6月2日
6月2日(日)
上南沢の町は、若者の好みそうなしゃれた店が多くあり、近所でおおかたの用事を済ませることができる便利な所だ。
駅にエレベーターがないころは車椅子のみどりにとっては不便だったが、それでも彼女がこの町に住んだのは、行紘との思い出の町だったからというだけではなく、そうした便利さに惹かれた部分もある。
この日はどんよりと重苦しい雲が上空を覆い尽くし、今にも雨滴がしたたり落ちてきそうなうっとうしい天気だったが、紺野と寺崎はゆっくりと、散歩でもするようにこの町を歩いていた。いよいよ紺野のワイシャツが、全部だめになってしまったからだ。あの高校は偏差値の高い学校ではよくあるように、校則が緩い。別に校章の入った指定のワイシャツでなくても、白いシャツであれば使用可なのである。
「大丈夫か? 紺野」
紺野の様子を見ながら、寺崎はゆっくりと歩く。サイズをきちんと把握していなかったので、本人を連れて行かざるをえないのだ。
「大丈夫です。もっと速く歩いてもいいですよ」
寺崎の問いかけに紺野は笑って見せたが、微妙に足を引きずっているのを知っている寺崎は、先ほどよりさらにスピードを落とした。
「まあ、ゆっくり行こう。別に大した用事じゃねえんだから」
寺崎は言いながら、ポケットに手を突っ込んだ。
「ほら、これ」
何かくしゃくしゃの紙のようなものを紺野に押しつけるようにして渡す。何気なく受け取ってその紙に目をやった紺野は、目を丸くすると、慌ててそれを寺崎に返そうとした。
「いいですよ、僕は自分のお金がありますから」
それは一万円札だった。寺崎は知らん顔で足を速め、さっさと先に歩いていく。
「何言ってんだ。シャツだってばかにならねえんだぞ。ユニシロで買ったって三枚買うのが限度なんだから」
「二枚で足りますよ」
「とにかくとっとけって。今月の給料が入ったら返してもらうからさ」
紺野は諦めたように小さく息をつくと、頭を下げた。
「分かりました。お借りします」
「そうそう。最初から素直にそう言やあいいの」
振り返ってにっと笑った寺崎の目に、突然、見覚えのある人物の姿が映り込んだ。振り返った姿勢のまま、寺崎はその目を見はって動きを止める。
「寺崎さん?」
そのただならぬ様子に、紺野も寺崎の目線を追って振り返った。
紺野の目に、十メートルほど先の路上に立つ、Tシャツに透け感のあるキャミソールを重ね、デニムのショートパンツに平べったいサンダルを履いた三須の姿が映りこんだ。三須の隣には、黒髪を無造作に束ねた、何でもないTシャツにジーンズ姿の村上出流も立っている。三須は出流に買い物の指南でもしているのか、店先で熱心に何か出流に話しかけている。出流もうなずきながら真剣な表情だ。
「……気づいてねえみたいだな」
寺崎の低い声に、紺野もなぜだか緊張した面持ちでうなずいた。
「このまま、そーっと行こう。大丈夫、あいつらみたいなのはユニシロなんかにこねえって……行くぞ」
「は、はい」
二人は踵を返すと、彼らとは逆方向に足を速めて歩き出す。が、五メートルも歩かないうちに、出流の肩越しにふと顔を上げた三須の目が、二人の後ろ姿をしっかりととらえた。
「あれ? もしかして……やっぱりそうだ! おーい、寺崎! 紺野くーん!」
大声で呼ばれて、寺崎も紺野もビクッとして足を止めた。ゆるゆると振り返ると、三須がいっぱいに伸ばした両手をブンブン振り回している姿が目に入る。
「あー……、見つかっちゃったか……」
普段なら走って逃げる選択肢も考えられたのだが、紺野がこの状態ではそれも不可能だ。寺崎はため息をついて覚悟を決めると、三須の方に向き直った。
「お、……おー、三須ちゃん。いずるちゃんも一緒?」
出流が十五メートル離れたこの位置からもはっきり分かるほど真っ赤になって思い切り頭を下げるのが見える。三須はサンダルに足を取られながら、寺崎たちの方に走り寄ってきた。
「やったーっ! 思惑通り。上南沢にくれば二人に会えるかもって、ここにしたんだよ」
「今日はどしたの? 買い物?」
三須はようやく追いついてきた赤い顔の出流を引き寄せて、にこっと笑った。
「そ。リレー選以来、あたしたち仲良しなんだよ、ねー」
曖昧な表情でうなずく出流の様子に、三須は苦笑まじりに肩をすくめた。
「……ていうか、相談に乗ってたの。ちょっと悩んでたんだよね。で、それにはイメージ変えんのが一番ってことで、お洋服選んであげてたってわけ」
それを聞いて紺野は、何を思い出したのかくすっと笑った。
「何だ? 紺野。何がおかしいんだよ」
「いえ、発想が寺崎さんと同じだなって……」
くすくす笑っている紺野に、寺崎はぶぜんとして答える。
「そりゃ、今時、ワカモノの考えることなんてみんな同じだからな。俺も三須ちゃんも、立派な今時のワカモノってことだよ。おやじ脳のおまえとは違うの」
「それは失礼しました」
まだ笑っている紺野をにらんでいる寺崎に、今度は三須が聞いてきた。
「寺崎たちは何? お散歩でもしてんの?」
「まあ、そんなとこ。これからユニシロでこいつの服買うから」
「えー、紺野くん、ユニシロとか行くの?」
「行きますよ、手ごろで好きなんです」
にっこりと笑った紺野を見て、三須は心底驚いたような顔をした。
「意外……全身デザイナーズ着ててもおかしくないような人なのに」
「イメージ壊れました?」
三須はぶんぶん首を振ると、両手を目の前で組んできらきらと紺野を見つめる。
「ううん、そういう現実的なとこと見た目のギャップ、かなり萌える♡」
複雑な表情の紺野を見て、今度は寺崎が声もなく笑っていた。
「……じゃ、そろそろ俺たち行くわ。三須ちゃんたちもがんばって洋服選んでくれよ。じゃあな」
笑いをおさめた寺崎はそう言うと、紺野とともにユニシロの方に歩き出しかける。が、町中に響き渡りそうな「えーっ!」という甲高い叫び声に、二人ともドキッとして歩みを止めた。怖ず怖ずと振り返ると、口をとがらせ、非難囂々のまなざしで上目づかいに二人をにらみつけている三須の姿が目に入る。
「マジ? せっかく会えたってのに、もう行っちゃうとかあり得ないんだけど」
「……だめ?」
「当然じゃん! 同じクラスのかわいい女子と偶然にも会えたんだから、一緒に遊びましょってことに普通なるよね」
寺崎は紺野とちらっと目線を交わし、つぶやく。
「……誰が、かわいい女子?」
「決まってんじゃん、いいから早く上南沢案内して! 住人情報開示!」
寺崎はため息をつくと、観念したように三須に向き直った。
「分かりました。……で、どういうとこに行きたいの?」
☆☆☆
寺崎は、三須と出流をとある雑居ビルの二階にある古着屋へ案内した。
「ここは、わりかし古着っつっても買いやすいものが置いてあるはず。いずるちゃんにもいいと思うよ」
こぎれいな店内には、古着とは思えないような状態のいい可愛らしい服がところ狭しと並んでいる。三須も出流も、さっそく目をきらきらさせながら店内をぐるぐる見て回っている。
「紺野、大丈夫か?」
寺崎がその隙に、店の隅にたたずんでいる紺野にそっと尋ねる。無理をさせるとまた熱を出すかもしれないからだ。紺野は笑ってうなずいた。
「つらくなってきたら、僕だけ先に帰ります。寺崎さんには申し訳ありませんが」
「え、マジ? それはちょっと……」
慌ててそう言った寺崎の様子がおかしかったのか、紺野はまたくすくす笑った。
「冗談です。おつきあいしますよ」
「いや、別に、そういう意味じゃ……」
寺崎はそう言いながら、笑う紺野をほっとしたように見ていた。ここしばらく、彼にとっては本当に重すぎる日々の連続で、寺崎は内心、心配していたのである。
――三須ちゃんも、たまには悪くねえか。
寺崎がそう思ったとき、店の奥から三須の甲高い声が響いてきた。
「寺崎、寺崎! ちょっと見てやってよ!」
「は? なんだよ、そんなでかい声出さなくても……」
寺崎は慌てて返事をすると、試着室の前でこっちへ来いというように手を振り回している三須の所へ向かった。
「見てよ、これ!」
言われて、寺崎は試着室のカーテンの影に隠れるようにして立つ出流を見やり、目を見張った。
小花柄のふんわりしたヴィンテージドレスに身を包み、髪を下ろして眼鏡を取った彼女は、別人と言っていいくらい雰囲気が違っていたのだ。
「へえ……驚いた。別人じゃん」
「いずるちゃん、素材はいいと思ってたけど、これほどとはね……。ちょっと待って、このサンダル履いてみて」
サンダルを履いて試着室から出てきた彼女の姿に、店の隅にいた紺野も驚いたように目を丸くしている。三須は満足そうに腕を組んでうなずいた。
「これなら、もう誰もバカにしたりしないって。自信持っていいよ、いずるちゃん」
三須の言葉に、出流はうつむいていていた顔を少しだけ上げた。
「……そうかな」
「マジマジ。この男どもの視線がいい証拠だって。とりあえずそれ全部買おう! で、それ着て町歩いてごらん。絶対、自信つくから」
怖ず怖ずとうなずいて、出流が再び試着室に入ると、寺崎は声をひそめて三須に話しかけた。
「何? いずるちゃん、何かあったの?」
「うん、まあ、話せば長くなるんだけど……簡単に言うと、ちょっとしたいじめにあっててね。そいつらがいずるちゃんのこと、ダサいとかキモいとか言ってけなしまくってんの。だから、ちょっと気晴らししてあげようと思ってさ」
寺崎は感心したように三須を見つめた。
「へええ。三須ちゃんて、意外にいいやつなんだ」
「何その、意外って」
「いや、別に深い意味はないけどさ」
慌ててそう言った寺崎の脇腹を肘で思い切りどついてから、三須は試着室を出てきた出流と一緒に会計をしに行く。とどこおりなく会計を済ませて寺崎たちの所に戻ってくると、満面の笑顔で当然のように言った。
「じゃ、行こっか!」
「は? まだどっか行くの?」
「何言ってんの。紺野くんの買い物がまだじゃん。そのあとお茶して、それから……」
寺崎はあんぐりと口を開けていたが、慌てて三須の言葉をさえぎった。
「……っと三須ちゃん、実は紺野、具合があんまりよくねえんだ。だからせめてお茶くらいまでにしといてやってくれよ」
「え? マジで?」
三須は急に真顔になると、心配そうに紺野の顔をのぞき込んだ。
「何だ、早く言ってくれればいいのに……。ごめんね紺野くん、買い物に付き合わせたりして」
紺野は穏やかにほほ笑んで首を振る。
「じゃあ、あとは紺野くんの買い物とお茶だけでいいや。そうと決まれば早く行こ!」
寺崎は内心、それはやっぱりやるのかと思いつつ、曖昧な笑顔でうなずいた。
☆☆☆
ユニシロで紺野のワイシャツを買った後、四人は老舗のカフェに入った。オープンテラスは天気がいまいちなのでやめ、四人は入り口近くの禁煙席に座った。
「しっかしいずるちゃん、マジでかわいくなったよな」
寺崎が斜め前に座る出流を改めて見やりながら感心したように言うので、出流は肩をすぼめて縮こまり、また真っ赤になった。
「あ、ありがとうございます……」
「いいっていいって、敬語なんかつかわないで。どっかの誰かさんみたいになっちゃうよ」
寺崎がわざとらしくこう言うと、紺野はぺこりと頭を下げる。
「すみません、癖なんです」
まじめそのものの反応に、三須が思わず吹き出した。
「マジで紺野くんって、まじめっていうか、かわいいっていうか、……ホント、不思議な人だよね」
「寺崎さんのノリには随分慣れたつもりなんですが……やっぱり、まだまだですね」
「いや、いいのいいの。おまえはそのままでいいんだって」
運ばれたコーヒーを口にしながら明るく笑う寺崎を、出流は心持ち頬を染めて見つめながら、運ばれた紅茶を口にした。
「にしても、いずるちゃん、思い切りよく買ったよな。結構しただろ、古着っていったって」
すると三須は、意味ありげに笑った。
「大丈夫。いずるちゃん、村上財閥のお嬢様だから」
その言葉に、寺崎は飲んでいたコーヒーを吹き出しかけた。
「あっつ……って、村上財閥って、あの有名な? マジで?」
「マジ。ていうか、知らなかったことに驚き。うちの学校じゃ、結構有名な話なのに」
寺崎にまじまじと見つめられて、出流は慌てて下を向いた。
「知らなかったも何も……マジで驚いた。魁然先輩といい勝負だな、家柄のよさでは」
玲璃の名前を聞くと、出流はちらっと目線を上げて寺崎の顔を見やった。
「それもあって、いろいろとやっかまれるんだよね。いずるちゃん」
ため息まじりの三須の言葉に、四人の間に沈黙が流れた。
と、出流は重い雰囲気を変えようとしたのか、遠慮がちに口を開いた。
「でも、今日、三須ちゃんにいろいろ教えてもらって、少し元気、でたから……ホントに、ありがと、三須ちゃん」
「いやいや。こんなことくらいなら、あたしはいつでも相談に乗るし」
三須の明るいその言葉に、出流は泣きそうな顔になると、唇を震わせた。
「三須ちゃんがいてくれて、よかった。一人だけでも、クラスにそういう人がいてくれれば、また明日、学校行けるかもって、思えるから……」
そう言ってうつむいている出流の肩を、誰かがちょんちょんとつついた。戸惑いがちに顔を上げた出流の視界に、寺崎の明るい笑顔が飛び込んでくる。
「忘れないでくれよ、俺」
出流はたちまち頬をバラ色に染め、言葉もなく寺崎を見つめた。
「三須ちゃんだけじゃなくて俺もいるし、何だったら、このぼんやり紺野くんもつけるぜ……な、紺野」
紺野もほほ笑んでうなずいた。
「三人いれば、元気百倍だろ。何か困ったことがあったら、いつでも声かけてくれよ。何てったって俺は、級長なんだからな」
その言葉に、三須はプッと吹き出した。
「出た、寺崎の何たって級長」
「うっせーな、何か文句あんのかよ?」
むっとしてにらみつける寺崎に、くすくす笑いながら三須は答える。
「文句はないけどさ、何か軽いんだよね、その言い種」
「軽かろうが何だろうが、俺は級長がんばってんだから。温かく見守ってくれよ、平クラスメートの皆さんは」
「はいはい、分かりました。……って、あたしも書記だけど」
笑いながら、三須は出流を横目で見やった。
出流は案の定、頬を真っ赤に染めてぼんやりと寺崎に見とれている。
――寺崎からこう言ってもらえれば、いずるちゃんも少しは元気出たでしょ。
三須はくすっと笑うと、ぬるくなったカフェオレを口に運んだ。