6月1日 3
神代亨也が退勤したのは、午後七時を回った頃だった。
この日、彼は一人で暮らしている自分のマンションではなく、西城にある神代家本宅に向かった。
彼が実家に戻るのは久々だ。勤務が深夜に及ぶこともしばしばだからという理由で、五年前に彼は一族の反対を押し切って都心に自分のマンションを購入した。それ以来、一族の集まりがある時以外は、実家にはほとんど顔を出さない。
「ただ今、戻りました」
広々とした玄関に入り、どこか儀礼的にそう言う。シンプルだが質の高い素材を使って設えられたこの家は、主である神代京子の趣味が随所に反映されている。
と、奥から一人の男性が出てきた。六十代と見られる中肉中背の穏やかそうなその紳士は、にこやかな笑みを浮かべて亨也を出迎えた。
亨也はその紳士に、深々と一礼する。
「お久しぶりです、お父さん」
「元気そうじゃないか、亨也……じゃなかったか、総代」
「亨也でいいですよ」
亨也はくすっと笑って、靴を脱いだ。
この男性は亨也の父、神代順平だ。神代家は代々、女性がその家督を継ぐため、総帥の地位は京子が継いでいる。男性である順平は、主にその補佐役としての役割を負っているのだ。小児科医の資格も持つ順平だが、現場からは退いて、今は主に病院経営の事務的な部分を請け負っている。
「仕事の方は忙しいのかね、相変わらず」
「そうですね、なかなか休みが取れなくて。ご無沙汰ばかりで、申し訳ありません」
亨也は家族に対しても完全に敬語を使う。いつからそうなったのか、よく覚えていない。彼は早くこの家を出たかった。総代としての自分を日常から切り離し、自由になりたかったのかもしれない。
「飯にするかい? 今日はおまえが来るって聞いたから、私が腕をふるったんだ」
「ありがとうございます。できれば、先に総帥にお会いしたいのですが」
「京子はまだ帰っていないな。今日は遅くなるかもしれんから、先に食ってたらどうだ?」
「そうですか。じゃあ、いただきます」
順平はそれを聞くと嬉しそうにうなずいて、準備をしに奥へ引っ込んだ。亨也は荷物を置くと手を洗い、ダイニングに向かう。ごま油の香ばしい香りが漂ってきた。
広々としたダイニングのテーブルには、白身魚の揚げ物や、里芋の煮物、具だくさんのみそ汁などが並んでいる。亨也が席に着くと、順平は中央に置かれていた水菜のサラダに、熱々のごま油で炒ったニンニクとジャコをざっとかけた。
「相変わらず料理上手ですね、お父さん」
「やってみると面白くてな。おまえも一人暮らしをして、少しはうまくなったろ」
「ひと通りのことはできますけど、お父さんほど極められないな」
そう言って笑いながら手を合わせ、箸を取る。茶わんによそった飯をその前に置くと、順平も席に着いた。亨也を待っていたのか、順平も今からのようだ。
和やかに食卓を囲みながら、亨也はちらっと父親に目を向けた。
自分の作った料理の味を確かめるように、いろいろな料理に箸をつけてはうなずいたり、首をかしげたりしている。
――昔から、ちっとも変わらないな。
京子にさまざまな場面で主導権を握られ、補佐役という立場に甘んじながら、それを苦にする様子も、恥じ入る様子も一切見せたことがない。いつも穏やかな笑みを絶やさず、家族のために、一族のために、静かに自分の役割を行っている。
だが一時期、特に思春期のころは、亨也はそんな父親にふがいなさを感じて苛立っていた。男ならもう少し自分というものを押し出してもいいだろうと、物足りなさを感じて意味もなく反発した。自分自身の立場の重さに耐えきれなかった時期でもあり、その憤まんを振り向けていた部分もあったのだろう。
そんな彼が父親との関係を修復するきっかけになったのが、彼の受験の失敗だった。
異能を使って不正をするつもりはさらさらなかったが、さりとてまじめに勉強する気にもなれず、受験した八校中、受かったのは滑り止めの私立一校きり。その結果にぼうぜんとする彼を静かに支えてくれたのが、順平だった。
別に表立って何をしたわけではないが、日常のさまざまな場面で、亨也は父親の自分に対する愛情をひしひしと感じた。やがて自分も一人の大人として行動するようになり、最近になってようやく、誰しも順平のように振る舞えるわけでなく、ある意味それは究極の大人としての行動なのだと理解することができるようになった。そういった意味で、今では亨也は順平に、深い尊敬の念を抱いている。
しかし、それでも彼は家を出たかった。順平のことを理解することと、現実を受け入れる事は別なのだ。
「総帥は、今日は何のご用事だったんですか?」
サラダに箸をつけながら、亨也は聞いた。
「何だったかな? 一族関連の用事ではなかったようだがな。ただ、遅くなるようなことを言って出て行ったから」
穏やかな語り口で答える順平を見ながら、亨也はふと、紺野のことを思い出していた。
――そうか。だから、「順也」なのか。
自分の名である「亨也」は、京子の名から音を借りてつけられている。父の名前である「順平」から一字をとって、彼には「順也」という名がつけられたのだ。
――でも、分かりやすすぎるな。
捨てられた赤子の出自を完全に伏せるには、証拠となるものは極力減らさなければならない。それにしては、腹に口紅で書かれていたという「順也」という名前は、あまりにも分かりやすすぎるのではないか?
亨也はもう一度、父親の顔をチラッと見た。
――この人は知っていたのだろうか。あの男を捨てた時のいきさつを。
「何だ?」
と、視線に気づいた順平がけげんそうな表情で問いかけたので、亨也は慌てて目線をそらして箸を動かした。
「いえ、……あんまりおいしいので」
順平はちょっと笑って「だろう?」と言ったが、今度は逆にじっと亨也を見つめた。
「ところで、今日は突然、どうしたんだ?」
「え?」
「朝、急に電話してきて、帰りたいなんて言ってきて。……初めてだろ」
亨也は黙って箸を動かしていたが、その手をとめると、じっと目の前のテーブルを見つめた。
順平もそんな亨也を黙って見つめていたが、やがてふっとほほ笑むと、ぽつりと口を開いた。
「聞きたいことがあるんだろう?」
亨也はゆるゆると顔を上げ、穏やかにほほ笑む順平の顔を見つめた。
と、順平はふいに席を立った。「忘れてた」とつぶやきながら、奥から冷えたビールを一本持ってくる。
「自分が飲めないと、つい忘れてしまうな。すまなかった」
「いえ、私は今日は……」
「いいからいいから」
亨也に無理やりグラスを持たせると、ビールを注ぐ。明かりを反射してきらきら光る泡を見つめながら、亨也はさっき順平が口にした言葉の意味を考えていた。
すると、順平が自分のコップに麦茶を注ぎながら、おもむろに口を開いた。
「実は、話してやってくれと頼まれてるんだ」
「え?」
聞き返した亨也の顔を、順平はどこか悲しそうな目でじっと見つめた。
「自分の口からは言えないから、……私に話してくれと」
亨也は何も言わず、じっと父親の顔を見つめている。順平がサラダをつつきながら「まあ、飲め」と言ったが、享也は泡の消えていくビールに右手を添えたままで、それに口をつけようとはしなかった。
「京子は、なかなか子どもができなかった」
やがて静かに、順平は語り始めた。
「不妊症でね。何年も、結構つらい治療を続けていた。それでやっと授かった子どもだったんだ」
遠い目をして、天井のあたりを見つめながら言葉を継ぐ。
「嬉しかったよ、私も。でも、一番喜んでいたのは京子だったな。あの冷静な彼女が、妊娠検査薬を振り回してトイレから飛び出してくるんだから。本当に、幸せそうだった」
そう言うと、暗い表情で目線を落とした。
「だから、双子だと分かった時の衝撃は、凄まじかった」
亨也はグラスの表面を流れ落ちる水滴に右手をぬらしながら、じっと父親の口元を見つめいた。
「三日ほど、物も食べなければ眠りもしないで、ぼうぜんとしているかと思うと急に取り乱したように騒ぎ出して……。おなかの子に障るからとなだめたんだが、……大変だった」
順平は言葉を切ると、ふうとため息をついた。
「彼女にとって救いになったのは、最初に診察を受けた産院がもともと不妊治療をしていた産院で、神代の病院ではなかったことだった。まあ、それがこんな結果をひきおこす原因にもなったのだけれど」
乾燥して強ばった喉を潤そうと、亨也は初めて手にしていたグラスを持ち上げ、少しだけビールに口をつけた。でも、何だか、ただ苦いだけのように感じられた。
「彼女は産院の医師の協力を得て、一族に事実を告げない事を決めた。妊娠中は一人だけ妊娠していることで通し、出産は予定日より早く、先に一人だけ自分で取り出すことにして」
亨也は口をつけていたグラスから勢いよく顔を離し、その目を大きく見開いた。
「まさか、……転移させたんですか?」
順平は黙ってうなずいた。
「彼女の能力なら、わけもないから……。元気に泣いていたよ。今でも昨日のように覚えている。あの子の声と、小さな手足……」
声を詰まらせて、順平はいったん言葉を切った。
「あの子をコインロッカーに遺棄したのは、私だ。京子は転移の影響で、陣痛が始まってしまったから。京子が私たちを東京駅に転送してくれた。本当はもっとあの子と一緒にいたかったんだろうけど、早く行ってくれ、殺されてしまうからって泣きながら……」
亨也は肺に限界まで空気を取り込むと、それを腹の底から絞り出すようにゆっくりと吐き出し、目を閉じた。訳の分からない息苦しさを感じて、なんだか頭がくらくらした。
順平は震える右手で、自分の顔を覆った。
「あの時、一番つらかったのは京子なんだ。長い不妊治療の末に、ようやく授かった我が子。その我が子を、どうして殺すことができる? だが、自分は神代の総帥をはる身だ。自分の思いだけでは事が進まないことも重々承知していた。それでも、彼女は殺したくなかったんだ。どうしても、あの子を……」
順平は声を震わせながらやっとのことでこれだけ言うと、言葉を切った。じっと黙ってうつむいたきり、しばらくは何も言わなかった。
ずいぶん時間がたったあと、順平は重い口を開いた。
「だが、そのあと、あの事件が起きた時は、本当に愕然とした」
亨也ははっと目を開いた。
「十六年前の、あの事件……。順也という名にまさかとは思ったが、あの赤子が産まれたということは、そういうことだからね」
順平は暗い目で前方を見据えた。
「当然のことながら、京子は一族から疑念の目を向けられた。それをやり過ごすために、京子は後ろ暗いことにも手を染めたのかもしれない。だが、私はあの時、あの遺伝子検査の結果が本当に東順也のものだったのかどうか、京子に問いただすことができなかった。京子が偽証をしたのであれば、わたしも共犯だ。ともに責めを受ける覚悟はできている」
そう言うと、自嘲的な笑みを浮かべてうつむく。
「だが、われわれがあの子に対して犯してしまった罪は、どんな責めをうけようが償いきれるものではないな。あの会合のあと、京子に見せてもらったよ、私も。本当に、かわいそうなことをしてしまったな。いや、そんな言葉じゃ言い尽くせないくらい、ひどいことを……」
順平はそこで言葉を切ると、下を向いて黙り込んだ。
亨也もじっと黙って、汗をいっぱいにかいたグラスの中に浮かんでは消えてゆく白い泡を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「いくつか、聞いてもよろしいですか」
順平は顔を上げて亨也を見た。
「赤ん坊の腹に書かれていた、順也という名……。あれは、誰が書いたんですか」
「京子だよ」
順平は即答すると、悲しげにほほ笑んだ。
「私は止めたんだ、出自の割れるようなことはしないほうがいいと。でも彼女は、自分たちはこの子に何もしてやれない、せめて名前だけでも贈ってやりたいと言ってきかなかった。もしこのことで出自がばれた時は、全て自分が責任を取るからと……」
亨也はしばらくの間、消えゆくビールの泡をじっと見つめて動かなかったが、突然グラスを手にすると、一気にそれを飲み干した。空になったグラスをテーブルに置き、その汗をかいた表面を見つめていたが、ややあって、ようやく重い口を開いた。
「今のお話からすると、どちらが先に産まれてくるかは、まだ分からない状態だったのではありませんか」
順平は亨也から目線をそらした。心持ち青ざめているようだった。
「京子は一応、先に頭の下がっている方を残し、上になっている方の子を取り出した。ただ、確かに陣痛はまだ始まっていなかったわけだから、本当にその順番でよかったかどうかは、本当には……分からない」
亨也は自分の背中が、じっとりと汗ばんでいるのを感じた。一瞬、足元が音をたてて崩れていくような幻覚を味わい、はっと息をのむ。頭がくらくらして、頭痛もひどい。昨夜一睡もしていないせいもあるだろうが、亨也はこのあまりにも衝撃的な事実に何を言うこともできず、しばらくはただぼうぜんと目の前を見つめる他はなかった。