6月3日
6月3日(月)
「あれ? おはよう!」
昇降口へ向かって歩いていた紺野と寺崎は、後ろから追いかけてきた明るい声に足を止めて振り返った。玲璃が、相変わらず太陽のようにまぶしい笑顔をキラキラさせながら、二人に駆けよって来るのが見える。
「珍しいじゃないか、まともな時間に」
その言葉に、寺崎は苦笑した。今は始業十分前。いつもギリギリに滑り込む二人にしては確かに早い時間である。
「それはないっすよ。俺たちだってたまには早く来たい時もあるんすから」
「何か用事でもあるのか?」
「いや、そういうわけじゃないっすけど。ただ紺野、まだあんまり早く走れないから……」
言いかけてから、はっとしたように口をつぐんだ寺崎の顔を、玲璃は不思議そうに首をかしげてのぞき込んだ。
「え? どうして早く走れないんだ?」
寺崎は引きつった笑顔を浮かべた。
「……っていうか、ゆっくり、のんびり、人生について語り合うのもたまにはいいかなと思って。な、紺野」
訳の分からない説明に、玲璃は疑いのまなざしで寺崎をにらんだ。
「何だそれ? おまえ、何か隠してないか?」
「んなことないっすよ。人生……そう、女には分からない、男の人生ってやつについて、最近よく語り合ってんですよ。な、紺野」
意味不明な説明に何度も同意を求められて、紺野は引きつった笑顔でおずおずとうなずく。そんな二人の様子を疑わしそうな目でじっと見据えていた玲璃は、ため息をついて肩をすくめた。
「……要するに、私に話すことはないっていう意味だよな」
「え、いや、そんなつもりは……」
玲璃は寺崎の言い訳を聞かずに踵を返し、三年のげた箱の方に行ってしまった。
「魁然さん、怒ってましたね……」
その後ろ姿を見送りながら紺野がつぶやくと、寺崎は渋い表情を浮かべた。
「仕方ねえだろ。金曜のことは絶対公言できねえもん。自分の一族がおまえにあんなひどいマネしたなんて知っちまったら、総代の心理的負担がヤバすぎるし、それが魁然総帥に伝われば大事になるのは必至だからな」
二人は黙り込むと、代わる代わるため息をつきながら靴を履き替えた。
「でも、ま、よかったよ。今回はおまえ、熱とかも出さなかったし」
寺崎は靴をしまいながら気を取り直したように紺野に笑いかけたが、何を思いだしたのかその手を止めると、せっかくの笑顔をおさめてため息をついた。
「それにしても、ボランティア体験は惜しかったな……」
「そうですね」
寺崎と同様、残念そうに肩を落とす紺野の頭を、寺崎は人差し指でツンと小突く。
「全く、おまえはジャンケンにすら力使おうとしねえんだもん」
紺野は不思議そうな顔で寺崎を見た。
「当たり前じゃないですか。最低限のルールですから」
「何だそれ。誰かにそう言われたのか?」
「……いえ、自分で勝手にそう思っているだけですけど」
寺崎はぷっと吹き出すと、紺野の頭をぐしゃぐしゃなで回した。
「なんつーか……ほんと、クソがつくほどまじめだな、おまえって」
紺野はボサボサ頭でちょっと赤くなりながら、反論する。
「だって、能力使い出すときりがありませんから。まあ、僕は普段はほとんど使えないからいいんですけど」
「まあな。俺だって使い出せばきりねえし。……って、結構使いまくってるけど」
軽口をたたきながら教室に入ると、時計の針は始業五分前を指していた。
「おお、なんて余裕の時間! 感動だねえ」
いくぶん気分が上がったのか鼻歌まじりに自分の席に荷物を置いた寺崎だったが、後ろの席に座っている女生徒の姿にふと目を留めた瞬間、今度は目を丸くして固まった。
「あれ? おはよ寺崎。今日はやけに早いじゃん」
友達との話を終えて席に戻ってきた三須が声をかけたが、寺崎は返事をしない。いぶかしげにその目線を負った三須は、意味ありげににやりと笑った。
「凄いでしょ、いずるちゃん」
寺崎は口を半分開けたままでうなずくと、感心しきったようにため息をついた。
「……三須ちゃんプロデュース?」
「まーね。あのあと、ヘアサロンで緩いウエーブかけてもらって、眼鏡からコンタクトに変えて……。帰りがけ凄かったよ、三人も男から声かけられちゃって」
と、二人の視線に気がついたのか、出流が読んでいた本から顔を上げた。三須が軽く手を振ると、笑顔でそれに答えてから、寺崎にちょっと頭を下げる。
「このあと、いずるちゃんの変身にあいつらがどう反応するかが問題なんだけど」
三須はそう言って、窓際に寄り集まって出流を見ながらひそひそ何か話している三人の女生徒を見やった。
「ま、いずるちゃんの立場が固まるまでは、あたしがついてあげるしかないかな」
「いろいろたいへんだな、三須ちゃんも」
「まあね、級長ほどではないけどさ」
「何か困ったことあったら、言えよ。この級長様が何とかしてやっから」
三須はその言葉ににっこりと笑った。
「ありがと。頼りにしてるよ、級長」
☆☆☆
一年B組はボランティア体験に向けて、施設ごとに手伝う仕事の内容を把握し、分担や係を事前に決める活動を行っていた。
出流は運の悪いことに、いじめを中心になって行っている女生徒、相原美鈴と同じグループになってしまっていた。
「じゃあ、えっと、誰がどこの担当になるか決めよっか」
仕切りたがりの相原はそう言って五人を見回した。同じグループの男子三人は、ちらちら出流に目をやりながら何か小声で話している。興味があるのが見え見えだ。相原は、いまいましそうに出流を横目でにらんだ。
――何か急にかわいくなっちゃって、むかつく。
不愉快そうに手元の資料に目をやっていたが、何に目を留めたのか、目を見開くとにやりと口の端を上げた。
「えっとー、このつどいの家には重度心身障害者の方の居住施設と、通所の方の活動施設があるんだけど、居住施設では現在十人の方が暮らしてて、通所施設の方では二十人くらいの方が来られてるんだって。わたしたちは居住施設の方を担当するみたい。で、それぞれ担当者を決めて、その人のお世話を重点的にやって、仲良くなるって感じにするみたい」
「担当か……重度心身障害者って、どんな感じなんだろ。俺、適当に選んじゃったけど、よく知らないしな……できれば、ある程度意思疎通できる相手のほうがいいんだけど」
「俺も」
気弱そうな眼鏡男子の言葉に、太り気味のニキビ男もうなずく。希望はしたものの、社会経験の少ない高校生、しかも初めての経験である。意思の疎通も難しい重度の障害者に、どう接していいか戸惑うのは当然かもしれない。
「えっと、この十人の中で軽めなのが、堀江さん、金田さん。普通に話せて、食べたり歩いたりもできるって。たいへんそうなのは、この二人かな。成田さんと、石川さん。しゃべれないし、ほとんど自分では動けないみたい。ただ、施設の方から、重度の人に一人は必ずついてほしいって希望が出てるんだって。だから誰か一人はこの人たちのどっちかを見ないとダメなんだけど」
男子生徒たちは互いに顔を見合わせた。できれば軽めの人と、あまり緊張感のない楽しい時間を過ごしたいと考えているらしい。
そんな雰囲気を察したのか、相原は意地悪そうに口の端を上げると、突然こんな事を口にした。
「ねえ、村上さんてさ、前にボランティアの経験あるって聞いたことがあるんだけど。すごいね、経験者じゃん」
相原がいきなり話しかけてきたので、出流は緊張して返事ができなかった。ボランティアの経験など、当然のことながら一度もない。だが、相原は知らん顔で話を続けた。
「こういう時は、やっぱ経験者が重めの人を担当してくれると、わたしたちみたいな未経験者はものすごーくありがたいんだけど、どうかな。やってくれないかな」
「え……」
反論しようと口を開きかけた出流の言葉をさえぎるように、相原は強引に話を進めた。
「じゃさ、重めの人は村上さんってことで、いいよね?」
残りの男子三人は、無責任にうなずき合っている。出流は何か言おうとしたが、相原の鋭い目にぎろりとにらまれて、言いかけた言葉を飲み込んでしまった。
「じゃ、わたしたちも担当決めよ。まずは金田さんのお相手から。やりたい人は……」
もはや出流に関係なく、グループの話し合いはどんどん進んでいく。
出流は小さくため息をついたが、こんなことは日常茶飯だ。文句を言っても、場の雰囲気が悪くなれば自分がにらまれるだけというのもわかっている。別に、重度の人のお世話も、興味がないわけではない。いい経験になるだろう。無理やりそう思い直すと、出流は、窓際の席で老人福祉施設のメンバーと話し合っている寺崎の方をちらっと見やった。
昨日、寺崎が自分にかけてくれた言葉が、頭の中によみがえってくる。
『忘れないでくれよ、俺』
そう言って自分に明るく笑いかけてくれた、寺崎の屈託のない笑顔。
その笑顔を思い出した途端、出流はなんだか他のことはもうどうでもいいような気がした。わたしには寺崎くんがいる。明るい笑顔で笑いかけてくれる。困ったことがあっても助けてくれる。そう思っただけで、嫌なことや苦しいことが全部忘れられるような気がした。いつの間にか、出流にとって寺崎は最高の「王子様」から、さらに最強の「心の支え」に昇華していたのだった。