていく。
その後ろ姿を、三十メートルほど離れた立木の影から見つめている人影があった。
その人物は、紺野の姿が暗闇に紛れて見えなくなると、踵を返して霧雨に煙る河川敷の向こうに消えた。