6月1日 1
6月1日(土)
夜中の十二時を過ぎてもなお、治療は続いていた。
ある程度の応急処置を施したあと、亨也は寺崎家に二人を抱えて転移した。その時には既に、時計の針は夜の九時を回っていた。そのあと、享也は紺野の部屋にこもり、今もずっと治療を続けているのだ。
「紘。まだ起きてたの」
薄暗い台所のテーブル脇にぼんやりと座っていた寺崎は、みどりの声に振り返った。
「神代先生、かなり時間がかかるから、寝ていてくださいっておっしゃってたのに」
「おふくろの方こそ、珍しく宵っ張りだな」
みどりはちょっと笑って、車椅子を寺崎の隣につける。寺崎はそんなみどりに小さく頭を下げた。
「今日は悪かったな。全然連絡入れねえで、遅くなって」
「仕方がないわよ。本当にたいへんだったわね……ご苦労さま」
寺崎は黙り込んでうつむくと、テーブルの上で組まれた自分の両手をじっと見つめた。
「コーヒー、淹れようか。こんな時は」
みどりはテーブル脇に置かれていたサーバーを車椅子の簡易テーブルに載せると、車輪を回して方向転換した。
「……おふくろ」
「ん?」
サーバーに水を注ぎながら、みどりはちらっと息子に目を向けた。
「今日、とんでもねえ事実が発覚したんだ」
「どんな?」
伝えるべき言葉を探すように黙り込んだ息子を、みどりはしばらくの間サーバーを片手に優しく見守っていたが、突然こんなことを口にした。
「もしかして、神代先生と紺野さんが兄弟、とか?」
寺崎は目を丸くすると、勢いよく顔を上げた。
「おふくろ……どうしてそれを?」
「あら、やっぱりそうだったの」
みどりはさして驚いた風もなく、コーヒー豆をミルに量り入れながら笑った。
「初めて先生がうちにいらした時から、何となくそんな気がしていたの。だって、二人ともよく似ているし、何といっても神代先生の紺野さんを見る目が、普通と全然違うんですもの」
寺崎は感心しきったようにみどりを見つめながら重ねて問う。
「普通と違うって?」
「うーん、そうねえ……何て言うか、凄く優しいっていうか、温かいっていうか……とにかく羨ましくなっちゃうような目で、いつも見てらしたから」
「羨ましい?」
寺崎が聞きとがめると、みどりはちょっと顔を赤らめて笑った。
「だって、そんな目で見てもらえたら嬉しいじゃない。とにかく、そういうことよ」
「そういうことねえ……」
寺崎は小さく息をつくと、テーブルに突っ伏した。しばらくは両腕に顔を埋めたままで動かなかったが、やがて、ぽつりと口を開いた。
「……俺、許せねえんだ」
「何が?」
「紺野を捨てやがった、神代総帥が」
みどりは黙って、滴り落ちるコーヒーの黒い滴を見つめた。
「東京駅に捨てられて、あいつの滅茶苦茶な人生が始まった。捨てられさえしなければ、あいつはもっと違った人生を歩めた。……違うか?」
寺崎は、肺の中にある全ての二酸化炭素を絞り出すようなため息をついた。
「神代総代とあまりにも差がありすぎんだよ。一人は一族の長としてあがめ奉られ、もう一人は同じ血が流れていながら、ゴミ同然に捨てられて、悲惨な目にあいつづけて……」
コーヒーメーカーが、こぽこぽと無邪気な音を立てた。みどりは黙ってサーバーを手に取り、用意しておいたマグカップにコーヒーを注ぐ。白い湯気が立ち上り、いい香りが部屋中に満ちた。
「こんなんじゃ、紺野がかわいそうすぎる。納得いかねえこと、この上なくて……」
みどりはコーヒーの入ったカップを、黙って寺崎の前に置いた。自分の前にも置くと、しばらくの間じっとその揺れる黒い表面を見つめていた。
「……かあさんは、違うような気がする」
ややあって、ぽつりと口を開いたみどりの顔を、寺崎はいぶかしげに横目で見つめた。
「何が、違うって……?」
「確かに、紺野さんはかわいそうよ。かわいそうすぎて、涙も出ないくらい」
白い湯気をはらんで揺れるコーヒーの表面を見つめながら、みどりは静かに言葉を継いだ。
「でもね、かあさんは母親だから、神代総帥の気持ちが何となく分かる。自分の子がかわいくない母親なんていない。たとえ双子でも、どちらもかけがえのない自分の子だから」
そう言うと、みどりは隣に座る寺崎の顔をじっと見つめた。
「紘は、父さんのお位牌の隣にある小さなお位牌が誰のだか、知ってる?」
「え?」
寺崎は居間の仏壇にちらりと目を向ける。
「知ってるよ。俺の兄弟だろ、あの時流れた……」
みどりはうなずくと、遠い目をした。
「あの子が死んでしまった時、母さん、気が狂いそうだった。父さんが死んで、あの子が死んで、自分の足もなくなって……もうどうでもいいって、そう思った時も確かにあった」
言葉を切ってもう一度寺崎を見つめると、その頬に悲しげな、それでいて優しいほほ笑みを浮かべる。
「その時に母さんを救ってくれたのが、わずか七カ月でお腹から取り出されて保育器に入っていた、あなただった」
寺崎は、ゆっくりとかみしめるように動く、乾燥して口紅のはげたみどりの唇を、じっと見つめた。
「小さかったあなたが、確実に大きくなっていく姿を見て、……ああ、生きてるんだなって。だったら、自分も生きなきゃなって……そう思えたの」
寺崎を見つめるみどりの目は、薄暗い台所を照らす電灯の黄色っぽい光を反射して、小さな光を放っていた。
「うまく言えないけれど、親にとって子どもは、何物にも代え難い宝なの。どん底からすくい上げてくれるくらいの力を持った……。神代総帥だって同じだと思う。その子を捨てなければならなかった総帥の気持ちを思うと、母さんは逆に、涙が出るくらい切なくなる。どんなに悲しくて、どんなに無念だったろうって」
寺崎は黙ってコーヒーの黒く滑らかな表面を見つめていたが、ややあって、ぽつりとつぶやいた。
「……よく、分かんねえ。俺には」
「そうね。そうかもしれない」
コーヒーを口にしながらそう言うと、硬い表情を浮かべてうつむく息子に、優しい目を向ける。
「取りあえず私たちにできることは、目の前にいる紺野さんを自分たちなりに支えてあげることくらい。誰かを憎んだり怒ったりするのは、私たちの仕事じゃないわ。……違う?」
寺崎は目を閉じて大きなため息をつくと、ゆっくりとうなずいた。
「それは、その通りだと思う」
みどりはコーヒーをもうひと口飲むと、明るい笑顔でにっこり笑った。
「せっかく淹れたんだから、コーヒー、飲んだら? 冷めちゃうわよ」
☆☆☆
小雨が降りしきる薄暗い通りを、神代亨也は早足で駅に向かって歩いていた。間もなく午前五時、始発電車が発車する。シャッターの閉まった商店街を抜け、改札口への階段を駆け上がり、ポケットから寺崎に借りた小銭を取り出して切符を買う。
転移しようと思えばできたのだが、亨也は何となく電車に乗りたかった。一晩中、微細な念動力を発動し続けて、疲れていたせいもある。病院でも、手術が立て込んで疲れた日は、どんなに遅くなっても間に合う限り電車を使っていた。亨也がちらっとそんなことを言ったので、寺崎がぜひにと小銭を握らせてくれたのだ。本当は大銭を握らせようとしたのを、亨也が固辞したのだったが。
自動改札を通ろう顔をあげた亨也の視界に、見覚えのある人物の姿が映りこんだ。
腰ほどもある茶色い髪をひとまとめに束ね、淡い色のワンピースに薄手のトレンチコートを羽織った、大きな目の美しい女性……沙羅だった。
沙羅は亨也を見ると一瞬ほっとしたように表情を緩めたが、すぐに硬い表情に戻ると、目線を落とした。
亨也はほほ笑むと、そんな彼女に歩み寄った。
「ずっと、待ってたの?」
沙羅は足元に目線を落としたまま、小さくうなずく。
「お金、持ってらっしゃらなかったでしょう。お荷物も……」
沙羅はそう言って、手にしていた亨也のカバンをおずおずと差し出す。亨也はそれを受け取ると、軽く頭を下げた。
「ありがとう。お金は、寺崎さんに借りたんだ。でもよかった。転移しようかとも思ったから」
「転移反応を感じたら、私も帰ろうと思ってました。でも、ずっと感じなかったので……」
亨也は自動改札に切符を通し、ホームに向かって階段を下り始めた。沙羅も慌ててそれに続く。
ホームに降りた二人は、しばらくは無言で線路を見つめていた。
「……あの、総代」
ややあって、沙羅が意を決したように口を開いた。亨也は線路に顔を向けたまま、横目でちらっと沙羅を見やる。
「本当に、すみませんでした。私、あのあと、何てことをしてしまったんだろうって……」
ずっと泣きはらしていたのだろう、沙羅の目は真っ赤に腫れ上がっていた。その目に再びあふれ出した涙が、瞬きとともに白い頬を伝い落ちる。
「あの男を総代が大事に思っていたことを、私、知っていたんです。それなのに、あんなことを……」
嗚咽に言葉を奪われ、うつむいてしゃくり上げる沙羅を、亨也はどこか優しいまなざしで見つめていた。
電車が入線してくるらしく、案内表示がちかちかと点滅し始めた。遠くに見える踏切が、かんかんと生真面目なリズムを刻みながら一日の始まりを告げている。
「もういいよ」
「え?」
聞き返した沙羅の言葉は、入線してきた電車の騒々しい音にかき消された。
日中よりははるかに人の少ない始発電車に、二人は黙って乗り込んだ。座席は十分に空いていたが、二人とも座らずにドアの近くに立つ。空気が勢いよく抜けるような音ともにドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出した。
「あの男は、大丈夫でしたか」
沙羅は亨也を上目遣いに見上げながら、遠慮がちに問いかける。亨也は窓の外に目を向けながら、うなずいた。
「相変わらずぎりぎりだったけどね。でも今回、彼は防護できたから。初めてじゃないかな、彼が自分自身への攻撃に対して防御したのは」
心なしか嬉しそうにそう語る亨也を見つめながら、沙羅は胸にわだかまる罪悪感がより一層重く心にのしかかってくるのを感じていた。
「今は死ねないって……そう言っていた」
亨也は窓の外を見ながら、つぶやくように言葉を継いだ。
「何だろうね、彼に心境の変化をもたらしたものは。また今度、じっくり話を聞いてみたい気もするね」
そう言って笑いかけたが、沙羅が自分を複雑な表情で見つめているのに気がついたのだろう。亨也は首をかしげた。
「何?」
「あ、いえ……」
慌てて目線をそらしてうつむく沙羅を見ながら、亨也はくすっと笑った。
「昨日の沙羅くん、面白かったよ」
「え?」
赤くなって顔を上げた沙羅を、亨也はくすくす笑いながら見おろす。
「必死で平静を装っているけど、何か隠してるのがみえみえで。いつも冷静なのに、すごいギャップだった」
沙羅は表情をこわばらせると、目線を落として黙り込んだ。ややあって、小さい声で「すみません」とだけ、絞り出すように口にする。亨也はそんな沙羅を戸口にもたれて見つめながら、静かに言い放った。
「もう二度と、あんなマネはしないでくれ」
沙羅ははっと顔を上げ、自分を見つめる亨也の視線をいったんは受け止めたが、すぐにその長いまつ毛を伏せた。
「本当に、申し訳ありませんでした……」
亨也は窓の外に目を向けると、静かに語り始めた。
「私は、これ以上は自分から事を荒立てるつもりはない。魁然側が何か言ってきたら答えるが、恐らくそういうことはないだろう。あちらが紺野に手を出しても、神代総帥がそれに対して何も言えないのと同じように」
沙羅はじっと亨也の言葉に耳を傾けている。
「ただ、今後も紺野に対して手を出してくる恐れはある。その時は、私は紺野を助けるつもりだ。でも、それ以上のことはしない」
そう言うと亨也は、うつむいている沙羅を優しく見つめた。
「沙羅くんは、私の立場のことを心配してくれていたようだけど、それは今のところは大丈夫だろう。神代総帥自身が事実を詳らかにし、一族に判断を委ねない限り、このまま事は進んでいくと思う」
それから、ちょっと目を伏せて笑う。
「別に、立場が揺らいでも構わないんだがね」
その言葉に沙羅は息をのみ、窓の外を眺める亨也の端正な横顔を見つめ直した。亨也は淡々と、独り言のように続けた。
「私自身、今回のことで、組織にも、その目的にも、かなり嫌気がさしたから。ただ、そうも言っていられないような事情もあるから、事を荒立てるつもりはないけれど」
そう言うと、普段の様子からは考えられないほど鋭い目でどこか遠くを見つめながら、ぽつりと付け加える。
「とにかく、誰にも紺野は殺させない。それだけだ」
「総代……」
沙羅は何か言おうとしたのか、口を開きかけた。だが、言うべき言葉が見つからなかったのか口を閉じると、電車の軽快なリズムに身を委ねながら、朝日に照らされて金色に輝く亨也の髪を、なんとも言えない表情で見つめていた。